第2章 私の隣り人とは


信仰を学ぶことが、なぜ愛の学校なのでしょうか?
前の章でお話ししたように、私たちは本当の愛を、ご父母様とみ言葉を通じて学ぶ
ことができます。次に祈りに答えてくださる父なる神様を感じることができます。
そして、霊の親や育ての親を通じて、親というものが自分にたいして、こんなに細
かい点まで心配して見守ってくれているのかと理解することができます。

さて、この段階をすぎ、自分も親と同じ気持ちになって、親の仕事、つまり神様の
願いである愛による平和な世界実現を手伝うと、親の気持ちがより具体的にわかる
ようになります。

親の仕事とは何でしょうか?あなたの周りの人々に、自分が愛され、許されたよう
に、愛の心を持って接することです。神様やみ言葉の話をしなくても、相手に何か
違う、心地よい雰囲気を与えられるようにするのです。

愛は自分にはありません。そこで、「神様、ここに現れて、この人に直接あなたの
愛を示してください。そして、少しでも私があなたの手助けができますように導い
てください」と祈りながら、相手の立場になって考えるようにします。自分を主体、
座標軸とするのではなく、相手を主体とし、座標軸とするのです。

イエス様は信仰についてユダヤ教の教師から、一番大切なことは何ですかと質問を
受けました。その時、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなた
の神を愛せよ」「あなたの隣り人を愛せよ」、この二つが一番大切だと語られました。

                                      そこで「私の隣り人とは誰ですか?」という質問にたいして、答えられたのが、有名
な良きサマリア人の例えです。
ある人が旅をしている時、強盗に襲われ、傷ついて倒れていました。その場に神に仕
える祭司が通りかかりましたが、関わりになるのを恐れて通りすぎていきました。神殿
で奉仕するレビ人も同じでした。最後に通りかかった異邦人のサマリア人が気の毒に思
って介抱し、宿屋に連れていって宿代まで払ってくれました。ここでイエス様は、
「この傷ついて倒れた人の隣り人になったのは誰か?」と質問をされたのです。

つまり「私の隣り人」ではなく、「私は、傷つき倒れている旅人の隣り人になれたのか?」
を問題としています。人を愛するということは、「私が隣人を愛する」のではなく、
「私は相手にとっての隣り人になれたか?」だとイエス様は語られるのです。

この例え話の中で、傷ついた旅人の存在を最初に知った人は、神様に仕える祭司、当時
の神父や牧師であり、次に知った人も、神殿で奉仕するレビ人でした。
いずれも、すぐに駆け寄って傷の手当をし、助けてあげなければならない人たちだった
のです。しかし、彼らは関わりあいになるのを恐れて、見て見ぬふりをして逃げていき
ました。助けてくれたのは、祭司やユダヤ人から軽蔑(けいべつ)され、不信仰とされて
いたサマリア人だったというのは、とても皮肉なお話です。

この内容は、私が若い時、東京世田谷区でカトリック教会の神父さんから教えていただ
きました。この神父さんは、私が統一教会と知って、「聖書の読み方を一緒に勉強しま
しょう」と毎週一回、聖書の勉強会を開いてくれました。一年間続き、多くの大切なこと
を教えてくださいました。私にとって信仰の恩師の一人です。