Act.3 The blank that I can't delete.






埋められない空白がある。
どんなに頑張っても消し去れない、ささやかな、でもとても深い溝。

どうしたってそれを無いものには出来ない。


例えどれほどの時を重ねたとしても。
















夕方のニュースが流れるTVにぼんやりと視線を注いでいたら、不意に後ろから頭を叩かれた。
たいして痛くもない軽い平手にのろのろと振り向くと、軽く化粧をした母がよそ行きのバッグをを手に立っていた。
服装もいつものTシャツにジーンズではなく、如何にもこれから出掛けてきますと言わんばかり。
思わず壁の時計に目をやって時間を確認する。
時計の針はあと少しで五時半になろうと言うところだった。


「こんな時間からどこに出掛けんの?」
「あんたねぇ、朝から言っといたでしょう!今夜はお父さんとお隣の奥さんたちと一緒にご飯食べに行って来るからねって」
「……そうだっけ?」
「そうよ!留守番宜しく頼むわよ」
「私の夕飯は?」
「自分で作るに決まってるでしょ!めんどくさがって店屋物なんか頼むんじゃないのよ」


めんどくさいなぁ、と私が口にするより早く、母がしっかり釘をさす。
仕方なく冷蔵庫の中身を確認しようと立ち上がって台所に向かった私の背中を、母の声が追いかけてきた。


「ちゃんと栄養とか考えてあげるのよ!まだ育ち盛りなんだから、量も多めにね」
「……何の話?」
「本当に何も聞いてないんだから……ヒカルくんがうちに食べに来るからねって言ったでしょ!」
「……ヒカルが、なんで」
「だから、お隣のご夫婦と食べに行くんだって言ってるじゃないの」
「…………」
「帰りは遅くなるからね、先に寝るならちゃんと戸締りしておいてよ」


ちゃんと人の話は聞きなさいよ!とぶつぶつ言っている母の声はだんだんと玄関の方へ遠ざかって、それを聞きながら私は一人台所に立ち尽くした。
開け放したままの冷蔵庫からもれる冷気が、ひやりと足を撫でていく。
それすらも気にならないほど、私の頭は困惑していた。


ヒカルと二人きりなんて。
あの日、ヒカルが店を飛び出して行った日からもう一週間が経っていたけど、それから一度も顔を合わせていなかった。
隣に住んでて、部屋だってベランダがほとんど繋がってる状態で簡単に行き来出来る、そんな距離にいるのに。
避けられてるんだってことはわかってる。
あんな台詞聞いて、平静でいられる訳がないもの。
それなのにうちにご飯なんか食べに来るはずがない。
きっと適当な理由考えて、春風か虎次郎か希彦の家あたりに転がり込むわよね……。


そんなふうに思い巡らせながら、もう一度冷蔵庫を開けて材料を物色する。
ヒカルは来ない、来ないと、そう思っているくせに。
思いつくメニューはヒカルの好きなものばかりで、炊飯器にかける為に研いだお米は一人分には多すぎる三合。
あれだけあの子のことを傷つけたくせに。
結局心の片隅では、来てくれることを願っている自分の行動の浅ましさに、私は小さく嘆息した。











炊飯器がご飯の炊き上がりを告げた、その瞬間を見計らったように玄関の呼び鈴が鳴った。
もうおかずも全て作り終えて、でも一人で食べる気になれずにぼーっとTVのリモコンをいじっていたところへ、不意打ちのように鳴ったその音に一瞬肩を竦ませる。
時計の針は六時半を少し過ぎたところだった。
……部活が終わってちょっと遊んでから帰ってくるなら、ちょうどこのくらいの時間だろう。
玄関へと進む足取りは一歩ごとに重さを増していく。
薄暗い玄関の電気をつけて、三和土に降りて。
外にいる『誰か』に向かってかけた声は微かな震えを帯びていた。


「……はい?」
「俺、だけど」
「……今開けるから、ちょっと待ってて」


静か過ぎる玄関に、鍵を回す音が妙に大きく響いた。
カチリ、というその音の後に、少しの間をおいてドアの蝶番が軋んだ音を立てて。
ゆっくりと開いた扉の向こうにヒカルが立っていた。


「……お帰り」
「ただいま」
「ご飯、出来てるから。上がって?」
「……お邪魔します」


会話と呼ぶにはあまりにも熱のない、寧ろ単語のやり取りと言った方がよさそうな。
そんなやり取りを交わして、なんとなく私が一歩先を行く形になって、ダイニングも兼用している居間へと入る。
一旦家によって着替えてきたらしく手ぶらのヒカルは、そのまま勝手知ったる何とやらでダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
もう取り皿や箸は並べ終わっていたので、私は残りの用意の為にさっさとキッチンに引っ込んだ。
キッチンカウンターの向こうで、ヒカルは何も言わずにじっとこっちを見ていたけれど、私はあえてその視線に気がつかない振りをして食事の支度を整えた。


全部のお皿をテーブルに並べ終えた私が向かいの席に腰掛けると、ヒカルはそれを待っていたように小さな声で「いただきます」と言って箸を手に取った。
私も軽く手を合わせてから箸を手に取る。
一言も言葉を交わさずに、二人してひたすら黙々と食事を片付ける。
作りながら味見した時は我ながらよく出来たと感じた煮魚も、卯の花もきんぴらも、まるで砂でも噛んでいるかのように味気ない。
居間に満ちる重苦しい空気に何度も箸を動かす手を止める私とは対照的に、ヒカルは少し多めに作りすぎたかも、と思っていたおかずをキレイに平らげ、しっかりとご飯のおかわりまでした。


「ごちそーさま」
「あ、はい、おそまつさま……」
「―――も、茶飲む?」


空になった皿を重ねて持ち上げてキッチンへ入ったヒカルが不意にそんな問いを発した。
私が答えるより先に、コンロにやかんを乗せて火をつける音が響く。


「緑茶でいいよな?」
「……うん、ありがと」


私が自分の皿を全て空にするのを見計らっていたようなタイミングでヒカルはキッチンから戻ってきて、湯気の立つ湯飲みをひとつ私の前に置くと、自分の分の湯飲みを持ったままTV前のソファセットに移動した。
つきっぱなしだったTVのチャンネルを適当に替えて、さっきまでの私みたいにぼんやりと画面に視線を注ぐ。
ダイニングテーブルの上を片付けてから、少し迷った挙句、私も湯飲みを持ってソファへと移動する。
人一人分の間を空けてヒカルの隣に腰を下ろして、早くも温くなり始めたお茶に口をつけた。
ふわりと優しい芳香が鼻先をくすぐって、張り詰めていた気分をほんの僅か緩ませる。
その瞬間を狙い済ましたように、唐突に、ヒカルの声が鼓膜を震わせた。


「……


低く、抑えた声が、静かに名前を呼ぶ。
自分でも驚くほど大きく身体が震えて、手にした湯飲みの中にさざなみが立った。
その震えを無理やり押さえ込んで湯飲みを卓の上に置いて、なけなしの勇気を振り絞って視線をあげたら。
じっと、真っ直ぐにこちらを見つめてくる視線にぶつかった。


TVから聞こえてくるタレントのお喋りや笑い声が、すっと遠ざかって。
ヒカルの声だけが嫌になるほど明瞭に聞こえた。


「こないだ、言ってたことだけど」
「…………」
「本気で言った?」


問い詰める風でもなく、ただ淡々と。
ヒカルは表情を動かさないで、そんな言葉を唇に乗せた。


本気なんかじゃ、ない。
今でもヒカルが好き。愛しくて、大切で、誰もヒカルの代わりになんかならない。
いつだって欲しいのはヒカルだけ。
遠く離れて顔を見ることもなく、声を聞くこともなかった二年間。
でもそんなふうに傍に居ない状態で時を重ねても、この気持ちは薄れなかった。
―――今でもヒカルが好き。それが私の中にある本当の気持ち。だけど。


「―――本気よ」


想いとは真逆の答えを、私は必死に喉の奥から絞り出した。


「二年前にも言ったじゃない。もう疲れたって。ヒカルのことは嫌いじゃないわ、今でも大事な幼馴染だと思ってる。でもそれだけよ、もうそれ以上には思えない」
「……ホントにそう思ってんの」


早口に言った私の言葉に対して、ヒカルは尚も食い下がる。
声を荒げることなく、とても静かに紡がれる言葉。
いつの間にか、ヒカルと私の間に空いていた距離は詰められていて、少し身動ぎしただけで肩が触れそうで。
ソファの片隅に追い詰められて思わず息を呑んだ私に、ヒカルは静かにその言葉を告げた。




「俺、今でものことが好きだ」
「―――」
「幼馴染じゃない。前と同じように好きだ」
「私、は」
は?」


―――変わらない、変わっていない。
昔のままの真っ直ぐな眼差しで。
駆け引きめいたことなんか少しもしないで、とてもストレートに感情をぶつけてくるの。
そんなところは二年前と同じ。



名前を呼ぶ声とほぼ同時に、ふわりと温かな手のひらが頬を掠めて、骨ばった長い指が髪に差し入れられる。


。答えて」
「……い」
?」
「好きじゃ、ない」
「…………」
「もうヒカルのことなんて好きじゃない、からっ……!」


私の悲鳴にも似た声を聞いて、ヒカルの手のひらがするりと髪の間をすり抜けて、下に落ちた。
その瞬間、首筋をすっと撫でた手のひらの感触に反射的にぎゅっと目を閉じて。

強張った身体に、微かな振動を感じた。
ソファの軋む音、スリッパのなる音、遠くでドアが開いて、そして閉まる音。
全ての音が消えてから、やっと私は閉じていた目を開く。
そこにもう、ヒカルの姿はなかった。
















―――二年前。
好きすぎて、失うのが怖くて遠ざけた。
そんな
自分勝手な我侭で傷つけたから、元に戻りたいなんて願ってはいけないと思った。


今でも好きだと言われて、嬉しくないと言ったら嘘になる。
ヒカルが許してくれると言うのなら、また昔のように傍にいたいと思う気持ちがある。
本当は、まだ好きだと告げてしまいたいと思ってる。
だけど。


だけど、胸にわだかまる不安が消えないの。
あんまり好きすぎて。
いつか失うくらいならこのままでいい。このままの方がいい。
―――でも。


そのために、私はどれだけヒカルを傷つけるんだろう。





















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私何でこのタイトルつけたんだっけ……?
素でそう思いました。だって内容と全然あってないんだもんよ。

05/05/10UP