貴方のその胸の奥深くに、強く、鮮やかに。

刻みつけたい想いがある。
















緑深く、心深く


第8話 散る花、散らない花











ガツンと一発、乱暴にノックして兄貴が顔を覗かせた。
何でかしらないけど壮絶に機嫌の悪そうな顔。


「なーに、三兄」
「お前に客」
「え?誰、珠子?」
「……男」
「それだけじゃ何にもわかんないじゃん!名前とか聞いてないのぉ?」
「メンドくせぇ。玄関で待たせてあるからな」
「もーっ!」


机を離れて入り口に突っ立ったままの兄貴を押し退けて、急いで階段を駆け下りて。
残りあと四段というところでぴたりと足が止まった。
私が降りてくるのを待ち構えていた背の高い男の子。
―――天根君。


玄関に立ってこっちを見上げている天根君の顔を見た瞬間、ほんの一瞬、本当に一瞬だけ、回れ右して一気に階段を駆け上がりたいっていう気持ちが湧き上がったけど。
小さく一つ深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、残りの階段を降りて天根君の前に立つ。
いつもと変わらない感情の読みづらい表情でじっと私の顔を見つめて、天根君はゆっくりと口を開いた。


「……ちっす」
「ちゃっす」


そう言って軽く手を上げる。
私はきっと自分で考えていたよりもずっと自然に笑えていたと思う。
天根君はホッとしたように小さく笑い返した。


―――『あの日』から、もう10日経っていた。





















何だか知らないけどやたら兄貴たちがジロジロと睨んでくるので、私は天根君を促してさっさと家を出た。
近くの海岸に出たけれど、まだまだ海水浴のシーズンには早いからか、砂浜や波間にサーファーらしい男の人たちがちらほら見えるだけで他にほとんど人の姿はない。
浜辺に降りる前、すぐそこのコンビニで買って来たペットボトルを手に、私たちはしばらく黙ったままゆっくりと砂浜を歩いた。
ペットボトルの中身が半分くらいに減った頃、やっと天根君が口を開いた。


「……こないだは、悪かった」
「―――うん」


なんて答えればいいか迷って、結局頷いただけの私の隣で、不意に天根君が足を止めた。
二歩ほど進んでから同じように足を止めて振り返ったら。
少しつり上がり気味の鋭い眼差しが、真っ直ぐに私の目を見つめ返してきた。
一見キツそうな、でもどこか優しげな明るい色の瞳。


「あのあと珠子にすんげー怒られた」
「……あ、ごめん……その、話しちゃって」
「別にいい。と珠子の仲なら話すだろうと思ってたし。それに確かにいきなりあんな真似したら怒られて当然だし。本当にごめん」
「……そんな何度も謝らなくてもいいよ」
「それからサエさんにも怒られた」
「―――え?」


思ってもみなかったところで、思ってもみなかった名前が出て。
思わず聞き返した私の顔を見て、天根君は少し複雑そうに小さく頷いた。


「女の子泣かせるな、ちゃんと謝ってこいって」
「……そう……」
「ごめんな」
「や、だからもう、謝らなくっていいってば」


気の利いた言葉なんて一つも思い浮かばなくて私はひたすら首を横に振る。
そんな私を見て天根君は口元に微かな笑みを浮かべた。
それからまた少し表情を改めてとても真摯な視線を私に向けると、いつもと変わらない淡々とした口調でゆっくりと言った。






「―――こないだのことは謝るけど、諦めるつもりはないから」






この間と同じで感情の見えない、とても静かなその表情。
だけど私を見るその目は、確かな熱を帯びていて。
天根君にはとても失礼だけど、私は、私もあんな目で佐伯先輩を見れているかなと考えた。
一生懸命に誰かを想っている、きれいな眼差し。


天根君は大きく一歩前に踏み出して、ちょっと腕を伸ばしたら抱きしめられそうな、そんな近い距離からじっと私を見つめた。
ついさっき階段上から天根君を見た時のような、逃げ出したい衝動とかは感じなかった。
天根君の気持ちからもう逃げちゃいけないと、そう思って。
私はじっと天根君の目を見返した。




が好きだ」
「…………」
「中学の時から好きだった。がサエさんのこと好きでも諦める気はないから」
「…………」
「だからって無理に意識してくれとか言わないし、が嫌じゃなければ今までどおり友達のままでいてくれたら嬉しい」
「……うん」
「ただ、ちゃんと言っときたかったんだ。半端な気持ちであんな真似したんじゃないってことはわかって欲しいから」
「―――ありがとう」


ありがとうの後にごめんなさい、と言い掛けたけれど、そう返すのは間違いのような、そんな気がして。
繰り返しもう一度ありがとうと呟いた私に、天根君は困ったような嬉しそうな顔で、笑った。






その夜。
いつもより早めに入ったベッドの中で、私は一つの決意をかためた。































次の日の、放課後。
私は部活を早退して六角まで行った。
もう生徒が粗方帰ってしまったようであまり人気のない校舎を前に、校門前のガードレールに座って校庭の方から聞こえてくる掛け声に耳を済ませながら、一時間くらいぼんやりと過ごす。
時折校門から出てくる六角の生徒の視線もあんまり気にはならなかった。
セーラー服の襟とリボンが歩くリズムに合わせてひらひら揺れているのを見て、いいなぁ可愛いなぁ(うちの学校はブレザーだから)なんて考えている内に時間は過ぎて。
やがて何人かの足音と一緒に、聞き慣れた声が校門の中から聞こえてきた。


「おなかすいたのねー」
「だな!今日はどこ寄る?」
「はいはーい!僕マックでダブルチーズバーガー食べたい!」
「あたしはミスドがいー」
「俺は何か飲めればそれでいいよ」


真っ先に姿を見せたのは珠子だった。
すぐに私に気付いてくれて笑顔で駆け寄ってくる。


「やっほぉ、!」
「やっほー。お疲れ、今日も元気に洗濯したかね?」
「おうとも!マネージャーは大変よー」
「料理以外の家事はまともに出来るんだよねぇ、珠子は」
「一言多い!」


いつも通りのやり取りのあと、珠子は表情を改めてじーっと私を見つめる。
そこへ遅れて現れた他の皆が私の顔を見て笑顔で手を振ってくれた。
天根君も小さく手を上げて笑ってくれる。手を振り返した私に佐伯先輩が何か言いたげな視線を向けてきたけど、とりあえず笑って頭を下げただけで珠子との会話に戻った。
いたわるような珠子の眼差しを真正面から受け止めて笑い返すと、珠子は少し安心したように目元を和ませた。


「……大丈夫?」
「うん、ありがと」
「用事があるのはあたしじゃなくてサエちゃんだね?」
「うん」
「OK。他の皆は私が連れてくからやりたいよーにやんなよ」
「うん、ありがと珠子」
「今度ミスドでエンゼルクリームとチョコファッジシェイクね」
「……りょーかい」


苦笑しつつ頷くと、珠子はにっと笑って手を振って先輩たちの方へ戻っていった。
しっかり交換条件提示していく辺り、さっすが珠子抜け目ないなー……。
訝しがる皆を急き立てて校門前を離れていく珠子に感謝しつつ、私はガードレールから立ち上がってスカートの埃を払うと、一人残って皆を見送っている佐伯先輩に歩み寄った。


「―――佐伯先輩」
「うん?」
「すいません、急に押しかけてきて」
「構わないよ。俺に何か用があるんだろ?」
「……はい」
「ずっとここにいるのも何だし、とりあえず行こうか」


この間のことには少しも触れないで、佐伯先輩は穏やかに笑って私の頭を軽く撫でた。
先輩自身は珠子にするのと同じようにしているだけなんだろう、何気ないその仕草。
今まで何度も髪に触れた大きな手のひらに、私がどんなにドキドキしているかなんて、きっと先輩は知らない。
天根君とのことを誤解されたことで、あんなに私が泣いた訳も。
髪から離れた後も残る温かい手のひらの感覚が切なくて泣きそうになるのを堪えながら、私は先に歩き出した佐伯先輩の白いカッターシャツの背中を追いかけてゆっくりと歩き出した。


初夏の空は五時を過ぎてもまだ十分に明るい。
梅雨入りはまだなのに潮の匂いのする空気は少し湿気が多い気がした。
少しずつ朱色を濃くし始めた太陽を横目に見ながら、二人並んで海岸沿いの道をゆっくりゆっくり歩く。
私たちを包む空気は佐伯先輩の笑顔そのままにとても穏やかで、とても心地よくて。
昨日の夜心に決めた想いが揺らぎそうになる。
このまま、ただの先輩と後輩の関係のまま、こうやって時折並んで歩けるだけで満足してもいいと、そんなふうに。
だけど、心の内から響くその囁きに私はぎゅっと耳を塞いだ。
せっかくの決意をこれ以上揺らがせたくはなかったから。


「―――ちゃん?」
「あ、はい」


不意に呼びかけられてぱっと顔を上げたら、佐伯先輩が不思議そうな顔でこっちを覗き込んでいた。
慌てて笑顔を作ったら、先輩は安心したように笑い返してくれて。
そしてとても自然な仕草で私の手をそっと取った。
繋いだ手の暖かさを感じて、否応もなく胸が高鳴る。
―――熱が上がる。


「浜の方に降りようか」
「……はい」
「砂に足とられて転ばないようにね」
「そこまでドジじゃないですよ、私」
「どうかなぁ」


手を繋いで砂浜へと降りる。
足場が安定したところまで来て、佐伯先輩は繋いだ時と同じようにとても自然にするりと手を離した。
私も無理にその手を繋ぎ止めようとは思わなかった。


「―――こないだはごめん」


さくりと砂を踏む音。
それに重なった佐伯先輩の言葉に、私は何も言わずに首を横に振った。


「ダビデとのこと、勝手に誤解しちゃって悪かったね」
「いえ。それよりもあの時私がちゃんと珠子に説明しなかったせいで、嫌な思いさせちゃってすいませんでした」
「謝らなくていいよ。俺が早とちりしてちゃん泣かせたのが発端だったんだしね」


ホントにごめんな、と佐伯先輩は申し訳なさそうに笑った。
それから軽く表情を引き締めて、少し言い難そうに天根君の名前を口にした。


「……ダビデは君に謝ったって言ってたけど」
「はい、昨日わざわざうちまで来てくれて」
「そっか」

「―――こないだのことは謝るけど、好きだって言ったのはホントだって。まだ諦めないからって言われました」
「……ああ。そう、なんだ」
「男の子にそんなふうに言われたの初めてだったから、さすがにちょっとドキドキしました」
「へぇ……じゃあダビデもちょっとは脈アリってことなのかな」


何気ない口調でそう言って、私の顔を見てからかうように笑う。
先輩に悪気がないことはわかっているけど、それでも少し胸が痛んだ。

ちくちくと胸を刺すその小さな痛みに耐えて、真っ直ぐに佐伯先輩の顔を見て言葉を続ける。


「そういう意味でドキドキした訳じゃないです。それに私、好きな人いますから」
「え?」


佐伯先輩は眼を丸くして私の顔を見返す。
海から吹いてくる空気は湿っているのに唇が気持ち悪いほど乾いていた。
かさつく唇の隙間から紡ぎだした言葉はひどく震えていて、まるで自分じゃない別の誰かが私の口を勝手に動かしているような、そんな妙な錯覚さえ感じた。






「私、佐伯先輩が好きです」


「佐伯先輩のことが好きなんです」






どのくらいの間私たちは黙っていたのかは、わからない。
佐伯先輩の日に焼けた顔やカッターシャツの袖から伸びた腕を染める夕日の朱色が、少しずつ少しずつ濃くなっていくのだけが鮮明に感じ取れた。
でもその沈黙を辛くは感じなかった。先輩の視線に微かに混じった困惑の色も。
それは決して拒絶の色ではなかったから、だから辛いと感じなかったのかもしれない。
押し留めていた想いを言葉にしたことで胸の痛みが少しずつ和らいでいるようにさえ感じられた。






「……ありがとう」


沈黙を破った佐伯先輩の一言目は、昨日私が天根君に言った言葉と同じ。
でもそのあとに続いた言葉は、当たり前だけど私とは違ってた。






「だけどごめん。……俺まだ、彼女のこと忘れられてないから」






返ってきたその言葉を聞いても、やっぱりそれほど胸は痛まなかった。
佐伯先輩の気持ちを知っていたからって言うのも、もちろんあったんだろうけど。
彼女のことを今でも想っているその気持ちごと、先輩を好きになったからなのかもしれないと、ふと思った。
先輩が誰を好きでも。
その気持ちも全部ひっくるめて、佐伯先輩を好きだから。


―――天根君もそうだったのかな。
佐伯先輩を想う気持ちごと、私のことを好きになってくれたのかな。


でもそれはいつか天根君に聞けばいい。
今私がするべきことは。
きちんと自分の気持ちを全部、佐伯先輩にぶつけること。

天根君が私に自分の気持ちをきちんと伝えてくれたように。











「先輩がまだ彼女のこと好きでもいいんです」

「先輩が好きです」

「ただそれだけ、ちゃんと伝えたかったんです」






声はもう最初ほど震えたりしなかった。
一言一言にありったけの気持ちを込めて、声に出す。
佐伯先輩は驚きと困惑のないまぜになった表情のままじっと私を見つめていた。
そして何も言わずに私の告白を聞いてくれたあと、もう一度。


「―――ありがとう」


優しい声で、そう呟いて。
少し照れたように笑ってくれた。
















貴方に知ってほしい想いがある。
知ってもらわなければ何も始まらないから。
この想いを深く強く、貴方の心に刻みつけて、そしたら。


――― そこから何かが変わり始めるかもしれない。





















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相変わらず中途半端ですが、ここで一応第1部終了となります。
引越し終了後に第2部に入る予定です。サエを中心に男の子たちと珠子視点で書いていくと思われます。
今後もうしばらくお付き合いいただければ幸いですv