長谷川たけし

第3回 1997年頃 

先日、フリースクール通信の原稿を書いていたら、ふと、以前勉強に来ていた、いつも陽気な17歳の男の子がやってきた。
僕が書いているのを見て、紙になにやら書き始めた。自分の近況、今の思いを綴ったらしい。世間で「ぷーたろー」と表現されるであろう彼の文章に、僕は、いろいろなことを考えさせられる。 

 毎朝のようにくり返される日にあきあきしてきた。
   だんだん自由というものがいやになってく自分がいる。
   学生、社会人の人が聞けば、うらやましいかぎりだろう。
   でも、毎日、朝方寝て、夕方起きて遊ぶ。
   毎日が同じすぎて、とても刺激がない。
   べつに、刺激が欲しくて生きてるわけじゃない。
   でも、今のおれはまるで動く人形だ。
   毎日同じことをして、同じ人と遊び、同じ場所へもどる。
   とてもつまらない時間を過ごしている。
   僕は自由が欲しくて学校生活から逃げ出したのに、
 それがとてもつらくなっている。
   結局、だれかに頼んでも、どうこうなる問題じゃないことがわかった。
   自分が変わらないと。
   でも変わるとまた自由が欲しくなる。
   世の中甘くないということがわかった。
   自由とは、こどくなことかもしれない。 

             ペンネームりつこもんもんバニー

 

彼は、高校1年のとき、自ら高校を去った。
他人から見れば、何も考えずに生活し、ごろごろ、うだうだしているようにしか見えないかもしれない。

しかし、彼も自分に満足しているわけではない。一度、学校から離れようとも、彼は、ふと、自分のことを考えたり、自分と学校の関係を考え直したり、ついには、自由とは何なのだろうということまで考えている。

そして、自分がいかに生きるかという、学校では、決して答えの出ないところまで、自分に問い直している。彼自身の、自分を軌道修正していく力、たくさんのことを考えながら生きていこうとする力を、信じたいと思う。


今の日本社会は、学校の存在自体を疑問視するときさえある時代である。学校は、子供たちにとって、大人社会が要求する教育や勉強と直結するものではない。
しかし、まだまだ、子どもを育む地域社会としての責務を負っている。自分の存在を確かめることができる場、自分の足場として利用できうる場として生き残っている。

学校に対しても、自分たちの関わりや、考え方で、まだまだ形を変えていく力を持っているのではないだろうか。
神格化していったのも自分たちであり、そこから、逸脱しようとするのもまた、自分たちである。

「結局、だれかに頼んでも、どうこうなる問題ではなかった、自分が変わらないと」とつぶやくのは、僕たちが作る社会そのものである。

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