アメージンググレース



 私が8月16日に倒れ、30日の昇華式が終わって、ようやく我が家は静けさ

を取り戻しました。

 パパはこの間、とても気になっていたことがありました。それは、家賃、電気、

ガス、水道、電話代などの支払いです。我が家の家計は全部私がやっていました

から、パパはどうなっているのか、全く分からないのです。尾瀬から帰ってきた

パパは、さっそく私が作っておいた支払いファイルを見つけだして調べ始めまし

た。

 「パパに我が家のシェフと家計を全部任せたいわ」と、何度か私が冗談のよう

に言っていたのも、この時が来ることを知っていた神様から言わされていたのか

も知れません。

 まだ支払い時期は来ておらず、安心したパパは、次に1ヶ月の必要経費と収入

を調べ愕然としました。9月からは私の収入が無くなってしまい、それまで何と

かやりくりしていた我が家の家計は、私の収入の分だけ不足となり、破綻してし

まうのです。一番お金のかかる大学生が二人いて、数年後にはもう一人専門学校

に行こうというのですから大変です。

 パパは、何を節約できるか調べ始めました。新聞を止める、息子のスイミング

クラブを止めてもらう、年会費のいらないカードに切り替える。でも、こうした


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小さな節約を合わせても5万円くらいにしかならなくて、とても足りません。普

通なら、ここで次女のアメリカ留学を止めてもらうのでしょうが、パパはそれは

考えず、アメリカに戻って大学を続けるようにさせました。

 次女は、アメリカでの生活費は全部自分のアルバイトで稼いでいましたので、

家からは学費を支払うだけで済んでいて、その学費も州立大学のため日本より安

いということもありました。

 私がいない上、次女がアメリカに戻った我が家は、がらんとしています。もと

もと、私の母と同居するために借りた公団のマンションは、4LDKで家賃は1

5万円。据え置き期間も終わり、今年から16万円になります。私の母は結局は

新潟に戻りました。パパが「ここで一緒に住みませんか」と言ったのですが、慣

れない都会よりも、周りに知り合いがいて毎日お茶を飲みに遊びに来てくれる、

生まれ育った新潟のほうがいいと言うのです。

 パパはこの公団のマンションを返して、安いマンションに引っ越すことにしま

した。家賃10万円のマンションにすれば、5万円節約できます。それに、私と

の楽しい思い出がいっぱい詰まったこの家で、私がいないという現実は、やはり

パパには辛いようです。

 パパは、すぐにマンション探しを始めました。引越しが遅れれば遅れるほど、

カードの借金が増えていきます。3DKで10万円、駅から歩いて3分という物

件を見つけたパパは、下見をしたあとすぐに契約し、引越しの準備を始めました。

引越しは業者に頼むと20万円以上するため、パパのワゴン車で毎日運ぶこととし、


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荷物の整理を始めました。ここでパパは、押入れにしまってある私の衣類の多さ

に驚きました。30年という生活の中で、収納ケースに8箱分たまっていました。

パパはその中から、私がコスモス畑で最後に着ていたシャツと、会社でよく着て

いた服など数着を記念に残し、あとはリサイクルショップに持って行って売りま

した。7箱で7000円になりました。

 不要の家具は処分し、使わない食器はパパの実家に引きとってもらいました。

パパは会社から帰ってきて夕食を作り、そのあと荷物をまとめて車に乗せ、毎晩

1回か2回は運びました。合計23回往復し、公団のマンションを明け渡す日の

夜中の12時までかかってしました。パパと息子は、荷物の積み出しが終わると、

疲れ果てて、車の中にそのまま寝込んでしまいました。

 「パパ、本当にご苦労様。私のために苦労かけてごめんね」

 パパは次に、私の死亡による保険金の請求や、家賃、電気、ガス、水道、電話

などの各種料金支払い口座の変更と、私の銀行口座の処理に取り掛かりました。

病院からの死亡診断書、住民票、戸籍謄本などのさまざまな書類が必要でした。

 ここでパパが一番困ったのは、私のキャッシュカードの暗証番号が分からない

ことでした。私の手帳には、パパや子供たちの通帳の暗証番号はひかえてあるの

ですが、私の番号は書いてありません。パパは、私の生年月日や考えられる数字

を何度か入れ、キャッシュカードは使えなくなってしまいました。


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 「ママ、暗証番号教えてよ」とパパが頼むのですが、今の私はまだ力が無く、

「いつも一緒にいるよ、大丈夫だよ」というイメージを送ることしかできないの

です。ですから、パパがどんなに困って具体的な要求をしてきても、ただニコニ

コしているしかないのです。

 8月分の私の給料が振り込まれている通帳を見ながら、パパはそのお金を引き

出すための方法を考えていました。キャッシュカードはもう使えないため、通帳

から下ろすしかありません。私は、振込みの種類に合わせていくつもの銀行口座

を作り、そこに毎月必要額のお金を振り込んでいました。ですから、ほとんど数

千円くらいの残高しかありません。ただ、会社から給料が振り込まれる通帳だけ

は別にしていて、そこからの引き落としはほとんどありません。

 パパは、支払い専用で数千円の残高しかない通帳を持ち、その窓口に行って私

が死亡したという事情を説明しました。そしてどうしたらこの残高を引き出せる

のか相談しました。すると、すぐにその銀行口座は凍結され、次のような説明を

受けました。

 「このお金は遺産となり、遺族の遺産相続の対象となります。このお金を引き

出すためには、法定相続人の方全員の協議による遺産分割協議書を作っていただ

き、その中にこの口座と金額を明記していただく必要があります。あと全員の印

鑑証明書、それから亡くなられた方の16歳からの戸籍謄本、未成年の方がいる

場合は、家庭裁判所から特別代理人を選任していただく必要があります」


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 パパは、残高数千円の銀行口座は、捨てることにしました。言われたことをや

ろうとすると、1ヶ月以上の時間とかなりの経費がかかり、損になってしまうか

らです。法律的に見ればその通りなのでしょうが、この銀行の対応にも腹が立ち

ますよね。

 しかし、家賃や電気代の振込みはもうすぐしなければならないため、8月分の

私の給料が入っている通帳を、諦めるわけにはいきません。そこでパパは、娘を

私の替え玉にして通帳からの引き下ろしをやってみることにしました。本人確認

の書類の提示を要求された時のために、私の健康保険証を持たせました。

 パパと娘は緊張して銀行に入りました。パパはソファーに座り、娘が窓口に向

かいました。

「パパ、心配しなくても大丈夫よ。これでちゃんと引き下ろせるから。私がつい

ているわ」

 娘が窓口に立った瞬間、流れていた銀行のBGMがアメージンググレースの曲

に変わりました。

娘とパパは顔を見合わせ、「ママだ!」と叫びました。

 銀行員は、健康保険証をちらっと見ただけで引き下ろし準備に入り、娘は数分

後に私の給料を全額受け取りました。パパと娘は足早に銀行を後にし、外の出る

と「ママが心配しなくても大丈夫よと、アメージンググレースを流してくれたん

だね」と喜び合いました。


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