第14章 親から見た罪


前の章で、神様は私たち個人の罪よりも、人類が堕落した時の罪、原罪を私
たちの背景に感じ、思いだし、それがゆえに、神様の心が痛み、苦しみ、疼き、
私たちを心から愛せない状態であると説明しました。

親子の例えで説明してみましょう。親が、娘の結婚を楽しみにしていました。
結婚式の準備やお客様の準備や、なによりも夫としてふさわしい男性を探し出
して準備し、その時を待っていました。

ところが娘は、娘の持っている財産目的のヤクザに騙され、親の期待をうらぎ
ってヤクザと関係を持ってしまいます。娘はやがて、ヤクザが自分を愛して
いたのではないことを知り、親の許しを得たくて、親が予定していた夫になる
べき男性を誘い結婚して、親の前に立ちます。
しかし、すべては親の願いに反したことであり、祝福したくともできる状況では
なくなってしまったのです。

二人は、勘当され家に入ることを禁じられました。二人はしかたなく、親と別な
ところに住み、子供を産みますが、ヤクザが再び現れて、今度は「おまえたちは
親を裏切った、罪を犯した」と脅迫してきます。
親は、産まれた孫を愛したいのですが、親の願いに反してヤクザに騙され、すべて
がめちゃめちゃになってしまった無念さで、孫を抱けないのです。

適切な例えではなかったかもしれませんが、状況はおわかりいただけたと思います。
神様を傷つけるものとしての罪です。この原罪の痛みがあまりにも強く、私たち一人
ひとりの罪は、鼻水や目やにが付いているくらいのものなのです。
人類の堕落により、本心が麻痺し神様がわからなくなってしまった人間が、さま
ざまな問題を起こしてもそれは起るべくして起ったことであり、むしろ不憫で
ならないのです。

罪を人間の側からではなく、神様の側から見る必要があるということです。

サタンは

「神様を知っている人間がこんな罪を犯している」
「おまえは絶対神様から許されない」
「地獄ゆきだ」

と言ってきます。自分がそうさせてしまったくせに、とんでもないことです。
でも、多くの人が「そのとおりだ」と落ち込んでしまっていました。良心的な人で
あればあるほどそうです。特に、信仰を持っている人がやられるのです。み言葉を
基準にして攻撃されるのです。サタンの鎖につながれている状態です。良心も麻痺
させられて、何が正しいのか、何が真理であるかもわからなくさせられています。
サタンは、人間の心の中に巣くい、あたかも自分の良心のような顔でささやいて
きますから悪質です。注意してください。これはサタンです。あなたではありません。

このようにしてできた地上は、神様から見たら地獄です。愛の天国を作ろうと願っ
たその世界から見たら、憎しみと不信と恨み、不倫や同性愛、強姦や殺人や盗みなど
の不法の横行する地獄です。

しかしながら、そこに住んでいる人間は、それをあたりまえのことと思い、自分が
「罪人」とか言われても何のことかわかりません。むしろ、罪を好み、善や正義を憎み、
不倫を願う心さえあります。「死んだら地獄に行く」のではなく、生きながら地獄の
中で生活し、毒蛇の巣の中にいながらその毒が回っていますから平気でいるのが人間
なのです。聖書では「蛇の子、まむしの子」と、罪の血統を受け継ぐ者として表現
されています。

さあ、この人間への「福音」とは、何をどう語るべきなのでしょうか?「罪人よ、悔い
改めなさい」「神様を信じなければ、死んだら地獄に行きます」なのでしょうか?

神様から見たら、人間は今とんでもない危ないところにいるわけなのです。毒蛇は
うじゃうじゃいるし、足を一歩すべらせたらまっさかさまに落ちていく深い谷の上。
しかも目が見えず、地図もなく道案内人もいません。

ここでその場所が危険なことを強調したら、足がすくんで動けなくなるどころか、足を
もつれさせて谷底に落ちることにもなりかねません。

「さあ、私があなたの道案内人ですよ。
私はあなたを助けるためにきました。
    私の声の聞こえるほうに向かって、ゆっくり歩きなさい。
足を一歩そっと降ろし、下が固い岩だったら大丈夫ですから
全体重をかけて進みなさい。
そうして一歩ずつ進んでくるのです」

神様が愛の親であり、実は人間誰しもが求めていた存在であること。
そのかたが目の前にいて、助けてくださろうとしていること。
今いる場所は安全な場所ではなく危険であり、はやく逃れたほうがいいこと。
その方についていけば安全なところに逃れられること。
これさえ伝えられればいいのではないでしょうか。

これが福音です。

                    多くの時間も言葉も必要ありません。一瞬で人間は救われることができるのです。