第8章 畑の中の宝


「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠し
ておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買う
のである。」 マタイによる福音書十三章四十四節

あなたは、この聖句をどのように読みますか?一般的には、天国に入るために
は、持ち物をみな売り払わなければならないと理解する人がほとんどではない
でしょうか?

以前、お話ししたカトリックの神父さんは、そうではなく畑の中に石ころとして
埋もれていた私たちを、神様は宝として見いだしてくださり、持ち物をみな売り
はらい(イエス様を十字架につけてまで)、私たちを買いとってくださったので
す。と教えてくださいました。

何の価値もない、だめな人間だと思っていた私を、世界でひとつしかない、かけ
がえのない宝として見いだしてくださり、そのためにイエス様さえ犠牲にされた
ことを思うと、自分を貴重に思い、自分に込められた神様の願い、希望を自分が
実現していかなければならないと思うようになります。

神様、ご父母様と共に生活し、共に考え、共に相談する意識、イメージで生活
すると、本当にそう感じられるようになってきます。「あなたがたの中に、私も
いる」という世界ですね。
神様と共に、ご父母様と共にある生活。そこがまさに天国です。今が天国と思え
ない人は、死んで霊界に行っても天国には入れません。

これが、個人的には救われたという状態です。個人的に悩む問題はもうありません。
悩みは、人のことばかりとなります。神様の立場にも同情して、世界の悲惨な
現状を見て悩むというようになります。
仏教で言うと、「宇宙の大生命と私が一体となる安心立命の世界」ということに
なります。

九十九匹の羊よりも一匹の迷える羊を思い、放蕩息子のことを思い、心がかき
むしられるように苦しいのが、神様です。
神様は天の高みにおられ、人間を審判しておられると思っていたユダヤ人に、
そうではなく愛の親であると教えてくださったのがイエス様です。そして、
イエス様は「幼子のような信仰」が神様を動かすと教えてくださいました。

私も子供を持ってみて、子供の願いなら、何でも聞き入れてやりたいのが親で
あるというのがよくわかりました。そして、幼い子供が無条件に親を信頼する
姿を見て、反省させられました。自分は、この子のように神様を信頼したことが
なかったと。それから、祈りのスタイルを変えました。

心から信頼し、すぐそこにいる父に語りかけるように。私の信仰の先輩や、尊敬
する文鮮明先生ご夫妻の祈りがなによりもそうであるからなのです。
天の父を、完全に私の父と信じて祈ると、祈りは聞きいれられます。神様が、
私たちの信仰に感動し、嬉しくなり、思いを集中してくださるからです。