田舎への楽しい帰省



 私の実家が新潟県の弥彦の近く、パパの実家が同じ新潟県の魚沼市のため、正

月とお盆には、いつも家族そろって帰省していました。以前は新幹線で帰省して

いましたが、やがてパパが中古車を購入してからは、車で帰省するようになりま

した。新幹線の時は子供も小さくて手がかかり、切符の予約やら、荷物やらで大

変でしたが、車になってからは、とても楽になりました。1年に2回の家族そろ

っての旅行なので、親子ともどもに楽しみでした。渋滞に巻き込まれると、パパ

が大変でしたが、普通は6時間くらいで新潟の実家に着きました。

 夏は、私の実家の近くがきれいな海水浴場で、そこで海水浴をしましたし、冬

はパパの家の近くにスキー場がありましたから、パパがスキーを教えてくれまし

た。私は新潟県生まれなのですが、平野部育ちですので、それまでスキーは1度

もやったことがありませんでした。パパは、それこそ3歳くらいからスキーを始

め、小学校から、中学、高校、大学まで冬の体育はスキー授業で、中学時代はス

キー部に所属していたほどですから、なかなかの腕前です。

 それまで忙しくてスキーをしていませんでしたが、家族にスキーを教えるよう

になってからがぜんハッスルし、正月は田舎に挨拶に行くことよりも、帰りに湯

沢でスキーに乗るのが目的みたいになってしまいました。でも、家で休みに何を


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するでもなくごろごろしているパパよりも、喜んでスキーの準備をしているパパ

のほうがいいですから、私も悪い気はしませんでした。それに、私も子供たちも、

やがて何とか自分で滑れるようになり、スキーの楽しさや、スキー場から見る雪

山のすばらしさを感じられるようになりましたから、パパに感謝ですね。

 田舎に帰るには、国道246号線で多摩川を超え、環状8号線を北上して関越

自動車道に向かいます。途中の世田谷区八幡山で大きな駐車場とマンションの場

所に来ると、パパは決まって子供たちに「ここがパパとママの出会いの場所だよ」

と自慢そうに語ります。

 1975年1月21日の夜、当時はボーリング場だったこの場所で、文鮮明先

生を通じて私はパパと運命的な出会いをしたのでした。パパは私に初めて会った

時、「好みのタイプとは違うけど存在感を感じさせない空気のような人」と思い、

傷バンドを張った私の指を見て、「自分が神様に代わって、この人を幸せにして

あげなければならない」と決意したそうです。

 その後数年間は遠距離恋愛で、交換日記をしてみたり、映画を見たり、屋根の

上のバイオリン引きの森繁久弥の舞台を見たりして楽しい時期を過ごしました。

 1979年7月に軽井沢に新婚旅行に行き、それから川崎市で生活するように

なりました。初めは寮の6畳の1間で、家具も何もない所からの出発でしたが、

日曜になるとパパの運転する自転車の荷台に乗り、元住吉に布団や家具を買出し

に行くのが、とても楽しみでした。ファンシーケースと本を入れるカラーボック


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スしかない部屋に、パパはまずテレビと当時出始めたばかりの高価なビデオカメ

ラを買うのですから驚いたものです。

 この頃、パパは出版社の編集部に勤務し、私はその会社の経理となっていまし

た。よく考えてみると、仕事の上でも、同じ会社に二人で働いていた期間が10

年以上はありました。お互いに仕事の内容には口をはさみませんでしたが、事情

がよく分かるという意味では、夫婦で同じ職場というのはとてもいいことだと思

います。

 子供は3人授かりました。「そろそろ子供が欲しいね」と二人で相談し、「い

い子供が授かりますように」とお祈りしながら愛しあう時を持ちました。そうい

う意味では、我が家は完全に計画出産でした。基礎体温を測り排卵日を予想して

の夫婦愛で、これはパパが尊敬する李ヨハネ先生の、「人には生まれるべき運命

の日がある。つまり、身ごもるべき日も決まっている。その日には精神的に高め

られ、真の愛の中で身ごもるべきである」というお話に感動しての実践でした。

 最初の子は女の子で、新潟の実家の近くの病院での出産でした。次は東京都内

の一心病院でしたので、パパは出産に立ち会うことができました。パパは、初め

て出産の様子を見て、とても感動したそうです。

 確かに子供の誕生は、生命の神秘を感じさせられますし、子供は夫婦とは全く

別の人格を持っていて、強い運勢がありますから、とても感動させられます。夫

婦の愛に倦怠期が来ても、子供の様子などから夫婦の会話が継続しますから感謝


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です。

 2番目も女の子でした。生まれた子供が2人とも女の子で、私はとても責任を

感じました。実は私は3人姉妹の長女ですので、なんとかして男の子を生まなけ

ればならないと深刻になりました。そこで、いろいろ研究して子供を生み分ける

方法について書いてある本を読み、パパにも読ませました。また、漢方薬を買っ

てきて体質改善のために夫婦で飲みました。「神様、どうか我が家に男の子を与

えてください」と夫婦でお祈りしました。私は、パパと同じ2月に産みたいとパ

パに話しました。パパは、2月14日のバレンタインデイが誕生日でした。

 2月に出産するためには、逆算するといつ身ごもる必要があるかが分かります。

私の排卵日がその期間に入ったある朝、パパは突然、「ママ、今しかないって。

2月に身ごもるために、今この瞬間に身ごもりなさいという思いが来た」と言

ってきました。私は、夢を見ないほうですし、霊的感性はまったく駄目なので

すが、パパはどうも、ご先祖様が働いているようで敏感なのです。

 「朝で忙しいのに」と私はぼやきながらも、パパとの大切な時間を持ちまし

た。そして、このパパへのお告げの通り、私は3人目の子供を身ごもったので

す。

 まずパパが数日後に、私が身ごもったという夢を見ました。宇宙の中から大

きな星が飛んで来て男の子の赤ん坊となり、その時アメリカの有名なワシント

の名前が聞こえたそうです。それで図書館で調べてみると、ワシントンの誕生

日は2月22日で、父親の誕生日はパパと同じ2月14日だったそうです。ワ

シントンはおそらく守護霊なのでしょう。

                                      
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 やがて私は近所の大学病院に行き、身ごもったことを確認しました。予定日は

2月15日と言われました。今度で3人目のため分娩の時間が早いと予想され、

できるだけ近くて、すぐ行けるように近所の大学病院にしたのでした。

 お腹が大きくなってくると、赤ちゃんの発育状態を調べるために超音波診断

を受けますが、その時に赤ん坊は女の子だと言われました。私は、あれだけ努

力したのに3人目も女の子になってしまったのかと失望し、パパにごめんねと

謝りました。パパは「女の子だっていいじゃないか」と私を慰めてくれました。

でも、パパは男の子が生まれるという夢のことを、忘れることは出来なかったそ

うです。

 予定日の2月15日になっても何の兆候もありませんでした。そして2月2

2日の朝、陣痛が始まって病院に行き、午後0時47分、3048グラムの男

の子が生まれました。

 私は、男の子が生まれたということでほっとし、神様に感謝しました。女の

子と診断した先生は、子供の男女の判定では定評のある先生でしたが、誤診と

ということでとても自信を失くされたそうです。男の子はオチンチンで判断す

るのですが、体についていて見えなかったのだろうということになりました。

 パパは、2月22日生まれで男の子、しかも父親の誕生日も同じ2月14日

ということで、あの夢が正しかったと確信したそうです。

                                      
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 家族が5人になってからも川崎市の宮前区のアパートに住んでいましたが、私

の父が脳溢血で亡くなり、年老いた母ほ、胃ガンの手術を受けて体も弱ってきた

ため、母のことが心配になってきました。

 そこで母をこちらに呼んで、同居できる家を探そうといろいろ調べ、住宅公団

に応募しました。何度も応募すれば、やがて優先権が与えられると知り、まずは

応募しようということで、横浜市都筑区のセンター南に新しく建設された公団住

宅に申し込みました。今住んでいる宮前区よりは遠くなるのですが、都市計画で

新しくできた港北ニュータウンで公園も多く、すばらしい環境でした。家族そろ

って見学会に行き、こんなところで生活できたら最高だねと話していました。

 でも、そこが当たるとはとても考えられず、パパの知り合いで武蔵小金井に購

入した1軒屋を、長期海外赴任のために貸してもいいという人がいて、そこをお

借りしようということで、ほぼ話が決まっていました。

 そんなある日、住宅公団から当選の葉書が届いたのです。初めて申し込んだ公

団で、それも1回目での当選です。我が家にすばらしい幸運が舞い込んで来たよ

うに思われました。

 「パパ、公団が当たったの。初恋の人から数十年ぶりに手紙が来たような気

分よ」。私は、嬉しくてたまりませんでした。


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 引越しは7月で、ちょうどパパの海外出張と重なり、業者にやってもらったと

はいえ、整理が大変でした。それまで使っていた家具や洗濯機、乾燥機などは、

寸法の関係で使えないものが多く、結局捨てて新しく購入しなければならないも

のがほとんどでした。

 公団での生活は、車がないと買い物が不便でしたが、それ以外はとても快適で、

我が家にとっても幸せな時代でした。いつか母にも来てもらおうということで、

一度来てもらったことがありましたが、母は生まれ育った場所から出たくないと

いうのと、年寄り同士の友達がいないと寂しいということで、結局は新潟に一人

で暮らすということになってしまいました。

 子供たちは、留学したり、部活でがんばったりでそれぞれ楽しい時間を過ごせ

たと思います。私もパパも、子供に何かを強制させるのは嫌いで、子供の好きな

ことをやらせる方針でしたので、みんなのびのびと成長することができたと思い

ます。

 子育てでのパパの「愛情においてくったくの無い子供に育てる」という方針は、

パパの子供たちへの愛と、私たちの夫婦愛の中で、なんとかできたと思います。

 高校生時代特有の反抗期もほとんど無く、子供たちも、「今どき、親子がいろ

いろ話せる家族ってほとんど無いよ」と喜んでいました。夫婦仲も、子供たちと

の仲も良く、とても幸せでした。もちろん、しつけや行儀作法、言葉使い、生活

態度は不足だらけで、お恥ずかしいかぎりですが。


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