そして私は恋をする。
















緑深く、心深く


第4話 皐月の恋は











「……あ、これおいしーい」
「たーまーこ!」


お皿に向かって伸ばされた手の甲を菜箸の頭でびしっと打ち据える。
珠子を軽く横目で睨んでから、残りのおかずをタッパーに詰める作業を続ける。

ちょっと赤くなった自分の手を撫でさすりつつ、珠子は不満げにふくれて見せた。


「ケーチー!ちょっとくらいいーじゃん!」
「さっきからいくつ食べてるよ!?ちょっとなんて可愛い量じゃないじゃん!」
「だっておなかすいたー」
「さっき朝ご飯食べたばっかりでしょ……」


あんたの胃は四次元ポケットか!
真横から恨めしそうな視線を送ってくるその口元に唐揚げをひとつ差し出してやると、珠子はぱっくりとそれに食いついて幸せそうに笑った。


「はんくー!んまーい!」
「それじゃあそれを糧に頑張ってお皿洗いヨロシク!はい、これもね!」
「らじゃ!」


さっきまで唐揚げや煮物が山になってた皿を重ねて押し付けると、すっかり機嫌を良くした珠子はそれを受け取ってシンクの方に軽い足取りで戻っていく。
唐揚げひとつでああもあっさり機嫌が戻るんだからお手軽な子だわ……。
作ったおかずを全部タッパーに詰め終えて、残るはおにぎりだけ。
と言っても、珠子と私の分も含めて10人分のおにぎりなんだよねー。
壁の時計に目をやると、2本の針は早10時を過ぎていて。
ヤバい急がなくちゃ、と私は改めて腕まくりなんかしつつ我が家のドデカイ炊飯器へと向き直った。











日曜の朝っぱらから何でこんな大騒ぎしてたかというと。
私の通う高校のすぐ近くの公立校と六角の練習試合を観に行くから。
家まで送ってもらったあの日から私は佐伯先輩とちょこちょこと連絡を取るようになって、今日の練習試合、珠子と一緒に見に行くと約束をした。
会場は相手校で、午前中は合同練習、午後が試合。
そのスケジュールを聞いて、何気なーく軽い気持ちで「お弁当差し入れしましょうか?」とか言ってみたら予想以上に喜ばれてしまって、後に引けなくなった。
料理は別に苦手じゃないから、まぁいいんだけど。


そんな訳で前日から泊まりに来てた珠子をアゴでこき使いつつ、レギュラー7人プラス監督と珠子と私、総勢10人分のお弁当を作り上げて。
2つの大きなバスケットに詰めたそれを持って、私たちは家を出た。





















「―――しっかし、ホントよく作ったよねアンタ。10人分なんて」
「自分でもよく頑張ったなーと思う……そして今も頑張ってるよ、重い……」
「そうそう、材料費ちゃんと皆から請求しなよ?もちろんあたしからも言っとくけど」
「え?いいよ、いらないよ。そこまでお金掛けてないもん、ちゃんとうまくやりくりしたんだから」
「相変わらずそういうの得意だねー、さすが主婦の……」
「主婦の鑑とか言ったら容赦なくどつくよ、コレで」
「……冗談でぇす」


通い慣れた通学路を歩きながら、ペットボトルが何本も入ったコンビニのビニール袋を軽く振り上げたら、珠子はすいませんでしたー……と数歩後ろに下がってみせた。
からかい半分ではあるけれど、珠子なりに誉めてくれてるってことはわかってる。でもこの歳で『主婦の鑑』なんて言われたってなー、素直に喜べないよなぁ……。
そのあともくだらない話をしながら歩いて、10分くらいで練習試合相手の高校に着く。
私の通う高校と時間にして5分くらいの距離しか離れてない公立校。
その正門を通り抜けてテニスコートにつくと、大勢の女の子(うちの制服も結構混じってるよ……)で賑わっているテニスコートの後ろを通り抜けて、六角の皆が荷物を置いている場所に向かった。


「いたいた。オジイー!来たよーっ」

木陰にあるベンチには監督のおじいちゃん(この歳でまだ現役監督だってのがすごい)(今にも昇天しそうなのに)(失礼)が1人で座っていて、珠子の声にプルプルしながらこっちを振り返る。
誤ってボールでも飛んできた日には命がないんじゃないかな……なんていらん心配しながらぺこりと頭を下げると、おじいちゃんは微かに口の端を上に引き上げて、コクンと頷いた。
今のって笑ってくれたのかしら。
珠子が遠慮も会釈もなしにおじいちゃんの隣に腰を下ろして私を手招いた。


も座ったら?」
「え、でも……部外者なのにいいのかな」
「構わないよ」


そう言ってくれたのは珠子じゃなかった。
声のした方を振り向いたら、ユニフォーム姿の佐伯先輩がラケットを肩に担いで、いつもと同じにこにこ笑顔でこっちに向かって歩いてくるところだった。


「やあ、ちゃん」
「こんにちは、佐伯先輩」
「休みの日にわざわざありがとな。もう少しで練習が終わるから、そしたら弁当食わせてよ」
「言っとくけど味は保証しませんよ」
「え、そうなの?」
「ウソウソ!は料理うまいんだよぉ、何たって主婦のかが」
「珠子」
「すいませんごめんなさいもう言いません」
「相っ変わらずの漫才コンビだなー、お前ら」


佐伯先輩の後ろからやってきた黒羽先輩が呆れたようにぽそりと呟いた。
漫才コンビって……そんなんで相変わらずとか言われても嬉しくない……。
どう切り替えしたものか考えているところに誰かの腕が横から伸びてきて、お弁当の入った重いバスケットを私の手から掻っ攫った。
腕の主は天根君で、ベンチの空きスペースにそっとバスケットを置いてくれる。


「あー、ありがと天根君!」
「いや、別に」
「何だよ、みんなして戻ってきちゃったのか?練習時間まだ大分あるのに」
「もう全メニュー終わったっつうの。あっちのメンバーがとろくせぇんだよ」
「あ、樹っちゃんたちも戻ってきた」
「仕方ない、ちょっとあっちの部長と話してくるから、先に弁当食ってていいよ」


そう言って佐伯先輩はちょうど戻ってきた葵君を連れてコートに戻っていって。
入れ違いに木更津先輩たちも戻ってきて、お弁当を並べるのを手伝ってくれた。


「すっげーな、これ全部が1人で作ったのかよ」
「いや1人って訳では……」
「あたしもちゃんと手伝ったよ!」


珠子の科白に、一瞬、みんなの動きが止まった。
ぎぎぎぎ、と音がしそうなぎこちなさで私と珠子の方を振り返る。


「……え?」
「マジで……?」
「げぇっ……」
「……げって何さ……」
「や、だってお前の料理つったら殺人的にマズ……」
「殺人的にって何だコラァ!!」


キレた珠子が手にしていたプラスチックカップが黒羽先輩に向かって宙を飛ぶ。
タッパーの蓋はまだ開けていないし埃をかぶる心配はないか、とちょっとずれたところで安心してそのまんま2人の言い争い(&カップの投げ合い)を見物している私の横に木更津先輩がやってきてこっそりと耳打ちした。


「……あのさ、珠子作のおかずってどれ?」
「ないですよ。珠子が手伝ってくれたのはお皿洗いと材料の片付けですから」
「なんだ、それなら安心じゃん」


そう言って、木更津先輩は何だか青褪めている天根君や樹先輩、首藤先輩に向かって「大丈夫だってさ」と笑って、それを受けた3人も安心したように深々と息をついていた。
……みんなそんなに珠子の料理が嫌なのか……確かにあの子料理苦手だけど。
そんな過剰反応するほど不味かったかなぁ……最近あの子の料理なんて食べてないし、中学の時の調理実習はよく一緒にやってたけど、そんなヤバいもの食べさせられた覚えは……。
……………………あった…………。





















そんなこんなで大騒ぎしているうちに佐伯先輩と葵君が戻ってきたので、珠子と黒羽先輩の不毛な争いを全員総出で止めて、やっとお弁当タイム。
ものすっごい勢いで箸と口が動いて10人分の大量のお弁当はあっという間にみんなのお腹の中に供給されていって、最後の1人がお箸を置いた時にはタッパーはどれも見事に空っぽだった。
あっという間に全部食べちゃったよ、さっすが男の子……。
片付け始めようとしたら、すっと誰かが横に並んでタッパーの蓋を閉じ始めた。


「―――佐伯先輩」
「どうもごちそうさま。すごいうまかったよ」
「あはは、お粗末様でーす。このあと試合でしょ?休んでて下さいよー」
「このくらい手伝えるって」


そう言って笑うと、ぽんと私の頭に手を置いてくしゃくしゃと髪をかき回した。
また子供扱いされてるよ……。
手を離した佐伯先輩は片付けをしながらふと思いついたように口を開く。


「―――そう言えばちゃん、俺に対して構えなくなったよな」
「だって、緊張する必要ないって言ったの佐伯先輩じゃないですか」
「うん、そうだけど。緊張してたちゃんも可愛かったよなーと思ってさ」
「……つまり今はあんまり可愛くないなぁと」
「そこまで言ってないだろ」


揚げ足を取るな!と軽く頭を小突かれる。
こういうコミュニケーションはまだ少し緊張するけど、それでもちょっと前までのように一言話すにもガチガチに緊張するみたいなことはなくなった。
恋じゃなくて、でも友達というにはまだ遠慮があるけれど、いい関係を築いていけてると思う。
このまま、いい友達になれたらいいな……。

全部の荷物をバスケットに詰め込み終わって佐伯先輩に手伝ってくれたお礼を言おうと向き直った時、唐突に先輩が立ち上がった。
ついさっきまで笑ってたのとはまるで別人みたいなキツい眼差しで、校舎の方を睨んで。


「佐伯先輩?」


私の呼び掛けにジャージの肩が少し揺れて。
座ったままの私を見下ろした先輩の顔は、笑ってはいたけど何だか少し強張っていた。
佐伯先輩らしくない、無理してるように見える笑い方。


「―――せん……」
「悪いけど、俺ちょっと席外すから。試合始まるまでには戻るからさ」


口調だけはいつもと同じ優しくて穏やかなままで。
だけどそれ以上何も言わないと言うように、さっさと校舎の方へ向かって歩き出した。
その背中を見送りながらも、私はさっきの表情が気になって仕方なかった。
いったいどうしたんだろう……試合までには戻るって言ってたけど、校舎の方に何の用があるんだろう。
…………気ーにーなーるーっ!!


「……珠子ぉ!」
「んー?何?あれ、サエちゃんは?」
「なんかちょっと用事があるとかで校舎の方に行ったよ。私、ちょっとお手洗い行ってくんね」
「わかったー、いってらっさい」


ひらひらと手を振る珠子に手を振り返して、私は校舎の方に早足で歩き出した。
佐伯先輩が歩いていった方へ。
小さな中庭みたいなところまで来て、足を止める。
武道館らしい小さな平屋の横、私のいるとこからはちょうど死角になる辺りから女の子の声が聞こえてきた。




「―――ごめんなさい。でもお願い、お願いだから」
「悪いけど……」


泣き出しそうな女の子の声をすっぱりと断ち切ったのは、佐伯先輩の声だった。
声だけしか聞こえなかったけれど、いつもの佐伯先輩らしくない冷たくてキツい口調。


「そんな気にはなれない。―――ごめん」


突き放すように冷たく言い放つ。
その声が聞こえてすぐに、さっきの声の主らしい女の子が小走りにこっちに走ってくるのが見えた。
慌てて木の陰に隠れた私には気がつかずに、その子はそのまま走り去って。
その後ろ姿を見つめていたところへ、不意に名前を呼ばれた。


「―――ちゃん」
「うにゃぁっ!?」
「…………猫じゃないんだからさ」
「せせせせせ先輩っ」
「すぐに戻るって言っといただろ?何でついてきたの」


小さな溜息と一緒に、そんな呟きが佐伯先輩の口をついて漏れた。
怒ってはいないけど少し呆れてるような、その響き。
それもそうだ、こんな盗み聞きみたいな真似したんだから……。
今更のように自分のしたことをとても恥ずかしいと思って、俯きながら謝った。


「ごめんなさい」
「……別に、怒ってる訳じゃないよ」
「すみません……」
「何でついてきたの」


さっきよりもずっと優しい口調で佐伯先輩がさっきと同じ言葉を繰り返す。
俯いていた顔を少しあげたら、真っ直ぐにこっちを見る佐伯先輩の視線にぶつかった。
少しも私のことを責めてない、優しいままの眼差し。
その目を見たら、適当なこと言って誤魔化したりは絶対しちゃいけないと思った。


「……さっきの先輩の、笑った顔が」
「俺の?」
「先輩が、無理して笑ってるように見えたから、気になって」
「…………」
「ごめんなさい……」
「……謝らなくていいって」


もう一度俯いた私の頭を、大きな手のひらが優しく撫でた。
穏やかな、でもさっきよりも少し淋しげな声が低く微かに響いて、鼓膜を振るわす。


「……さっきの俺の元彼女でさ」
「……高校入ってから付き合ってたって人ですか?」
「何で知ってんの……ってのは愚問か。珠子が話したんだろ」
「……そう、です」
「やっぱりな。―――うん、1年以上付き合ってたんだけどね。数ヶ月前に別れたんだよ」
「どうしてですか」


それを聞いていいものか、と頭の片隅で思ったんだけど。
思うより先に言葉は唇から零れ出て、他に誰もいない庭に響いた。
佐伯先輩は少しの間口を閉ざしていたけど、やがてゆっくり一言一言言葉を区切って話し出した。


「……いつの間にか、他のヤツと付き合ってたんだ。俺がテニスに夢中で、全然デートとか出来なくて、淋しかったんだって。こんなんじゃ付き合ってる意味がないから別れようって言われてさ。テニスにかまけて彼女を放ったらかしにしてたのは事実だったから、仕方ないと思った。だから別れた」
「どうして、今日会いに来たんですか?」


重ねて問いかけた私に、佐伯先輩は哀しそうに笑ってみせて。


「……今の彼氏と別れて、もう一度俺と付き合いたいって」
「…………」
「でも断ったよ、多分同じことの繰り返しにしかならないから。俺はテニスを疎かに出来ないし、彼女もテニスに時間を割く俺にきっとまた我慢出来なくなる」
「……でも」


でも、とそこで言葉を切って、私はじっと佐伯先輩を見つめた。
きっと先輩は言われたくない。この次の科白は。
だけど、言葉は勝手にあふれ出した。
まるで自分のものじゃないみたいに唇が動いて、言葉を紡ぎだす。




「……でも先輩は、まだあの人のことが好きなんですね」




返る言葉はなかった。
でもその表情は、形にされなかった言葉の代わりに、佐伯先輩の心を雄弁に語ってた。

―――まだ、好きなんだって。
忘れきれないんだって。




「……珠子たちには、内緒だよ」


掠れた声でそう呟いて笑った佐伯先輩からは、いつものような穏やかだけど自信に満ちている雰囲気が消えていて。
寂しそうで哀しそうで、辛そうだった。
中学生の頃の私が好きだった、明るくてカッコいい佐伯先輩はどこにもいなかった。
目の前にいるのは、なくした恋の想いのやり場に困って途方にくれてる男の子で。




―――抱きしめたいと、思った。




とても唐突に、その感情は胸の奥でぐうっと大きくふくらんで。
そして本当に急に頭の中がくっきり冴えて、私はそれを自覚した。




―――私はこの人が。

―――この人のことが好きなんだ。




それは憧れじゃなくて。
2年前に終わった、見てるだけで幸せだった、幼くて単純な『恋』とも違う。


傍にいて抱きしめて、誰にも見せないで誰にも触れさせないで。
自分だけのものにしたい。
身勝手で独善的で汚くて残酷な、恋。
















そして私は恋をする。

緑鮮やかな5月の空の下、先の見えない2度目の恋を。





















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強さも弱さも綺麗も汚いも全部ひっくるめて、それまで知らなかったその人の本質や隠れていた姿に気付いて、それでも尚その人を愛しいと想う。それもまたひとつの恋の形だと思う。