第15章 罪の自覚


この章は、「罪の自覚」という内容です。キリスト教では、すべての人は神様の
前で罪人であると言います。意味が少し違いますが、仏教では業、神道では汚れ
と表現されている内容の世界です。

罪人は、神様の光に心を照らされないかぎり、あるいは言葉を変えて言えば、
神様の愛の中に包まれないかぎり、本当の意味で罪を自覚することはできません。
罪人は、罪を好み、罪の中にあるほうが心地よいのです。皆がそうだから、そう
しているほうが楽だし、安心していられるからです。実は、これがサタンの手の
内にある人間の状態なのです。
「人生のぬるま湯」ですね。この「ぬるま湯」の中に長い間、つかっていると、
神の子としてかすかに残っていた人間の本性、愛、真理、美、善に反応する心が
少しずつ麻痺し、神様のもとには帰れなくなってしまいます。
教会に来るようになった人は、この「ぬるま湯」の中で、なにかおかしいと感じ
ていました。そしてさまざまな深刻な課題を突きつけられ、今のままの状態では
どうしようもなくなってきました。自分の限界を見せられたのですね。

人間は、自分の力で何でもできると思っている時には、神様のことを考えません。
自分の力の限界を感じた時、どうしていいかわからず、神様を求めます。

罪は、「自分を傷つけるものとしての罪」「他人を傷つけるものとしての罪」
「天法をおかすものとしての罪」「神を傷つけるものとしての罪」の大きな四つ
の分野に分けられます。

一般的に言ってキリスト教会では、伝道に際し、あるいは、信者教育の初期段階
で、個人的な罪を強調しすぎます。日本人がなかなか罪人という自覚がないため、
「万引きをしたことがあるでしょう」「親のさいふからお金を盗んだことがある
でしょう」「堕落性を持っているでしょう」と、ギリギリと追求します。
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」という
聖書の言葉に、顔を上げられる男性はいません。「地獄に落ちる」と言って
恐怖心をあおるのもどうでしょうか。

                       人間が堕落し、神から離れ、サタンにあやつられて、自分で自分を責めるように
なり、その結果、「自分を傷つけるものとしての罪」の世界にいるのですから。
本来は神様の子なのに、「自分はなんて駄目な人間なのだろう」と自分を卑下し
ていたら、親である神様が一番辛いのです。

本性が高くなってくると、自分はそんな気はなかったのに他人を傷つけていたと
いう「他人を傷つけるものとしての罪」を自覚するようになります。
でも神様から見れば、問題とされるのは「神を傷つけるものとしての罪」なので
あり、アダム、エバ以来、人類が親である神様を不信し、傷つけてきたことから
すれば、「自分を傷つけるものとしての罪」や「他人を傷つけるものとしての罪」
は、どうでもいいくらいの問題なのです。

罪からの救いというのは、「神を傷つけるものとしての罪」がわからなければ
実感できないのです。