第13章 罪について


ここからは罪についてです。キリスト教では、アダムとエバが神様の言葉に
そむいて禁断の木の実を取って食べたことを、最初の罪、原罪と言います。
聖書は、神様からの言葉であり、すべてが真実であり、そのとおりに信じな
ければならないと言っているクリスチャンが、この記述にはあいまいなので
す。文字通りの木の実とは信じていないということです。
文字通りならその木の実は、どこにあるのか?何の木なのか?食べることに
よって、人間の心にまで影響を与え、しかもずっと遺伝するものとは?と次々
に疑問が出てきます。その木の実を発見し、成分を分析すれば、人間を悪か
ら善に変えることもできる?ということにもなってしまいます。

統一教会のみ、これは天使長ルーシェルが、エバを誘惑し、愛と性を象徴す
る「善悪知るの木の実」を取って食べさせた、つまり性関係を結んだことで
あると解釈しています。

聖書には、天使が地に投げ落とされ蛇(サタン)となったという記述までは
あります。これをどう見るかということですが、私は人間社会の喜び、幸せ、
悲しみ、苦しみの原因が愛と性の問題であり、人間誰もが悩み苦しみ、文学
も宗教も、この問題を最大の課題としてきたことを考えると、統一教会の解釈
はまさに真理であると確信しています。

神様の愛によって、十分に育って大人になったアダムとエバが、神様の祝福
の中で結婚すれば、神様のように目が開け、知恵がついて善の実になるはず
でした。しかし、まだ神様の愛や願いがよくわからない未成年のエバが、
すてきに見えた天使長ルーシェルに誘惑され、霊的に関係を結んでしまいま
した。とたんに自分の相手はアダムだった、神様の願いにそむいてしまった
という知恵がつき、恐ろしくなってアダムを誘い、性関係を結んでしまいま
した。こうして、人間は悪の実になってしまったのです。

全知全能の神様は、この一部始終を全部目の前で見ておられました。しかし、
本来、人間が自分の自由期間、成長期間の中で自分の責任により成長し大人
となり、それを条件として宇宙すべての相続権を与えたかった神様としては、
その原則をくつがえすことができなかったのです。

最愛の娘が、ルーシェルに騙(だま)され、神様の理想がすべて崩れていく様子
を、歯をくいしばって、怒りに顔を真っ赤にしながら、耐えて見ていなければ
ならなかったのが天の父なる神様でした。

神様の宇宙創造の目的は、愛の世界、天国を作ることでした。愛をよりすば
らしいものにするために、魅力的な感情や甘さや性まで準備したのに、その
すべてがルーシェルに悪用され、取って食べてはならないという神様の戒め
(御言葉より愛のほうが魅力があるため堕落してしまう可能性を神様も知っ
ていました。そのためにわざわざ戒めを与えておられたのです)を破ってし
まいました。
神様は目の前が真っ暗になる思いでした。神様の愛の理想が打ち砕かれ、
サタンの偽りの愛に抱かれたエバ、そして何もわからないままエバと関係を
結んだアダム。このアダムとエバからその後の人類、私たちが生まれてきま
した。

生まれてきた子には何の罪もありませんが、その子である人類を見る時、ア
ダムとエバの堕落の時の、悲しく辛い記憶が思い出されるのです、痛みと傷
がうずくのです。子供がかわいければかわいいほど、あの堕落が悔しいので
す。夢であって欲しい。あの堕落が無かったらと思うのです。

聖書には、ここまで書かれていませんが、神様が親であるという観点で、考
えてみるとわかります。人間が憎いのではありません。あの堕落とサタンが
憎い。許せない。この神様の痛みが、人間と神様の間をへだてているのです。
原罪の痛みを感じているのは神様です。人間はほとんど何の痛みも苦しみも
感じていません。罪の中にあることもわかっていません。罪を悔い改めなさ
い!と言ってもわかりません。

神様から見ると、私たち人類を見る時に原罪の痛みを感じるのであり、その
痛さ辛さに比べたら、私たちが、万引きしたとか嘘をついたとか、堕落性が
あるとか、情欲の思いを持ったとかの罪などは、ほとんど問題にならないこ
となのです。
むしろ、人類始祖の堕落によりこうなって、いたいけな子供が、罪の呵責に
苦しんでいることのほうが、もっと不憫でならないのです。