望んだものなんて、ほんの僅か。
















 〜Boy's Side〜











闇雲に走って、気がついたらバネの家の近くに来ていた。
頬に張り付く濡れた髪の感触が鬱陶しくて、強く頭を振ったらまた微かな目眩を感じた。


「―――サエ?」


その時聞こえてきた声に、自分でも驚くくらい身体が震えた。
俯いていた顔を上げたら、こっちに向かって走ってくるバネの姿があって。
その背中に背負っているテニスバッグを見て、そういえば俺のバッグは玄関前に置きっ放しにしてきちまったな、なんて的外れなことが頭の片隅を過ぎった。


「着替えもしねぇで何やってんだよ。この後すぐ買出しして、お前んち行こうと思ってたんだぜ?」
「…………」
「わざわざ来る必要なんか―――」


バネはそこで言葉を途切れさせると、聞こえるか聞こえないかの小さな溜息をついて、俺の頭に手のひらを乗せてぐしゃぐしゃと乱暴に髪を掻き回した。


「……とりあえず入れや。着替えくらい貸してやっからよ」
「……悪い……」
「風邪でもひかれたら、俺が皆に殺されるからな」


いつもと変わらない調子で笑うと、バネは家の門をくぐって俺を手招いた。
その後ろについてのろのろと歩き出しながら、ところ構わず根掘り葉掘り聞いたりしないバネの性格を、とてもありがたいと思った。











シャワーを浴びて借りた着替えに袖を通して、離れにあるバネの部屋でやっと人心地ついて。
日に焼けた畳の部屋。
裏庭に面したでかい窓に寄り掛かって網戸越しにぼんやりと空を眺めていたら、俺より後に風呂に入ってたバネが戻ってきて、冷えたコーラの350ml缶をこっちに投げて寄越した。


「おらよ」
「……サンキュ」
「今、樹ちゃんと亮とダビデには集まるのうちに変更したって連絡した。ダビデが剣太郎にも声掛けとくとさ」
「悪いな……」
「悪いと思うんなら話せよな、あんなカッコでうちの前に突っ立ってた理由をよ」


俺と同じように窓枠に寄り掛かるように座って、自分の分のコーラのプルタブを起こす。
俺はまだ少しくらくらする頭を冷やしたくて、冷たいアルミ缶を自分のこめかみにそっと押し当てた。
相変わらずジワジワと煩い蝉の声。
けど、家に帰り着いた時はまだ高かった日は落ちてきて、昼間の熱も大分引いて。
熱に浮かされたようなあの時の感情の高ぶりは、今の俺の中には欠片も残っていなかった。


「サエ?」
「…………んだ」
「…………」
「話せないんだ、バネ」


話してしまったら、きっと更にを傷つける結果にしかならない。
そして俺は本当に居場所を失う。
の傍、そしてバネたちの―――仲間たちの傍にも、きっと俺の居場所はなくなる。

あんなことをしてしまった今では、もう手遅れなのかもしれないけど。
それでも、一日でも、一時間でも、一分でも。
この居場所にしがみついていたいと思う俺は、本当に弱い。




―――不二。
不二、お前は俺を買いかぶり過ぎだよ。

お前の言うような強さなんて、俺は少しも持ってなんか。

―――持ってなんか、いなかった。






「……ったく」


コーラの缶をぐっとあおって、らしくない苛立たしげな口調でバネが呟いて。
空いている手でぐしゃりと自分の髪を引っ掻き回す。
立てた片膝に肘をついて俺の方へ身を乗り出して、真っ直ぐに俺を睨んだ。

いつもなら真っ直ぐ見返せるバネの視線を受け止めることが今は辛くて。
深く俯いて、手の中のアルミ缶をもてあそぶ。
温くなり始めたアルミ缶についた水滴が滴って、借り物のナイロンパンツの膝に染みを作った。
別の話題を持ち出すことも出来ない気まずい空気を粉々にぶち壊したのは、次にバネが発した言葉。




「―――にフラれでもしたのかよ?」
「―――」


ゴトンと音をたてて俺の手の中からアルミ缶が転がり落ちた。

バネの言葉が、警鐘のように何度も何度も、頭の中で鳴り響く。
それに重なるように、どうして、何故、という言葉が喉の奥からせり上がってきて、でもそれは声にならずに苦しい吐息に姿を変えた。


完全に押し隠してきたつもりの気持ち。
不二以外の誰にも、気付かれていないと思っていた。
誰にも話すことをしなかったものを。

どうして、バネが。




「図星か?」
「…………な、んで……」
「ンだよ、とっくに気付いてたっつの、そんなもん」
「――― ……」
「あのなぁ、俺らが何年一緒にいると思ってんだ?俺も亮も樹ちゃんもダビデも剣太郎も、ついでにここにはいねぇが淳もな!皆とっくの昔に気付いてらぁ!!
俺らはお前とそんな程度の浅い付き合いしてきたつもりねぇからな!お前が半端な気持ちで女を、しかも自分の姉貴を好きになるようなそんな男じゃねぇってのもちゃんとわかってんぞ……!」


開け放たれた窓から漏れ聞こえないように低く落とした声は、悔しげな響きを含んで響いた。
一気に残りのコーラを飲み干して、バネはテニスで負けた時にだって早々見せないような、すごく悔しそうで情けない顔をして、腕を伸ばして俺の頭をバシッと張り倒した。


「もーちっと俺らのことを信用しやがれ、バカサエ!」
「……痛いって、バネ」
「バカヤロ、俺らの方がもっと痛い思いしてきてんだよ!6年もずーっと隠し続けやがってよ……!黙って見てたこっちの身にもなってみろっつーんだ」
「……何だよ、全く……」




……バカみたいだ。
一人で悩んで苦しんで、誰にも理解されないなんて思い込んで。
失うかもしれないと、恐れて。
わかってくれる奴らがこんなにも近くにいてくれたことに、気がつきもしない程。
この世でたったひとりきりみたいな、そんな気になってた。




「―――バカだな、俺」
「全くだ。手のかかる大馬鹿野郎だぜ」


偉そうに踏ん反り返ってバネがボヤく。
何も言い返せなくて、俺は小さく笑った。

笑った瞬間、胸につかえていたたくさんの思いのひとつが、すっと溶けて消えた気がした。




「―――バネ」
「あんだ?」
「ありがとな」
「言うのが遅ぇよ。まぁ、許してやるけどな」
「ついでにもうひとつ、頼んでもいいかな」
「ん?」


温くなったコーラのプルタブを起こして、炭酸で喉を潤して。
俺は窓の外、沈み始めた夕日を見ながら言った。




「そうだな、亮に……ここに来る前に、の様子を見てやって欲しいって伝えてくれないかな」





















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