「家族遊び」を読んで
       ひらんげんR太

 

 僕たちが生きている街は、無駄のない、効率の良い生活のある、電気機械が発達した便利な社会である。僕たちはお金を出せば、様々なものが手に入る。そして、生活はどんどん便利になっていく。けれど、逆に、ひとつ足を踏み外すと、その効率の良さに慣れてしまっていて、自分たちに余裕がなくなっていたことに気づかされる。

ある日、突然に停電になって気づくことは、テレビが見れないことへの不満や、エアコンの効かない部屋の暮らしにくさだ。電話が通じなくなった暮らしも不便だ。友達に連絡するために、公衆電話を探すのも面倒だ。そう考えていくと、物のなくなる暮らしは、僕にとって、簡単に不便さが想像できる。しかし、不便さから、その生活をどのようにして工夫するかを考えることがない。今までの生活はすぐに回復するし、どんどん便利になっていくからだ。

 

 「家族遊び」を読んで感じたことは、僕たちが物のある生活に慣れてしまっていて、自分たちの生活の中で、今ある「物」に頼りすぎていたことである。この本のサブタイトルには、「現代・家族の寄り道のすすめ」と書いてある。例えば、停電になってもあわてないで、その停電を楽しむことができるだろうか。今日は電気無しで過ごしてみよう、と気持ちを切り替える余裕が僕にあるだろうか。家族が危機に陥った時、それを冷静に受け止める自信があるだろうか。僕たちの生活はあまりにも便利になりすぎていて、僕たち自身の生活力が低下しているのではないだろうかと考えてしまう。

 

 この本の中に、献血の話が出てくる。「今日は何もいいことしなかったから、献血しようかな」と言って、息子のたけしさんが献血センターに入っていく。僕はこの話を読んで、今まで献血なんて興味もなかったし、行く人の気持ちもよく分からなかった。

第一、時間の無駄だし、なんだかボランティアの人みたいでいやだった。いい人ぶっているような感じがしたからだ。けれど、読んでいくうちに、それは、僕自身に心の余裕がなかったんだなあとしみじみ思った。注射は好きではないけれど、それ以上に僕の心がまだ未熟なんだと思った。この本を読んで以来、献血という字を見るとドキッとする。けれど、いつか勇気を持って、たけしさんのように、きれいな気持ちで献血車に入っていきたいと思う。

 

 献血の話だけでなく、献体の話も心を動かされた。作者がアイバンクに入ったことを自慢していたら、近くにいた池さんは、何も自慢しないのに、実はアイバンクにも白菊会にも入っていたのだ。僕はこの池さんにあこがれた。自分がとてもいいことをしているときに、どうしてもだれかに認めてもらいたい気持ちがある。いつもではなくても、ときには認めてもらいたい。けれど、池さんは、さらりと黙って行動している。

妹の外国への出発に8年間貯めたお金を「使ってよ」と差し出す。こんなすばらしい生き方ができる人がうらやましい。欲のない、そして自分らしく生きている池さんに僕は近づきたいと思った。

 いろいろな話の中で、まじめな生活の中で遊びを、遊びの中にまじめさをといったバランスの重要さを作者は考えていることが伝わってくる。そして、自分らしい活き活きした生活を自分で作り上げることの大切さも伝わってくる。登校拒否の子どもがいる家族の話では、家族がバラバラになりそうなときがある。子供のたったひとつの出来事で、家族の歯車が狂ってしまう。つまらないことでけんかしたり、他人を傷つけたり。そんなときこそ、「遊び」を楽しむ心のゆとりが必要だし、「寄り道」してみることがすこしも無駄ではないことが感じられた。家族であることを楽しむ、家族の一員だからこそ寄り添えることを喜ぶ。この心の余裕がお互いを支え合ってゆく。

他人を許せない気持ちは、自分の心の中にあり、許せない気持ちは自分が作っているのだととても感じた。

 「あそびは、人生を模索するとき、相手を受け入れる余裕のようなものかも知れない。」作者が始めに書いた言葉の意味が、少し理解できたように思う。余裕のある気持ちが他人を理解したり、他人を許せたりするものだと思う。腹を立てている自分は、自分自身に余裕のない証拠のようなものだと思う。僕はこの本に出てくるたけしさんや池さんのように心やさしい人に一歩でも近づければいいなと思う。

 

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