第3章 親の心


やはりイエス様が語られた有名な例え話、放蕩息子について学んでみましょう。
今回は、親の愛と悔い改めではなく、親の心を知ったのは兄か弟かという話です。
弟は、家を飛び出し自分かってな生き方をしていました。弟は放蕩の果てに無一文と
なり、親もとに戻ってきて親の愛を知るわけですが、兄は「自分は、ずっと親の
いいつけを守ってきたのに、かってなことをしていた弟のために大切な羊を殺して
宴会をするのか」と怒ります。

                       この場合の兄とは、神様の言いつけをちゃんと守っている、自分こそ天国に入ると
信じているユダヤ教の教師や熱心な信者のことです。どこにもこのタイプの人が
いますよね。そういう人は、親もとを離れてしまった放蕩息子を救いたいという
父なる神の心を知らないのです。
親は、食事の時間になると、子供はちゃんと食事をしているだろうか?雨が降れば
傘を持っているだろうかと、いつも子供のことを心配しているものです。
牧場の柵の中にいる安全な九十九匹の羊をほっておいても、行方不明の一匹の羊を
探す羊飼いの例え話も同じで、神様は親だと説明しているのです。

神様は親として、放蕩息子も異邦人も、神を信じない人も、神を否定する人もすべて
救おうとされています。無神論者であろうが、仏教徒であろうが回教徒であろうが
すべて自分の子供です。ですから本人が気がつかなくても、あらゆるところに神様の
配慮があります。

小鳥のさえずりの中にも、道路のそばに咲く小さな花にも、神様の愛があふれています。
父なる神様は、全人類を救おうとして見つめ、一人ひとりのために心をこめて祈って
おられるのですから、私も同じように自分の周りの大切な人たちのために祈り、愛する
努力をしましょう。 すると、その人たちへの父なる神様の愛が心に感じられるようになります。
心が暖かくなり、自分の思いではなく、神の愛が自分にも伝わってきます。

「愛する者たちよ。わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たもの
なのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」ヨハネの第一の手紙第四章七節〜八節

人を愛そうという努力をすると、神様が愛として臨まれるようになり、ともに神様に
近づいていくことができます。人に親切にする人、人のために生きようとする人は、
神様に近くなっていきます。ですからそういう人は、生き生きとしていますね。
そうです。神様が応援するからです。

信仰生活を愛の学校と言い、神様を愛することと、神様を知っていることの間には、
天地の差があると言うのはそういう意味です。神様は愛であるからこそ、人間は神様と
一つになれるのです。

もう一つ、神様が親であるように、私たちも子供を産み、実際の親となった時、親の愛が
具体的にわかり、神様の愛の偉大さがわかります。子供によって大きな恵みも与えられます。

神様は、信じるものではなく、愛の実践の中で、具体的に感じるもの。これが私の信念です。