時間は止まらず、また季節は巡る。
近付いているのは、いつもと変わらない夏のはずだった。
緑深く、心深く
第9話 変化
「―――サエ先輩、ダビデ君!」
呼び掛ける声はとても朗らかに響く。
ダビデと二人揃って振り返った先で、改札口から走り出てきた声の主がこっちに向かって大きく手を振った。
「おっ待たせしましたー!」
「大丈夫、そんなに待ってないよ」
「珠子たちは?」
並んで歩き出すと同時にそう訊かれて、言葉の代わりに指で数メートル先のミスドを指差した。
透明な自動ドアの向こうに見えるレジカウンター前で、山のようにドーナツを盛ったトレイを手に珠子とバネがこっちを見て笑ってた。
それを見て笑い返すのかと思いきや、は引きつった顔で俺を見て。
「……あの非常識な量のドーナツは何ですか?」
「うん、俺ら昼飯まだだからさ」
「ホントにあんなに食べるんですか!?」
「うん。珠子以外は皆一人四個か五個くらいずつ食べるし、あのくらいの量にはなるよ」
「はぁ……」
「あんなにたくさんドーナツ食べるなんてどーんなヤツ……ぷっ」
呆れたように吐息を漏らしたの横で、お決まりのようにダビデが一言。
数秒間置いて、白けた視線をダビデに向けたがぽつりと呟く。
「……ダビデ君、あとで今のダジャレ、バネ先輩に報告していい?」
「ミスド出てからにしときなよ。店内でバネ暴れさせたら店とか他のお客さんとかに迷惑だからね」
「あっ、それはそうですね」
「…………」
……ふと気がついたら、蝉の声がうるさく聞こえるようになっていて。
部室にある、誰が持って来たかもわからない日めくりカレンダーがもうすぐ夏休みに入ると告げていた。
―――あの日から、もう一ヶ月以上経つ。
あれは五月の終わり。
幼馴染の珠子を介して知り合った女の子に告白された。
その子のことを決して嫌いだった訳じゃない。寧ろ好感を持っていたといっていい。
だけどやっぱり俺はまだ彼女のことを忘れられなくて。
だからごめんと言った。それで終わると思った。
だけどその子は―――は、真っ直ぐな視線を俺に向けて、それでも俺を好きだと言った。
それから何か変わったかというと、特に大きな変化はなかった。
変わったことといえばお互いの呼び方と、一緒に過ごす時間が増えたことくらい。
は珠子に誘われて用事のない日は必ずと言っていいほどうちの部に顔を見せて、細々した雑用なんかを手伝ってくれるようになった。まるでマネージャーがもう一人増えたみたいだな、とバネたちは笑った。
まるで珠子と同じで昔からずっと一緒にいたように、は俺たちの中に馴染んでしまって。
俺に接する態度も告白する以前と変わらなかった。
あの告白は夢だったんじゃないかと思えるほど、は以前と同じ笑顔を俺に向けてくれた。
そして俺たちは一緒に夏を迎えた。
黄色いボールが肩のすぐ横を過ぎって、ベースラインギリギリに叩きつけられた。
コートの向かい側でしてやったりって顔して亮が笑って。
「俺の勝ち」
「くっそ、やられた」
「つーか今一瞬ボーっとしてただろ。平気か?」
「大丈夫だと思うけど。ま、念のためちょっと水分補給しとくよ」
聡にバトンタッチしてコートを出る。
早速打ち合い始めた亮と聡を横目に見ながら木陰にあるベンチまで行くと、オジィと並んで腰を下ろしていた珠子とが笑顔で俺を出迎えた。
左右からタオルとドリンクボトルが差し出される。
「サエちゃんおっつー」
「お疲れ様です、サエ先輩」
「お、サンキュ」
両方受け取ってから、スケッチブックを丁寧に閉じているの隣に腰を下ろす。
少し角の丸くなった表紙の端に小さくの名前が書いてあるF6サイズのスケッチブック。
俺たちが練習している合間に、時折それを開いては鉛筆を走らせていることは知っているけど、何を描いているのかまでは知らない。
秋の文化祭用の下書きに何枚かスケッチしなきゃいけないとか何とか言ってたっけ。
「スケッチはどう?進んでる?」
「えーと、まぁボチボチ……」
「ってことはあんまり進んでないんだな。どんなの描いてんの?」
「どんなのって……普通に風景とか人物とか、色々ですよ」
「ちょっと見せてもらっていい?」
「え!?」
……そこまで派手に驚かれるようなことを言ったつもりはないんだけど。
はやたらでっかい声で叫んで両腕でスケッチブックを抱きしめた。
「ってどんな絵描くのか、ちょっと気になる。見てみたいな」
「ダダダダダダメですっ!!」
「何で?」
「恥ずかしいからダメー!!」
恥ずかしいからって。
すごく納得出来るようで今ひとつ納得いかないような、微妙な理由だな。
どう反応するべきか一瞬迷ったところに、いつの間に移動したのかの背後に来ていた珠子と目があった。
そろりと伸ばされた手が一瞬の隙を突いて後ろからスケッチブックを奪い取る。
「取ーった!」
「あっ!?ちょっと珠子っ!」
「サエちゃん見たいー?」
「それは当然」
「きゃーっダメダメダメダメーっ!!」
すごい大声で叫んだが、その声に負けないすごい勢いでベンチの背を跳び越して珠子の腕に飛びついた。
今日のの服装がスカートじゃなかったことを半分安心、半分残念に思いつつ(まぁ俺も男だから)、俺もベンチから立ち上がって珠子の方に加勢に入る。
「珠子、パス!」
「うっしゃ!」
「返してってば、珠子っ!!」
「もーあたし持ってないもーん」
「!ぎゃーっ中見ちゃダメだってばサエ先輩っ!!」
「そう言われると余計見たくなるんだよなぁ」
「だーめー!!」
華奢な身体が突進してきて、俺の腕にがっしりとしがみつく。
必死な顔して、目にはうっすら涙まで浮かべて。
ここらがやめ時かな。
そう思って、俺はに届かないようスケッチブックを高く持ち上げていた腕を下ろした。
「ごめんごめん。ほら、返すからさ」
「…………」
「ちょっとやりすぎたよ。ごめんな、」
まだ怒っているのか、の表情は硬い。
でもそれはほんの少しの間だけで、手を伸ばしてくしゃりと髪を撫ぜたら拗ねた表情がそれに取って代わった。
上目遣いに俺を睨んでスケッチブックを大切そうに胸に抱きしめる。
「……サエ先輩って顔に似合わず、結構意地悪ですよね!」
「だからごめんって。ってからかうと面白いもんだから、ついつい、ね」
「ホントーに反省してるんですかぁ!?」
「サエちゃんが腹黒いのは昔からよ」
「珠子に言われる筋合いはないと思うぞ」
「どっちもどっちって言うか、似た者兄弟ならぬ似た者幼馴染と言うか……」
深々と溜息をつきながら、今の一連の騒ぎで緩んだスケッチブックの紐を結び直す。
細い指先が動く様に何となく目が吸い寄せられて、じっと見つめていたら不意に後ろから肩を叩かれた。
「何だ、ダビデか」
「サエさん、次交代」
「ああ、うん」
見ればさっきまでダビデと打ち合っていた剣太郎が、こっちを見て満面の笑顔でブンブン腕を振っている。
あれだけ打ち合ってたのに、元気な奴……。
首にかけたままだったタオルを、悪戯心を起こしての頭にばさりと引っ掛ける。
驚いてこっちを見上げたに、ちょっと笑いかけて。
「ホントにごめんな。じゃ、いってきます」
「……いってらっしゃい」
「ところでダビデ、勝ったの?」
「モチ。餅屋にはモチロン勝つ……」
「つまんないから、それ。って言うか訳わかんないから」
「無理やりすぎ、ダビデ君」
「…………」
珠子とのコンボを思いっきり食らって無言で落ち込むダビデを尻目に、俺は笑ってコートに向かう。
やる気満々の笑顔で出迎えた剣太郎とジャンケンでサーブを決めた。
ベースラインまで下がってボールを軽く二、三度バウンドさせてから、何となく、本当に何気なくベンチのたちの方に目をやったら。
(……あれ?)
ベンチの腰掛けたオジィと、珠子と、と。
の後ろでベンチの背もたれに両手をついて寄りかかるように立っているダビデ。
の手の中でさっきのスケッチブックが開かれていて、ダビデがの肩越しにそれを覗き込む。
そしては。
少しだけ戸惑ったような表情を見せたけれど、スケッチブックを閉じはしなかった。
俺が見ることにはあれほど抵抗を示したのに。
(俺には、見られたくなかったって、ことか?)
ダビデはとは同学年だし、俺とかバネとかの年上相手よりは打ち解けやすいんだろうな、とか。
だからなんだ、と言われそうなことを考える。
そんなこと、ダビデには見せられて俺には見せられないことの理由になんか、ちっともならないだろ……。
心の中で自分で自分にツッコミなんか入れたりして。
何でだろう、俺、今相当、動揺してないか……?
「サーエさーん!?」
「え?」
「どーしたのーっ!?」
コートの向こうで剣太郎に呼ばれて我に返る。
慌てて手を振って、俺は黄色いボールを思いっきり投げ上げた。
渾身の力を籠めたサーブはサービスラインギリギリで跳ねて、剣太郎の横を通り過ぎる。
サーブは気持ちいいくらい綺麗に決まったというのに。
俺の気分は何故かすこぶる悪かった。
やっと連載再開。
二部はサエとダビデ視点ばっかりの予定。
……誰か私の代わりにダジャレ考えて下さい…………(大問題)。