流した涙の分だけ幸せになれるというのなら。
今の私はきっと一生分の涙を流しつくしても後悔しない。
緑深く、心深く
第7話 涙
「はい、はい……え?いーえいーえうちは全然大丈夫ですから。はーい、それじゃあ失礼しまーす」
コードレスフォンのボタンを押して通話を切る音。そしてベッドの端に腰を下ろして。
頭のてっぺんからつま先までしっかりシーツの下に潜り込んで丸まっている私に声を掛ける。
「。連絡ついたよ。うちに泊まっていいってさ」
「…………ありがと……」
シーツ越しにくぐもった涙混じりの声で答えると、珠子が小さく溜息をつくのが聞こえた。
珠子に迷惑掛けてるのはわかってる。
でもお父さんや兄貴たちにはこんな顔もっと見せられないと思ったし、さっきまでとは裏腹に今は一人でいることに耐えられない気がして、気がついたら足は珠子の家に向かってた。
玄関先に出てきた珠子の顔を見た瞬間、張り詰めてた気が一気に緩んで、それからずっと泣きっぱなし。
珠子は無理やり理由を聞こうとはしないで、黙って着替えとベッドを提供してくれた。
腫れて重たい瞼を借り物のシャツの袖で押さえたところに、珠子が軽くシーツを引っ張って一言。
「おしぼり持って来たから目冷やしなよ。そのままにしといたら明日の朝にはお岩さんだよ、あんた」
「…………」
少しだけ迷って、それから。
片手で目元を覆い隠したままシーツの端からゆっくりと頭を出して、空いてるもう片方の手でおしぼりを受け取った。
多分今、さっきより更に酷い顔してるから。
きっと最悪にブッサイクな顔、相手が珠子でもあんまり見せたくない。
手のひらと入れ替わりに広げたおしぼりを目の上に覆い被せて深く息をつく。
ひんやりした感触は気持ち良かったけど、同時に腫れあがった瞼に沁みてひりひりと痛みもした。
少しの間、私は何も喋らないで、珠子も何も言わないで。
珠子が雑誌か何かのページをめくる、小さな音だけが部屋の中に響く。
珠子は何度かおしぼりを新しいものに取り替えてくれる以外は私に一切構わずに、でもずっと傍についていてくれた。
こんな状況なのに無理にあれこれ聞き出したりしない珠子の性格が、とてもありがたかった。
一時間くらいして瞼に感じる腫れぼったい重さが大分薄れた頃、私はやっと真っ直ぐに珠子の目を見てお礼を言えた。
「……色々ごめんね、珠子」
「気にしなくっていいいよ。ところで夕飯どーする?食べるんならこの部屋に運ぶけど」
「……うん……この顔、おばさんたちにはちょっと見せられないし、運んでもらえると助かる……」
「見せなくても何かあったってわかってるよ。部屋で食べたらって言ったの母さんだし」
「そりゃそうか……玄関で大泣きしたらわかるよね、いくらなんでも」
「まぁ気にすんな。変に口出したりしないから、あの人は」
「……うん……」
じゃああたし下行って夕飯持って来るからね、と言いながら珠子が立ち上がる。
かちゃりと部屋の扉が開く音がした、そこへ。
玄関の呼び鈴がなる音が重なった。
「誰だろ、こんな時間に」
ぽつりと呟いて珠子が部屋を出ていく。
しんと静まり返った部屋の中で、自分の心臓の音と時計の針のカチカチ言う音だけが聴こえた。
身体を起こしてベッド脇に置かれた鏡を覗き込んで、思わず溜息をつく。
ありがたいことに瞼の腫れはしっかり引いていたけど、頬には幾筋も涙の跡が残ってて結構酷い有様だった。
「うっわ、ブサイクー……」
呟いておしぼりで軽く頬をこする。
ただでさえ十人並みの顔なのに、最悪……。
そこへノックの音が響いて、珠子が姿を見せた。
その表情は何でか微妙に戸惑っていて私は首を傾げた。
「どしたの、珠子」
「……あんたにお客さんなんだけどさ」
「……私に?」
瞬間、頭を過ぎったのは天根君の顔。
今、一番会いたくない人。
露骨に強張った私の顔を見て、珠子が迷うように視線を彷徨わせる。
その時、珠子の後ろ、扉の影から聞き慣れた声がした。
「―――ちゃん」
ドクンと大きく心臓が鳴った。
―――佐伯先輩。
「入っていい?」
「ちょっと待ってサエちゃん。―――、どーする?」
佐伯先輩が入れないように入り口のところに立ちはだかったまま、珠子がじっと私の目を見つめた。
口に出してはいないけど、その目がしっかり語っていた。
(―――会いたくないなら、追い返すから)
珠子は珠子なりに察してくれてる。
私が泣いて珠子のとこに来た理由。
天根君のことまではわかってないと思うけど、佐伯先輩に対する私の気持ちは何となく察しているんだろう。
心配そうに見つめる眼差しはとても優しくて、止まったはずの涙がまた零れそうになった。
「?」
心配そうな珠子の声。
これ以上心配掛けたくない。
冷たさを残すおしぼりでもう一度きゅっと頬をこすってから、私は頑張って笑顔を作った。
「大丈夫だよ、珠子。入ってもらっていいから」
「……わかった」
珠子は小さく頷いて、身体を横にずらして後ろを振り返った。
「サエちゃん入っていいよ。あたしお茶持ってくるから、適当に座ってて」
「サンキュ、珠子」
「うん。じゃあちょっと行って来るね、」
「ありがと」
元気付けるようににっこり笑ってくれた珠子は、そのまま扉の傍を離れて。
階段を降りていく足音と同時に、佐伯先輩が姿を見せた。
さっきの制服姿じゃなくて私服だった。生成り地のシャツに細身のジーンズ。
目が合うと、いつもみたいに優しく笑ってくれた。
「やぁ」
「……こんばんは」
思っていたよりずっと落ち着いた声が出た。
佐伯先輩はまっすぐこっちに来ると、ベッドの端にそっと腰を下ろして。
手に持っていた小さな紙袋をそっと私の手に押し付けた。
「……なんですか、これ」
「君の落し物。―――ごめん、一応持ち主の確認したくて少し中見せてもらった」
「中……?」
「スケジュール帳の最初のページ。そこに貼ってあったプリクラを見たんだ、珠子と二人で写ってるヤツ」
紙袋の中から出てきたのは確かに私のスケジュール帳。
そういえば、あの時防波堤に落としてきちゃったんだっけ。
わざわざ拾って届けてくれたんだ。
「ありがとう、ございました」
「いや……ああそうだ、最初ちゃんちに行ったんだよ、俺。そしたらお兄さんたちが珠子んちに泊まりに行ったって教えてくれてさ」
「そうだったんですか」
「うん……」
「…………」
会話は長く続かなくて。
どちらともなく黙り込んでしまう。
珠子が戻ってくる気配はなくて、なんだかとても気まずくて俯いた私の頭を不意に佐伯先輩の大きな手が撫でた。
「―――さっきのことだけど」
早鐘のように鳴り続ける心臓の音が。
一瞬だけ止まった。
「……すいませんでした……」
「どうして謝るの?ちゃんが謝るようなことは何もなかったよ?」
優しい声。
そっと俯いていた顔を上げたら、そこにはさっきと変わらない、優しく気遣うような笑顔があった。
穏やかな眼差しに私を責める色は欠片も見えない。
それが、今の私には寧ろ辛かった。
「ちゃんにはいつも変なとこ見られてるよな、俺」
「ごめんなさい……」
「ちゃんが謝る必要はないって言ってるだろ?たまたま間が悪かっただけなんだから」
「…………」
「なんだか気を遣わせちゃってこっちこそごめん」
「……そんな、先輩が謝ることない、です……」
途切れ途切れに喉の奥から押し出した私の言葉に、佐伯先輩はありがとうと言って笑って。
私の頭に手を乗せたまま、空いてるもう一方の手でがしがしと自分の頭を掻いた。
「……それに、こっちも何か邪魔したみたいだったし」
「え?」
「俺の所為で気まずくさせちゃったんじゃないかって気になって。ダビデは気にしなくていいって言ってたんだけどさ、やっぱりちょっと、ね」
「……っ」
―――見られてた?
天根君とのあのやり取りを。
見られたの……?
呆然と見つめる私の視線に気付いて、佐伯先輩が困ったように笑う。
その表情と次に先輩が口にした科白とが、遠まわしに私の考えを肯定した。
「あ、でも話の内容は聞こえなかったから安心して」
「…………」
「……って、そういう問題じゃないか」
「…………」
「とりあえずダビデと仲直りしてやってよ。俺なんかの所為で二人の間がこじれたら悪い……」
言いかけた佐伯先輩の言葉が不意に途切れた。
ぱたぱたぱた、と小さな音が響いて、スケジュール帳の上に置いたままの指先に温かいものが触れる。
さっきこすった頬と熱は引いた筈の瞼が、ひりひりと痛んだ。
涙は後から後からあふれ出てシーツの上にいくつも染みを作って、熱っぽい頬や手のひらを濡らす。
ぼやける視界の中で佐伯先輩が戸惑い気味に私の顔を覗き込んだ。
宥めるように何度も髪を撫でるその手を振り払うように、私は夢中で何度も首を横に振った。
「ちゃん!?」
「……ぃます……」
「ごめん、俺なんか気に触ること……」
「……そうじゃないです、違います……私、天根君と……」
「ダビデと、何?」
「天根君とは、先輩が思ってるような関係じゃ、な……」
「え!?」
先輩は思い切り面食らったように何度も瞬きをして。
そしてさっきよりもさらに戸惑った表情で口を開いて何か言おうとした。
「じゃあ……」
その先に続くはずの言葉は。
勢いよく開いたドアが壁にぶち当たってはね返った音に掻き消された。
缶ジュースを腕に抱えた珠子がものすごい怖い顔で扉を蹴り開けて部屋に入ってきて、腕の中の缶ジュースを一本、無造作に佐伯先輩の膝の上に落とす。
そのまま転がり落ちそうになった缶ジュースは、床に落ちる直前で何とか佐伯先輩の手にキャッチされた。
あんまりといえばあんまりなその態度に、さすがに佐伯先輩もその穏やかな表情を消して珠子を睨む。
だけど珠子は全く動じないで思いっきり睨み返した。
「こら、珠子っ」
「それサエちゃんの分ね!じゃあ今日はもう帰って!!」
「は!?ちょっ、ちょっと待てって……」
「いいから、帰って!!」
「珠子!」
卵を守る雌鳥宜しく、猛烈な勢いで佐伯先輩を部屋の外に追い出して荒々しく扉を閉める。
扉が閉まる直前、一瞬だけ見えた佐伯先輩の何か言いたげなその表情が。
疼く瞼の裏に嫌になるほどしっかりと焼きついた。
何だかもうこのところすごく中途半端なところでばっかりきっている気が(気じゃない)。
この後の8話書いたら一応一区切り。連載終了ではなく、一部終了みたいな感じですが。