子供の思い出



パパの仕事が、海外でのことが多かったせいもあり、我が家の子供たちも外国

についてはあまり抵抗がありませんでした。

 まず長女が、小学六年の時に韓国に留学に行きたいと言ってきました。パパは、

韓国には数十回行っていますから、外国への留学自体についてはいいことだと思

っていましたが、わざと「今は憧れていても、そのうちに嫌になるかもしれない

ぞ」と言いましたが、長女の決意は固く、友達とともにソウルに留学してしまし

ました。

 さすがに子供が行ってしまうと、パパも私も1週間は落ち込んでいました。そ

れでも残りの二人の子供がいますし、おしゃまな次女が毎日にぎやかにしてくれ

ていましたから、なんとか乗り越えることができました。

 長女は、はじめの1年間に韓国語を学び、それから韓国の生徒に混じって中学、

高校へと通いました。韓国の歴史の時間には、日本の侵略についての記述が多く、

クラスの中で唯一の日本人ということで、先生に睨まれながらの授業だったそう

です。またサッカーの好きな国民で、日本と韓国の試合になると、「この試合を

どう思うか?」と質問され、とても嫌だったそうです。


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 長女は冬休みと夏休みに日本に帰ってきても、家の中に居場所がなく、時々感

情を爆発させていました。日本人なのか韓国人なのかどちらつかずの中途半端な

立場にあり、また親の愛を一番受けたい時に親元に居なかったわけですから、下

の二人との情的成長の差ははっきりとしており、親としては、切なく申し訳ない

思いでいっぱいでした。

 高校を卒業する時に、長女は自分の限界を感じ、日本の大学に入りたいと言っ

てきました。私もパパもそのほうがいいということで、パパが帰国子女を受け入

れてくれる大学を探し、長女も真剣に勉強して、なんとか国立大学に合格するこ

とができました。

 日本に帰ってからの長女は、ようやく自分の居場所を見つけ、精神的にも安定

してきました。そして、それまでの七年間の空白を埋めるかのように、私に甘え

ていろいろ相談してくるようになりました。私も長女、娘も長女ということで完

璧症で性格も似ており、よく話をしました。娘は、まだ自分の価値観で人を裁く

ところが強く、すぐむくれてしまうことが多いので、この点を直して人から可愛

がられる人間になって欲しいと願っています。

 何事にも慎重な長女に対し、次女は積極的で行動的な性格です。実は若い頃の

私に似ていて、心配していました。私は商業高校を卒業すると新潟市内の証券会

社に勤め、アフターファイブは社交ダンスに熱中し、給料は全部衣装代や洋服に

つぎ込んでおしゃれをしていました。後でパパは、この頃の私のビキニ姿の写真

を見つけて驚いたほどです。この頃の写真は、実はあまりに恥ずかしくて、実家


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に残しておいたものでした。「あのママにこんな時があったなんて!」と、後で

この写真を見つけたパパと子供たちがとても盛り上がり、「ああ恥ずかしい」。

 次女はパパに似て背が高く行動的で、中学生時代はハンドボール部、ソフトボ

ール部、高校生時代はバトン部にと進んでいきました。体を動かしていないと落

ち込んでしまう性格で、部屋もちらかしたままで動きまわっていました。そのた

め私と衝突することも多く、どうも次女とは相性が悪いのです。その点パパは次

男でしたから、自由な発想と行動的な性格は次女と似ており、話が合うようで、

私と口喧嘩したあとは決まってパパがフォローしてくれました。

 ちなみに、長女と次女への初潮教育はパパにお願いしました。私はそういう話

をきちんとするのが苦手で、「パパお願い」とパパに話してもらったのでした。

 次女は小学の頃、アパートのベランダに幽霊が見えたと言い、パパから「君は

将来霊能者になれる」と保障されるくらいに感性の鋭い子でした。ただ、彼女自

身の問題を追及しようとすると、決してそれを認めようとせず、逆にくってかか

ってくる性格が問題でした。パパがその点を聞くと、「自分が弱い人間だから、

その問題点を認めると駄目になってしまうように思えて、自分を守るために相手

を攻撃してしまう」と話してくれたそうです。

 次女は英語が得意で、大学はアメリカに留学したいと言ってきました。年頃の

娘をたった一人でアメリカに送るというのは、親としてはとても心配です。治安

の悪化が伝えられていますから、レイプされて不幸になってしまうことや、最悪


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は殺されて死体との面会も有り得ると心配しました。でも、娘が行きたいとい

うからには、それを認めてやるしかありません。

 大学は、アメリカ西海岸のサンディエゴにある州立大学に決まり、まず1年

東京で英語の勉強が始まりました。次女は得意の頑張りで表彰され、奨学金を

もらえるまでになりました。英会話の能力も上がり、試験も受かっていよいよ

アメリカに行くことになりました。

 次女がアメリカに出発する前に、母親としてできるだけのことをしてあげたい、

思い出を作っておきたいと、私は心を込めて夕食を作りましたが、娘は数日間、

家に帰ってきませんでした。仲のよい数人の友人とカラオケに行ったり、語りあ

って夜を明かしたのだそうです。

 アメリカに出発する日の朝、あざみ野駅で私は娘を見送りました。私は一言

も言葉をかけられず、ただボロボロと涙を流すだけでした。「これで、もうこ

の子と話すことができなくなる」という気持ちでどうしようもありませんでし

た。私がそんな泣きかたをするのを見たのは、パパは初めてだったそうです。

 パパが後で次女に、「ママは君との時間を持とうと、夕食を作って待ってた

んだよ」と言うと、次女は初めて家を出ることになるので、アメリカに行って

ホームシックになるのが怖くて、それでわざと家に帰ってこなかったと答えた

そうです。

 アメリカに渡った次女は、新しい環境に慣れるために実際はホームシックど

ころではなかったようです。大学に通うために車が必要だと分かり、運転免許


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を取り、中古車を買い、アルバイトを始めてたくましく大学生活を始めました。

 パパは毎週のようにメールで娘と連絡を取り、私にいろいろ伝えてくれました。

インターネット社会で、国際電話をかけなくても手軽に連絡できるため、まるで

国内にいるかのようでした。

 サンディエゴは、メキシコに近くて気候も暖かく治安も良くて、娘はのびのび

と大学生活を送っているようでした。写真を見ると、まるで情熱的なスペイン人

のようで、アメリカの生活に溶け込んでいることが分かりました。

 日本人の経営する日本食レストランでアルバイトをするようになり、夏休みや

冬休みに日本に帰ってくると、そこで覚えたカリフォルニア巻きなどの寿司を作

ってくれて、家族を喜ばせてくれました。

 パパは、この次女に期待していましたので、アメリカの有名な観光地に行って

くること、アメリカで自分探しをすること、それで生きていける技術を身に付け

ること、神様について学ぶことなどをアドバイスしていました。次女は、アメリ

カ生活が肌に合うようで、卒業後もアメリカで働いて生きていきたいと希望して

いました。

 私は次女が、すぐにセックスに走るアメリカの風潮に流されることなく、純潔

を守り私とパパのような夫婦となって欲しいと願い、神様に祈り続けていました。


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 三番目の男の子は長男ですが末っ子で、私にとってもパパにとってもそれは可

愛い子でした。次女からは、パパとママは息子を甘やかしすぎるといつも叱られ

ていました。

 小さい頃はとても可愛くて、子役モデルになれるのではないかと思えるくらい

で、上の子からもとても可愛がられていました。しかし、勉強が嫌いでスポーツ

にも興味なく、家でゲームばかりしていました。私はそれが嫌でしたが、パパは

好きなことをやらせるのが一番だと、息子が欲しがるゲームやプラモデルを買っ

てあげていました。男の子のことは私にはよく分からず、パパにお任せでした。

 小学の高学年になってから、小児喘息の症状が出て、時々学校を休むようにな

りました。アレルギー性の喘息で、ゴミやホコリの多い所は全く駄目です。梅雨

や秋の長雨の季節になって湿度が高くなると、朝から気道をヒューヒューと鳴ら

して、ベッドから起き上がることができませんでした。

 初めは、学校に行くのが嫌でわざとそうしているのではないかと思ったので

すが、パパが「これは喘息だ。無理無理」というので、仕方なく学校に欠席の

連絡をしました。ほとんど学校を休んだことのない私は、この連絡をするのが辛

くて、何度もパパに代わってもらいました。

 おかげで、我が家の電話機の前の電話番号表の一番上に、息子の学校の電話番

号とクラス名が書かれ、週に1回は休むのが当たり前となってしまいました。喘

息の発作が出ると、とても体力を消耗するようで、朝から死んだように眠り、夕


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方になってやっと起き上がるのでした。

 当然勉強はますます嫌いになり、成績は3が当たり前で、2も増えるようにな

り、学校の三者面談に行くのも、恥ずかしい状況でした。

 喘息には水泳がいいという会社の上司のアドバイスもあり、水泳をやらせまし

た。息子も水泳は好きになり、中学では水泳部に入ってがんばりました。良い友

達もでき、自信もついて良かったと思います。家族で新潟の海に行った時も、そ

れは素晴らしい泳ぎを見せてくれて、家族みんなで感動しました。

 中学3年になり、高校進学の難題が出てきました。息子の成績で入れるような

高校は、まず無いのです。数学も駄目、英語も駄目でまともな成績は、歴史と古

文くらいだったのです。好きな科目は、クラスで上位の成績なので、パパは「ま

ったく馬鹿ではないようだ」とそれなりに評価していました。

 しかし、こんな成績で進学校に行けば落ちこぼれになるのは確実で、担任の先生

といろいろ相談した結果、私立の男子校がいいのではないかということになりまし

た。パパと私は、その高校の説明会に参加し、生徒もおっとりしていて雰囲気も良

く、ここならやっていけるだろうと思いました。

 実際に入学してみると、まったく勉強しない息子でも、成績はクラスの真ん中く

らいでいじめも無く、なんとかやっていけるようで安心しました。


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 パパが教えたプラモデル作りも、やがてはパパをはるかに上回るようになり、

細かな組み立てや塗装もできるようになりました。手先はパパゆずりで器用なよ

うです。

 高校卒業後の進路について、息子は勉強が嫌いなため大学進学については最初

から考えておらず、パパは自動車整備技術を身につければアジアや発展途上国で

役に立つから、自動車整備の専門学校に進んだらどうかとアドバイスしました。

息子もなるほどと共感し、自分の将来に希望を持つようになってくれました。

 一人で部屋にこもり、毎日ゲームばかりの息子が、まず喘息を治し、社交性を

身につけて、人の役にたつ人間になって欲しいものです。


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