気付いてしまえば、気持ちは募るばかりで。
けれどささやかな不安が心を塞ぐ。この先へ踏み出すことに躊躇う自分がいる。
踏み出した先に知る、君の気持ちが変わっていたら、その時俺はどうすればいい?
緑深く、心深く
第13話 心染める夜
「――― 先輩?サエ先輩!」
「え?」
真正面からこっちを覗き込むの視線を受けて、俺は思わず軽く仰け反った。
ボールペンが指の間をすり抜けて、小さな音をたててテーブルの上を転がる。
それを拾ってこっちに差し出しながらは軽く首を傾げた。
「どうしたんですか、ボーっとして。大丈夫ですか?」
「あ、うん、ごめん。ちょっと考え事してただけだから」
「それならいいですけど……あ、麦茶、取り替えますね」
そう言ってが取り上げたグラスの中身は碌に減っていないのに、氷だけきれいに融けて無くなっていた。
そんなに長いことぼんやりしていたつもりはなかったのに、時計を見れば時間はもう六時半を回っている。
程なくして戻ってきたは、テーブルの上をさっと拭いて俺の目の前に新しいグラスを置いた。
「はい、どうぞ」
「サンキュ。―――ホントにごめんな、無理やり合宿参加させちゃって」
「サエ先輩、その科白もう五回目!夏休み予定なくって暇してたから、気にしなくていいって言ってるじゃないですか。それに珠子の作る食事じゃ合宿にならないんでしょ?」
「そうなんだよなぁ、正直助かりました」
「でも私だってそんな大層なもの作れないんですけど」
「の料理だったら大丈夫だって」
「そうやってプレッシャーかけないで下さいよ!」
そう言って笑うに軽く微笑み返して、俺は麦茶のグラスに口をつけた。
冷たいお茶と一緒に流し込んだ小さな氷を噛み砕くと、まだどこかぼーっとしていた頭がすっきりする。
明日の練習スケジュールの見直しの為にボールペンを握り直して。
だけどテーブルの上のノートに向けるはずの視線は、ほとんど無意識にキッチンカウンターの奥に戻ったの背中を追いかけていた。
甲斐甲斐しく動き回るその姿を目にすると気持ちが和んだ。
でも、その隣で当たり前のような顔をして夕食の準備を手伝っているダビデの姿を見止めた瞬間にそんな気持ちは消し飛んで、ただ焼けつくような痛みばかりを感じていた。
―――嫉妬、と言う名の、痛みを。
夕食の片付けを手伝った後、風呂から上がって部屋に戻ったら、先に上がっていた皆が揃って異様な盛り上がりを見せていた。
中でも特に上機嫌な剣太郎が俺に気付いて、真っ赤な顔でブンブンと手を振り回す。
……どう見ても酔ってるようにしか見えない。
「あーっサエさーんっ、おっかっえっりー!!」
「……誰だよ、剣太郎に酒なんか飲ませたのは」
「俺、俺ー!」
これまたいい感じに出来上がっている聡がへらりと笑って、手に持った缶チューハイを振ってみせた。
テーブルの上には、既に空らしいビールやチューハイの缶が何本も散乱している。
つうかなんで酒なんか持ち込んでるんだよ……普通にバレたら停学、大会出場停止だぞ。
幸い、うちのテニス部に関しては学校側が全面的にオジィに任せてるから(ある意味無責任だよな)、今回の合宿もお目付け役になるような教師はいないし、バレる可能性はかなり低いけど。
微かに溜息をついた俺に向かって缶ビールが飛んでくる。
咄嗟にキャッチすると、投げた張本人のバネが「ナイスキャッチー!」と笑った。
「危ないな、いきなり投げるなよバネ!」
「おー悪ぃ悪ぃ!」
「それ開けるなよ、サエ。まだあるからさ」
「言われなくても開けないよ」
投げられてシェイクされたビールなんて開けたら、もう一回風呂に入る羽目になるじゃないか。
手の中の缶をテーブルに戻したら、亮が新しいものを一本差し出してきた。
仕方なく受け取ると、亮が自分の缶ビールをそれに軽くぶつけて笑う。
「そんじゃ乾杯」
「これ持ち込んだのお前だろ、亮」
「俺だけじゃないぜ、聡も共犯」
「今日だけにしとけよ。後片付けも任せるからな」
「オッケーオッケー。あ、因みにオジィにもちゃんと差し入れしといたから」
ぱしゅっと軽い音をたててプルリングを上げて口をつけると、ほろ苦い炭酸が喉をすべり落ちた。
久々に飲んだな、ビールなんて。
バネも聡も樹っちゃんももう結構飲んでるらしくて、剣太郎同様かなりテンションが高い。
四人で子供のプロレスごっこよろしく取っ組み合いを始めたのを横目で見ながら、ふと気がついて亮に訊ねた。
「……ダビデは?」
「ん?ああ、珠子とを呼びに行った。多分あいつらもまだ風呂じゃないのって言ったんだけどさ」
「ふぅん」
「……気になるか?」
思わず手を止めた俺を見て、亮がにやっと笑う。
亮は勘がいいから、俺の気持ちなんか当にわかっているんだろう。
そう考えたら誤魔化すのもすっとぼけるのもバカらしくて、俺は一本目のビールを全部飲み干してから小さく頷いた。
「気になる」
「へぇ、珍しく素直じゃん」
「俺はいつでも素直だよ」
「嘘つけ。―――ほら、次」
「サンキュ。……マジな話、かなり余裕ないよ、俺」
二本目のプルリングを開けて一気に三分の一くらい飲み干して。
大分軽くなった缶を片手に壁に寄り掛かる。
取っ組み合いを続けているバネたちの、ぎゃーとかわーとか叫ぶ声に掻き消されない程度の声で話す。
「……確かにに好きだって言われたけど。でも気持ちは変化するものだろ。現に俺の気持ちは変わったし」
「まぁね」
「最近はダビデとすごいいい感じに見えるし。好きだと言ったところで今更と思われるかもしれないだろ?」
「…………」
「そう考えたら、なんか言い出せなくなっちゃってさ」
溜息と一緒に飲み込んだビールは、さっきよりも苦く感じられた。
黙ったまま何も言わないで、亮も自分のビールに口をつける。
早々と二本目の缶を空にして、俺はさっきバネが投げて寄越した缶を取り上げた。
シェイクされた炭酸は時間を置いたおかげで落ち着いたのか噴き出すこともなく、俺は少し温くなり始めていたそれをまた一気にあおった。
「――― それに」
「ん?」
ぽつりと呟いた俺の顔を亮がじっと見る。
曖昧に笑ってみせて、俺は半分くらいに減った缶をゆらゆらと揺らした。
「それに、一度はの気持ちを無碍にした俺には、今更好きだとか言う資格はない気がした」
「……俺は別にそんなことないと思うけど」
「うん……結局は言い訳だよな。自分に勇気がないだけだよ」
好きだと告げる、その勇気が持てないだけだ。
そんな自分が何だかとても情けなくて、俺は自嘲気味に笑って三本目の缶を空にした。
亮はそれ以上何も言わず、ゆっくりと自分の分のビールを飲み干す。
二人揃って次の缶に手を伸ばした時、軽いノックの音と共に部屋の扉が開いた。
明るい声が部屋中に響きわたる。
「うわ、お酒臭いっ」
「あー珠子ちゃんとちゃんだぁぁ」
「ダービーデー!てめー逃げてんじゃねーよ!飲めオラ!!」
「ちょっとバネさん痛いって!どわっ」
「……何かもう既に皆出来あがってない?」
「ずるいよ皆して先に飲んじゃってー!あたしの分はー!?」
並んで姿を見せた珠子ととダビデ。
ダビデはあっという間にバネに引っ張られてなし崩し的に取っ組み合いに参戦、珠子は珠子で俺たちの方に駆け寄ってくるなり、テーブルの上のまだ未開封の缶チューハイに飛びついた。
その様子を呆れ顔で眺めていたがこっちに気付いて、目があった途端、俺は反射的に軽く手を振った。
うっすら微笑んだはこっちに近寄ってきて、一本目に口をつけてる珠子の隣にちょこんと座り込むと、俺と亮の顔を交互に見て軽い溜息をついた。
「二人も大分出来上がってますね」
「そんなことないよ、俺はまだ四本目だし」
「『まだ』じゃなくて『もう』四本目でしょー?亮先輩はそれで何本目?」
「俺はこれで五本目かな」
「二人共そのへんでやめといた方がいいですよ!明日二日酔いで練習にならなくなったらどうするんですか」
「そんな柔じゃないよ、なぁ亮」
「だよな」
悪ノリして缶をぶつけ合う俺たちを見て、はもう一度溜息をついた。
ダビデも入って更に大騒ぎしてる取っ組み合い組の方を見ながら、はサイダーの缶を手に取る。
四本目に口をつけた時、視界が一瞬くらりと揺れた。
いつもより酔いが回るのが早い、久しぶりに飲んだ上にペースが早過ぎたからかな。
テーブルに缶を戻した俺に気付いて、が気遣うような視線をこっちに向けてきた。
「サエ先輩、大丈夫?」
「うーん、やっぱちょっと酔ったかな。少し外の空気にあたってくるよ」
「私、一緒に行きましょうか」
「ああいいよ、少ししたら戻るからさ」
何となく一人でぼんやりしたい気分もあって。
俺は笑って手を振ると、部屋を出て合宿所の外に向かった。
昼間の茹だるような暑さが嘘のように外は涼しく、風が心地良かった。
テニスコートまでふらっと歩いてきて、いつもオジィが座っているベンチに寝転がって少しの間うとうととまどろむ。
どのくらい経った頃かわからないけど、それまでうっすら差していた月明かりが急に翳って。
何だろうと目を開けたら、ベンチの背もたれ越しにこっちを覗き込んでいたと目が合った。
「す、すいません、起こしちゃいました?」
「いや……大丈夫。どうかした?」
「サエ先輩大丈夫かなって、やっぱりどうも気になって」
俺が起き上がるのに合わせても前屈みになっていた身体を起こして。
手招きすると、ベンチをぐるっと回ってきて端の方に腰を下ろす。
俺との間に微妙に開けられた距離が、少し気になった。
「少しは酔い醒めました?」
「そんなすぐには無理だよ。は飲まなくていいのかい?」
「ビール嫌いなんです、苦くて。何であれが美味しいのかわかんない」
小さな子供のように口を尖らせて言う。
苦くて、と言う理由が可笑しくて思わず笑った俺を軽く睨んで、は拗ねたように言葉を続けた。
「子供っぽいとか思ってるでしょう」
「うん?まぁ、ちょっとだけね」
「いいですよーだ、どうせガキですもん」
「いいんじゃない?可愛い理由だと思うよ、俺は」
「何ですかそれ……サエ先輩、何でも可愛いって言えば私が黙ると思ってませんー?」
深くは意味を成さない他愛のない会話を、今までこれほど楽しいと思ったことはなかった。
くるくると変化するの表情は見ていて飽きない。
もっといろんな表情が見たいと思う気持ちに、まだ醒めない酔いも手伝って俺はいつになくよく喋った。
そんな俺に釣られたのか、もいつにも増して言葉数多く、楽しげに喋ってくれて。
けど俺との間に開いた人一人が座れそうな距離だけは縮まらなくて、会話が途切れた瞬間にその何倍もの距離が俺たちの間にあるような、そんな錯覚に陥った。
――― その時俺は酔っていて。
普段だったら、そんなことをしようとは思わなかったんじゃないかと思う。
だけどその時の俺は酒にも、そして多分、その場の雰囲気にも酔っていた。
、と短く名前を呼んで。
はい、とやっぱり短く答えてこっちを振り向いたが、次の言葉を口にする前に。
ずるずると身体を横倒しにしての膝の上に自分の頭を乗せた。
「―――ちょっ!さささサエ先輩!?」
「ごめん、やっぱり結構酔いが回ってるかも、俺」
「それはわかりましたけど、あのね、先輩!?」
「少しの間、膝貸して」
「かっ、貸してって……」
真下から見上げたの顔は、仄かな月明かりの下でもそうとはっきりわかるほど赤く染まって。
戸惑ったその表情がとても愛しく感じられた。
アルコールが回った時特有の、ふわふわとして安定感に欠ける感覚がひどく心地良い。
その感覚が助けになって。
俺は多分素面のままでは訊けなかっただろう問いを口にした。
「―――」
「な、何ですか?」
「例えばの話、なんだけどさ」
「はい」
「例えば俺が、あれだけ好きだって言ってた彼女への気持ちをあっさり忘れるような、そんな薄情なヤツだったとしたら……」
「……サエ先輩?」
「そんなヤツだったとしても……俺のことを好きでいてくれる、かな」
酔いの所為か、寝転がった所為か、また俺はうとうととまどろみ始めて。
霞む視界の中で、驚いたように目を瞠っていたは、その表情がゆっくりと変わっていって。
じっと俺のことを見下ろすその顔を、今まで見てきた中で一番綺麗だと思った。
睡魔の誘惑に負けて完全に目を閉じた俺の、途切れかけた意識の中で。
最後に聴こえたの声は、微かに震えていたような気がした。
『―――好きです』
未成年の飲酒は法律で禁じられていますよ、と。(何を今更)
バネちゃんとかダビデは飲むとめちゃくちゃテンションあがるといい。剣太郎や首藤も。
樹っちゃんは実は泣き上戸だと更にいい。んで亮ちゃん一人がザルだと尚更いい。(何がいいんだか)