『長太郎大好き!』

毎日のようにそう言って笑う小さな女の子は、ずっと自分の傍にいると思っていた。
ずっとずっとそうだったから、これからもそれは当たり前のように続くのだと、そう思っていたんだ。
















この胸の光る星 ― The love shines in the heart like a little star ―


第6話 約束のキラキラ星











「―――鳳君?」
「……え、はい。何ですか?」
「……どうしたの?何だか今日おかしいよ?」


二人掛けの小さなテーブルの向こう側で、アイスティーのグラスを前にあすかさんは軽く頬をふくらませた。
グラスの中身はいつの間にか半分ほどに減っていて、対して俺のホットコーヒーは全く減らないままで。
訝しげなあすかさんの視線を受けて曖昧に笑ってコーヒーに口をつける。
ドーナツショップの薄いコーヒーはすっかり冷めていて、舌先に嫌な苦味だけを残した。


「ぼんやりしちゃって、らしくない感じ」
「そうですか?疲れてるのかな」
「部活で何かあったの?何だか今日の練習も、いつもより空気がピリピリしてたし」
「別に何もないですよ。あすかさんが心配するようなことは何もないです」
「……それなら、いいけど」


今ひとつ納得のいかない顔でぽつりと呟いたあすかさんに、俺はもう一度笑って見せた。
上辺だけの、薄っぺらい笑顔で。











あすかさんを駅まで送ってから家に帰って、自室の窓から見えるの部屋の様子を伺う。
一昨日の夜からずっと締め切ったままの窓の向こうは真っ暗で。
いつも俺の部屋の電気が点くのを確認する為に少しだけ開けていたはずのネイビーブルーのカーテンは、今は少しの隙間もなくきっちりと閉まっていた。


俺は自分の窓を開けて、1メートルと離れていないの部屋の窓の方へ身を乗り出した。
きっちりと鍵の掛かった窓を軽くノックして、小さな、でもこの窓のすぐ向こうにあるベッドの中には届くくらいの声で呼び掛ける。


……ただいま」




締め切った窓の向こうから、俺の望む声は返ってこなかった。





















―――物心つく前から傍にいたひとつ年下の女の子。
小さな頃の思い出のほとんどを共有してきたは、俺にとっては本当の妹同然で。
幼稚舎から氷帝に入った俺を追いかけて一年遅れでが入学してきた時もとても嬉しかったし、中等部・高等部と学年が上がっていってもが傍にいるのを鬱陶しいと思ったことはない。
いつの頃からか俺のことを好きだと言い始めて、俺が付き合っている子の事を悪く言ったりこれ見よがしに拗ねて見せたりした時も、困ったなとは思っても突き放す気にはなれなくて。
の言う『好き』は妹が兄に対して言う『好き』以上のものには思えなかったし、寧ろそんなふうにやきもちを焼かれたりすると、一層可愛く思えて仕方がなかった。
人懐こくて警戒心の薄いは、傍から見ていると危なっかしくて目を離せなくて。
いつかは兄離れしていくんだろうけど、それまでは俺が守ってやらないと、と思ってた。


クラスメイトにを紹介して欲しいと言われた時、俺は少し迷った末にOKした。
に彼氏が出来るにしても、それが俺の知ってる奴なら少しは安心かな、と思って。
そのクラスメイトには『がいいと言ったら』と条件をつけた。
そして一昨日の帰り。久しぶりに二人で帰っていた時に、俺はその話を持ち出した。




、今好きな奴っている?


その時のの顔は何でか思い出せない。
クラスメイトのことを適当に話してから同意を求めて名前を呼んだ瞬間、はまるで知らない人でも見るような顔で俺のことを見て、そしてその場から逃げるように走り去った。
それきり俺はの顔を見ていない。声すら聞いていない。
追いかけての部屋の前まで行ったけど、は何も言わずに部屋に閉じこもったまま。


――― そうしてが学校を休み始めて、明日でもう三日になる。































翌朝。
朝練がなくて時間に余裕があったから隣家に寄ってみた。
インターフォンを押して少し、玄関先に現われたエプロン姿のおばさんは俺の顔を見て困ったように微笑んだ。


「あら、長太郎君……」
「おはようございます。あの、は?」
「迎えに来てくれたのに申し訳ないんだけど、まだ調子が悪いみたいで学校行きたくないって言うのよ。相変わらず食欲もないみたいだし、大事をとって今日も休ませようと思うの」
「……そうですか」
「心配掛けちゃって、本当にごめんなさいね」
「いえ。それじゃの担任の方には俺から知らせておきます」
「そう?じゃあお願いしようかしら……ありがとう」
「いってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」


笑って俺を見送ってくれたおばさんの顔は、心なしかやつれて見えた。











の担任に欠席の連絡をする為に職員室を経由してから教室に向かう。
まだクラスの半数ほどしか来ていない教室の、一番後ろの俺の席。
何故かそこには先客がいて、俺の顔を見るなり不機嫌そうに手を上げた。


「―――日吉?人の席で何やってるんだ?」
「お前に聞きたいことがあってな」
「聞きたいことって」
「あいつのことだ」


お前の妹分だ、と不機嫌そのものの顔で日吉が呟く。
のこと?


に何か用か?」
「今日の放課後、見舞って来いと言われた。部長命令だとよ」
「―――跡部部長が?」
「部長だけじゃない、忍足さんたちも、ついでにマネージャーもだ」
「…………」


皆、滅多に休んだりしないのことを心配してくれているんだろう。
でも何だってわざわざ日吉を行かせるのかがわからない。自分たちで行けばいいのに……。


「それで、訊いておきたいんだけどな」
「何を」


聞き返した俺の顔を見て、日吉はいつもと同じ無表情のまま、熱のない口調でこう言った。


「あいつと何があったんだ?」
「いきなり何だよ」
「あの脳天気女が何の理由もなしに何日も学校を休むとも思えない。そう簡単に病気するような弱っちろい性質でもねぇし、お前と何かもめて落ち込んでるんじゃないのかと思ってな」
「……わからない……」


もめた、つもりは俺にはない。
でも俺のしたことがを傷つけたのは多分間違ってない。
だけどわからないから。
が何に傷ついたのかがわからないから、窓越しに謝ることさえも出来なくて。
先に進めない。


「俺の何がいけなかったのか、わからないんだ」
「ふん……」
「悪いんだけど、見舞いの後にの様子がどんなだったか知らせてくれないか?」
「逢ってねぇのか?」
「……俺が行くと部屋に閉じこもって出てこないんだ」
「……仕方ねぇな」


わかったよ、と俺にだけ聞こえるように呟いて立ち上がると、日吉は自分の席に戻った。
日吉がを見舞ってくれることで、少しでも状況が動けばいいんだけどな……。
そのことばかり考えているうちに時間は過ぎて、
放課後、日吉は言ったとおり部活を休んで見舞いに行った。
学校へ戻ってくるかと思ったけど、結局部活が終わっても日吉は姿を見せなかった。
その代わり、俺の携帯には一通のメールが届いていて。


『特に問題ない。顔を見せてやれ』とだけ書かれた日吉からのメール。
それに『わかった。ありがとう』とだけ返信して、俺は先輩たちへの挨拶もそこそこに部室を飛び出した。


――― 一秒でも早く、の顔が見たかった。





















家に帰り着いた時には、空はもう暮れ掛けていた。
とりあえず荷物を置きに戻って、服を着替えながら窓越しにの部屋を伺い見る。
相変わらずカーテンはぴったりと閉まっていたけど、やわらかな白熱灯の灯りがネイビーブルーのカーテンをすかしてほのかにもれていて、それが俺の気持ちを一層急かした。
焦って着替えを終えて部屋を飛び出そうと窓に背を向けた時。


カラカラカラ……と小さな音と。
それに重なって、小さな声が。


「長太郎」


弾かれたように振り向いた先、開け放たれたカーテンの向こうで。
がこっちを見つめて、少しやつれた顔で控えめに微笑んだ。


「おかえりなさい」
「……ただいま」
「そっち、行っていい?」


窓から身を乗り出して訊ねたに頷いたら、相変わらずの身軽さで俺の部屋へ入ってくる。
いつものようにベッドに腰を下ろしたは、立ったままの俺を見上げて困ったように笑った。


「座んないの?」
「あ、うん。座るよ」


促されるままの隣へ腰を下ろすと、いきなりは深く頭を下げてきた。


「こないだはごめんなさい!」
「……は謝るようなこと何もしてないよ」
「理由も言わないで走って逃げて、その上顔も合わせなかったのは、十分謝るべきことだと思うんだけど」
「だって、俺の所為だろ?」
「……長太郎は悪くないよ」


一瞬泣きそうな顔で、は俺を見つめて。
それからもう一度、今度はいつものようににっこりと屈託なく笑って見せた。
でもそれは無理して笑っていると一目でわかる笑顔で、俺は居たたまれなくなって思わずその華奢な肩を抱き寄せた。
ぎゅっと力を込めた腕の中で、薄い肩がびくっと震えた。


「……ちょーたろー、痛い」
「あ、ごめん」
「いつまでも子供扱いしないでよ、もう……」
「いつもはの方から抱きついてくるじゃないか。最近はなかったけど」
「……あすか先輩に悪いもん」
「そんなこと気にしなくていいのにさ」
「あたしが嫌なの。あすか先輩好きだから、嫌な思いさせたくないの」


ぐい、と俺の胸を押し戻して腕の中から抜け出ると、は小さく息をついた。
その視線が部屋の中を少し彷徨って、カップボードの上に置いてあるヴァイオリンケースに留まる。
ぱっと笑顔に戻って立ち上がったはヴァイオリンケースを取って戻ってきて、俺にそれを差し出した。


「長太郎弾いて!」
「いきなりだなぁ」
「最近聴いてなかったもん。弾いて欲しい、ねぇ聴きたいー!」
「わかった、わかったって」


押し付けられたケースを机の上で開けて、ヴァイオリンを取り出す。
いつものように少し調弦してから、弓を持ってベッドに座り直したの方へ向き直って。


「リクエストは?」
「―――キラキラ星変奏曲」
「また?」
「……だって好きなんだもん」
「はいはい、わかった」


いつも通りのやり取りがこれほど嬉しいものだとは思わなかった。
俺は自然に浮かんでくる笑いを抑えて、小さくひとつ咳払いをすると
そっと弦の上に弓をすべらせた。




―――キラキラ星変奏曲。

の八歳の誕生日にの為に弾いた曲。
習い始めてから随分経っていたけど、の前で演奏したのはあの日が初めてだった。
にはいいところばかりを見せたかった、それは子供だった俺なりのプライドで。
弾き終わった後、小さな手で一生懸命拍手をしてくれたの笑顔を、今でも覚えている。
それがとても嬉しかったことも。


あの日から、この曲は以外の為には弾かないと決めた。
の前で、の為だけに弾く、キラキラ星。
それは俺にとって大事な約束事だった。






「……ありがと、長太郎」
「どういたしまして。ところで、明日は学校行くのか?」
「うん、行くよ」
「俺、朝練あるけど一緒に行こうか」


ヴァイオリンを片付けながら何気なく言った一言。
余程のことがない限り断らないと思ってたの返事はなく、数秒間の沈黙が俺たちの間にわだかまった。
あれ……?


「……?」
「ごめん、あたしそろそろ部屋に戻るね」
「え?ちょっと待っ……」






「―――あたし、明日から若ちゃんと一緒に学校行くの」






窓枠に手をかけてこっちを振り返ったの口から、そんな科白が零れた。
予想もしなかった名前。
日吉……?
何で、日吉と。


「言いそびれてたんだけど、あたし若ちゃんと付き合うことになったんだ」
「……何だよそれ……」
「明日から待ち合わせて一緒に学校行くから、長太郎とは行けないや。ごめんね」


早口でまくしたてるように喋った後、華奢な身体はひらりと窓から出て行った。
慌てて後を追って窓に飛びついたら、は自分の部屋の窓からこっちを見て、にっこりと笑った。
無理して笑っているのが一目でわかる、苦しそうな笑顔で。






「……おやすみっ」
!」


窓が閉まって、カーテンがひかれて、の姿は俺の視界から消えた。
夜空みたいな色をしたカーテンが、まるで俺たちの間を隔てるように窓ガラスの向こうでゆらゆら揺れているのを見ながら、俺は呆然とその場に佇んでいた。





















……to be continued.

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無駄に長くてすいません。シスコンチョタですいません……!
チョタは過保護だと思うんだよ!実際妹とかいたらめっちゃ過保護……であって欲しい……!(願望)