長谷川たけし

第1回 1990年頃

いつのまにか、学校へ行かない子供たちを「登校拒否」と呼ぶようになった社会がありました。そして、少しずつ、人々の関心や理解が高まり、その現象を「不登校」と呼ぶようになった社会がありました。それは、紛れもなく日本社会です。

学校教育への批判は、受験戦争と形容される学校教育と共に高まりました。
しかし、批判だけでは成り立たない子供たちの生きる場所は、だんだんと、知らないうちに形骸化され、商業化されている側面をも持つようになりました。単なる大人への通過点として、儀礼的に存在しているような側面さえあります。生きることと背中合わせの教育の場である学校は、確実に子供たちの場所であるはずです。

しかし、子供たちの場所でなく、大人社会のための場所であるならば、それは、学校が、子供たちの生きる場所としての存在から離れていくことになるのかもしれません。

学校と自分の心の距離を考えたり、自分にとっての学校の存在を確かめることは、遅かれ早かれ、自分の中で淘汰されていくことだと思います。もしかしたら、その行為が、登校と不登校なのかもしれません。

不登校と形容される子供たちと関わりはじめてから、もう10年以上になります。
いつのまにか、自分の心の中で、風化されつつある熱い思いや、自分の心の中にある学校をもう一度見つめ直すために、時間をおきながら、考えていきたいと思います。

 

学校に行く、行かないよりも PART T(1990年6月)

学校校に行かない子供たちと接し始めて、五年が経とうとしている。一緒に遊んだり、勉強したり、話し合ったりと、いろいろな接し方をしてきた。その子達は、ただ学校に行っていないという点が共通しているだけで、性格や本人を取り巻く状況など様々で、子供たちの面白さも、またいろいろだと感じている。

「うちの子は他のこと違って…」と、両親から話を聞いたりもするが、違うのは当然で、一人だけが特別な例だと思ったことはない。
身体の丈夫な子もいれば、よくおなかをこわす子もいる。
アトピー性皮膚炎の子もいれば、そうでない子もいる。
よく買い物に出かける子もいれば、そうでない子もいる。
家で暴力を振るうだとか、喧嘩口調だとか聞くときもあるが、中学生くらいの年齢になれば、自分の価値観も育ち、自分の領域を持ちはじめ、それにそぐわなければ、何らかの反発をするのも当然とも思える。
だから、この子は学校に行っていないから、...と、短絡的に結び付けるのは、子供本人にとって迷惑な話ではないだろうか。

学校を休んでいる子供たちと接し始めたころ、学校に戻るためにはどうすれば良いかと、まず考えていた。その上で、今はゆっくり休んで、やりたいことが見つかればいいと思っていた。
ところが僕自身、大学生でありながら、また周囲の友達を見渡した時、学校で、はたして、やりたいことが見つかるのか、やりたいことが実現できるのだろうかと思い始めた。
その上、妥協して、学校の先生の言いなりに、何でも我慢して、ひたすら卒業を待てばいいものだろうかと。
妥協ということを、無言のうちに子供に押し付けようとする僕自身がいることに、そこで気がついた。妥協して、横一列にあわせる必要が、あるはずはない。人にはその人なりの学校との関わり方、社会との接し方があるはずだと、子供たちから教えられた。

それからは、「行きたくなければ、行かなくていいよ。」と、素直な気持ちで言えるようになり、本人たちが、自分自身で考えることの手助けが、少しできるようになっていった。
自分自身で考えるという、子供の立場を守ることが、僕にできることだと感じた。

今の子供たちが、本当にやりたいことに気づくまで、見つかるまで、時間は多く多くかかるだろうけれども、妥協することのない子供を周囲が見守ることが必要だと思った。

義務教育とは、「親が、子供に教育を受けさせる義務がある」ことで、子供たちが、教育を受けなければならない義務は、ない。学校に行く義務は、子供にはない。子供たちが、学校に行かなくなった、学校を拒否するということは、親が、その子供に会った養育の環境を、見つけられなかったということであり、学校側が、子供が学校に行きたくない環境を作っているということであり、大人が、子供たちのための環境を作れなかったという、義務の不履行だともいえる。

大人社会は、この事実に負けを認めなければならない。
勝者のいない、この現実を、感受性の鋭い子供たちは敏感に感じ取っている。

管理教育の批判、制服の批判、校則批判など、大人の意見として口で言っても、何も生まれはしない。そのことに、子供がどう感じているのか、何を求めているのか、何を訴えているのかを、子供と一緒に遊び、話し、行動を共にすることで、どう現実に動いていけるかが、問題ではないだろうか。
過去に書かれた登校拒否の本を読むことも一つの指針となるだろうけれど、子供の成長、心の動きの速さに、それだけではついていけない。

僕たちが、子供と行動を共にしたうえで、社会に対してどう働きかけていくか、大人側の責任=義務は重くのしかかっている。

そうした、社会に対する義務を、幸せそうに実行しようとする大人の後ろ姿の一面こそ、学校に行く行かないよりも、子供たちが大人になるための、学ぶべきものではないだろうか。



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