Act.1 A thought begins to move again.
―――二年ぶりに感じる、潮の香の混じる空気はいやに新鮮だった。
海岸沿いの道を歩きながら、少し離れていただけでこんな風に感じるものなんだな、としみじみしたりなんかして。
引越しの荷物は一足先に送ってあったから、今日の荷物はショルダーバックひとつだけ。
駅からの道なりに懐かしい店を見つけては足を止めて中を覗き込むと、そのたびに顔見知りのおじさんやおばさんが
「おお、久しぶりだなぁ」とか「あらちゃん!いつ帰って来たの!」なんて親しげに声を掛けてくれた。
顔馴染みに会って、子供の頃から慣れ親しんだ空気に触れて、自然と顔が綻ぶ。
二年ぶりの故郷はひどく優しく、私を迎え入れてくれた。
千葉の一角にある、海沿いの小さな町。程よく田舎で、程よく便利で。
近所付き合いが盛んで、町全体、大人も子供もひっくるめて、ひとつの家族のように仲がいい。
のどかで優しい町。大好きだったけれど、二年前、私はあえてこの町を出る選択をした。
受験先に選んだ県外の短大は、自宅からはとても通える距離ではなくて、私は母方の祖父母に受かったら下宿したいと
頼み込んだ。
そして、無事合格して、二年間。
長期の休みは私が帰らなくても両親が祖父母に会いに来るので顔を合わせられるし、友達との付き合いやバイトなども
あったから、私は一度もこの町には帰らなかった。
就職も向こうで、と考えていたのだけれど、実家の商売(小さな本屋だ)を手伝って欲しいと両親に言われて。
結局就職はせずにこの町に戻ってきた。
子供の頃から出入りしている駄菓子屋さんで、やっぱり顔馴染みのおばあちゃんが「久しぶりだねぇ」と糸引き飴を
ただでくれた。
お礼を言って店を出て、甘ったるい飴の味とまぶしてあるザラメのざらりとした食感を楽しみながら、ツラツラと海を眺めて
歩いていると、前方から賑やかな声が聞こえてきた。
「―――から……で!」
「……うだろ。あ……は俺が……」
「……じゃん、もう……からさ」
海の方から聞こえる波の音と、間に開いた距離の所為で会話の内容はよくわからない。
高校生くらいだろうか、背の高い男の子たち。まだこの距離からじゃ顔もわからない。
でも、その着ている赤いジャージには見覚えがあった。
―――六角テニス部の。
うちの町で六角テニス部と言ったら、それは有名で。
昔から全国レベルだと県内でも結構有名で、いつからか知らないけど今では千葉の古豪と呼ばれている。
毎年、やれ県大会優勝だ、よし関東大会で上位に食い込んだ、次は全国大会出場だ、と、ことある毎に大騒ぎして、
町をあげて応援やバックアップをしている。
私の近所の幼馴染たちにも、六角テニス部に入っていた奴らはたくさんいた。
同い年や年上の奴らはもうとっくに卒業しているけど、私より下の子たちで小学校や中学校からテニスラケットを
握っていた子もたくさんいたから、一人二人、顔見知りはいるかもしれない。
そう考えた瞬間、ドクンと胸が高鳴った。
――― そうだ、もうあれから二年経ったのだから。
あの子も、もう高校生になっているんだ。
今もまだ記憶の中にいる、誰よりも大切だった、あの少年も。
そんなふうに考えている間にも、私と彼らの距離は少しずつ縮まっていた。
糸引き飴のザラメがすっかり溶けた辺りで、何となく海の方に逸らしていた視線を前に向けた時。
さっきよりももっと大きく、高く、心臓が波打った。
すらりと背の高い男の子ばかりの、その中でも一際大きい一人と視線が交差する。
ひた、とその子の視線が私の上でそのまま止まって、切れ長の双眸がほんの僅か見開かれた。
―――少し明るい色の髪。うねる柔らかいそのクセっ毛に触れるのが、私は好きだった。
彫りの深い顔立ちと、鋭いけれど笑うと微かに和らぐ眼も、昔のまま。
でも二年前はまだ残っていた幼さはすっかり鳴りを潜めていて。
もう、男の子とは呼べない。
記憶の中の少年は、一人の男になって、今私の目の前に立っていた。
「―――あれ、じゃないの?」
過去の記憶に沈みかけていた私の意識を引き戻したのは、彼ではない別の子の声だった。
よくよく見れば、赤いジャージに身を包んだ七人は、二年前よりも格段に大人びてはいたけれど全員見覚えのある顔を
していた。
その中でもまだ僅かながら幼さを残していた一番小柄な少年が、ぴょこんと元気良く跳ねて私の方へと駆け寄ってくる。
「ホントだぁ!わーいちゃーん!」
「きゃあっ」
二年前までと同じように抱きついてきた剣太郎の予想外の重みに耐えかねて、そのまま剣太郎ごと後ろに倒れこむ。
思いっきり尻餅をつくところを、寸前で伸びた二本の腕が私の手を掴んで、私と剣太郎二人分の体重を支えてくれた。
腕の主―――春風と虎次郎の二人がホッと大きな息をつきながら、そのまま腕を引っ張って助け起こしてくれる。
「あー危なかった……」
「剣太郎!お前飛びつくにしても場所考えろ、下コンクリなんだぞ!」
「うわーんごめんなさーいっ!」
「?大丈夫?」
すごい剣幕で叱りつけている春風と必死に謝っている(そこは私に対して謝るべきなんじゃないの…?)剣太郎の二人を
尻目に、虎次郎が軽く首を傾げて私の顔を覗き込んだ。
女の子と見紛うほど綺麗だった顔立ちは、子供らしい丸みのある柔らかさが消えてすっかり男らしくなっている。
それでも相変わらず美人顔だわ、と思いながら態勢を立て直して頷いてみせた。
「……うん、大丈夫」
「あれ、俺たちのこと、わからない?」
「ううん、そんなことない。わかるよ」
「そりゃ良かった。反応がないから忘れられちゃってるのかと思ったよ」
「皆がすっかり大きくなってるから、びっくりしてたの」
私の返した答えに虎次郎はなるほど、と納得したように笑って。
その後ろからこれまた昔同様綺麗な顔立ちを残したまま大きくなった、木更津の双子の片割れが顔を見せた。
「久しぶり、」
「うん、久しぶり……えーと、亮でしょ」
「当たり。相変わらずちゃんと見分けがつくんだ、すごいな」
「よく見れば違いは見えてくるのよ。ところで淳は?姿が見えないけど」
「あいつ、今東京で寮生活。テニスでスカウトされてさ、転校したの」
「え、ホント!?それは初耳……」
「初耳も何も、この二年全然帰って来なかったじゃんよ」
亮の頭の上からひょっこりと顔を覗かせた聡と希彦が、顔を見合わせてにっかり笑った。
二年前は黒かった聡の髪は金色に染まっていて、思わずそこにツッコミを入れてしまう。
「なーに聡、その頭。随分派手に染めたね」
「高校入ってからもうずっとこの色だぜ、俺。最初染めた時はお袋も怒り狂ってたけど、今じゃもう何も言わねー」
「おばさんが怒ってる姿が眼に浮かぶわ……」
「すごかったのね。二件隣のうちにまで怒鳴り声が聞こえてきて、びっくりしましたよ」
にこにこ笑いながら希彦が頷いた。虎次郎たちと同じで顔立ちは大人びたけれど、おっとりと穏やかな表情は昔のまま。
目が合うと優しくにっこり笑われて、思わず笑い返す。
そこへ、こっちは小学校から変わらない坊主頭がひょっこりと横から突き出されて、大きな目をキラキラさせた剣太郎が、
今度はあまり勢いをつけずに抱きついてきた。
「ちゃん、改めましてお帰りなさーい!」
「改めましてただいま。甘えん坊なとこ全然変わってないね、剣太郎は」
「えっへっへっへー」
「相変わらず皆の周りを走り回ってるの?」
「そう思うだろ?ところがどっこい、今俺らの中心はこいつなんだよな」
剣太郎の後ろからやってきた春風が、にやりと笑って形のいい坊主頭をぐりぐりと撫でた。
「バネさん痛いよーっ」
「なぁに?どういうこと?」
「俺たち、今六角のテニス部に入ってるんだけど」
「それはその格好見ればわかるわよ」
「剣太郎が部長なんだ。ついこの間からだけどね」
虎次郎の台詞にびっくりして言葉を失った私の目の前で、剣太郎が得意げに胸を張る。
図に乗んな!とその後頭部を春風が容赦なく引っ叩いた。
それを見て笑いながら、亮や聡たちが交互に経緯を話してくれる。
ああ、オジィの采配なのね……と話を聞いて納得した私の視界で、不意に春風が訝しげな顔して後ろを振り返った。
その肩越しに彼の姿が見えて、私の胸は否応もなく高鳴った。
「ダービデー!何ぼさっとしてんだ、お前も来いよ!」
「……うぃ」
「!ダビデもこんなにでかくなったんだぜ、つまんねぇダジャレは相変わらずだけどな!」
「つまんないって、バネさんひでー……」
聞こえる声は、記憶の中のそれよりもずっと低くなっていて。
春風の隣に並んだその顔を見た瞬間、かっと目の奥が熱くなった。
ヒカルは豊かとは言い難い表情の中で少しだけ視線を彷徨わせてから、私と視線を合わせて静かに口を開いた。
「……久しぶり」
「……うん……」
『―――やっぱり、歳だって離れすぎてるし』
『ヒカルのこと嫌いじゃないけど、正直もう、疲れちゃった』
『だから、終わりにしよう』
―――二年前、彼に向かって口にした、いくつもの言葉が脳裏に蘇る。
なんてありきたりな言葉の羅列。
でも、どれほどありきたりでも、それの持つ威力は彼を傷つけるには十分過ぎた。
傷ついた色を浮かべた、まだ鋭さよりも幼さが際立っていたあの眼差し。
彼が大切だった。
誰よりも大切だったのに。
だけどその彼を酷く傷つけて、突き放したのは。
―――誰でもない、私自身。
凍らせていたはずの想いが、再び動き出す。
だけど私にはもう、その想いを彼に告げる資格はない。
彼を傷つけた私には。
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天根連載です。年上ヒロイン。
一応五話で完結の予定。
05/04/08UP
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