長谷川たけし

第2回 1994年頃 

おじいちゃん、おばあちゃんがいて、赤ちゃんがいる社会から、機能的な役割だけを優先させよとうする社会がありました。隣の家に対しても無関心になる無機的な地域を持つ社会が増えていく、それが今の日本社会かもしれません。

子供たちと勉強したり、話し合ったりする東京での日々が始まってから、もう9年が経ちます。東京の住宅事情は、子供たちが自分の勉強部屋を持てない状況をもたらしがちです。受験に熱心な家庭もあれば、関心のない家庭もあり、様々な人々が、暮らしています。夜遅くまで起きて、家で勉強することが、邪魔になると考えている家族も少なくありません。

しかし、試験前は勉強しよう、遅くまでやってみたい、友達と一緒に勉強したい、家だと邪魔だから早く寝ろと言われる、などなど、子供たちの要望も強く、試験期間中、希望者は、保護者の承諾付きで、夜遅くまで、勉強していいことにしています。

先日も夜2:00まで勉強し、生徒たちは、帰宅しました。
自転車で5分ぐらいの距離です。その間に、警察官に呼び止められました。
夜遅い時間です。当たり前と言えば、当たり前です。
どこから見てもおとなしそうに見える生徒なのですが、塾で勉強していたと答えました。 その際、警察官は「そんな塾(2:00まで勉強する塾)あるのかねー」と言い、財布を見せろと強要したそうです。そして、見せました。
今度は、ズボンをまくり、足元に何か隠していないかと調べられたそうです。

子供たちは、このような大人社会と関わりながら育つわけです。
子供のいじめが社会問題化している今だからこそ、大人社会が見直さなければならない問題は、無数にあります。

初めから疑われる社会、人を信用しない社会、自分が生きることだけで精一杯な社会、これでは、息が詰まってしまいます。
生きていくことは、たいへんなことだけれど、それでも生きる喜び、ふれ合いが待ち受けている社会を作らなければ、自らの命を断ってしまう人々をこの世にひきとめることはできないのかもしれません。

自分たちに何ができるのでしょう。自分に、他人に、誠実に生きていくことは、とてもたいへんなことです。
しかし、それを大人社会がしなければ、子供たちが成長し、大人社会へ抵抗なく勧んで入って行ける社会を作っていかなくてはと感じます。そうでなければ、私たちの社会は、人を傷つけるものだけとなってしまうように思えてならないのです。

 

学校へ行く行かないよりも PARTU(93年1月)

1992年8月に、神田(東京)で開かれた「教師と専門家のための登校拒否研修会」に参加しました。参加したと言っても、様々な講演やシンポジウムを、少し狭いイスに座って聞いていただけなのですが、そのとき、今までに出逢ったいろいろな子どもたちのことが、頭の中に浮かんできました。

「発達課題」「二次的症状」「不登校」など言葉が交錯するなかで、そのように表現される子供たちの意見がもっとあればなあ、と思いました。また、学校に行っていない子供たちの「発達課題」ばかり言及されているけれど、「だれにでもありうる学校に行かない、行きたくない」ことを言うのならば、すべての子供たちの「発達課題」としての意見が聞きたいなあ、と思いました。

そのように、少し違和感を抱きながら聞いているうちに「登校拒否」であろうと「不登校」であろうと、そう呼ばれている子どもたちにとって、その言葉は、大人社会側が区別するのに便利なだけの言葉ではないのだろうかと思いました。

はたして、学校に通う子供たちとの差異を、それほど明確に見つけだすことができるのだろうか。学校に通う子どもたちには、悩みや心配はないのだろうか。
これほど「登校拒否」が社会に認知されてきた今、学校に通っている子どもたちのほうも、もっと大きな何かを抱え込んでいるのではないだろうか。考えが頭をよぎります。  そして実際、子供たちと接していると、それを感じることがあります。

そう考えていると、学校に通うことも、通わないことも、家の中にじっとしていることも、とてもエネルギーのいることなのだと感じます。けれど、それを飾り立てた言葉で表現しようとは思いません。子供たちをほめようとも、けなそうとも、その気持ちの代弁には、ならないからです。

学校に行かなくても大丈夫、と伝えても、本人にとって苦痛なときもあるでしょう。
学校でがんばってるね、と伝えても、本人に重荷なときもあるでしょう。


しかし、子供たちと接していると、いろいろなことを考えさせてくれます。
そして、逆にエネルギーを与えてくれる喜びもあります。お互いに楽しんだり、怒ったりしあうなかで、僕自身の気持ちがほぐされてゆくときがあります。
家族の力はすごいなあと圧倒されるときもあります。他人である僕は、もちろん家族には、なれません。

最近では、そういった自分の無力さや、他人の遠さなども楽しめるようになりました。僕の楽しさが、少しでも伝わり、そのような心のつながりを作り始めることは、お互いに大切な楽しい時間だと感じます。

この原稿を書くのに、とても苦労しました。それは、「登校拒否」と限定されるだけのものが、自分の心の中で小さくなってきていること、「書く」ことより、実際に「動く」ことの方が楽しいこと、そして、自分自身のエネルギーが最近減少中と感じているからでしょうか。また子どもたちと(そもそも子どもと大人という言葉の定義も怪しいのですが)エネルギーを吸収しあいながら、支えているふりをして支えられて、がんばろうと思います。

けれど応援しないでください。人には、がんばっているように見えなくても、それぞれが、がんばっているだけですから。


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