登校と不登校と日本社会 長谷川たけし 登校と不登校と日本社会

第4回 1995年頃 

 

僕には、忘れられない人との出逢いが数多くある。
その中で、今の僕にとって、大きな転機となった出逢いがある。
今の僕が、多くのことにチャレンジし、そして、くじけそうになっても、さらに、またもう一度何かにぶつかっていこうとする気持を養ってくれた人たちとの出逢いである。僕は、このような出逢いの中で自分が育っていったことを幸せに思う。

 

麻雀・パチンコ・競輪...ギャンブルに対して嫌悪感を抱いている人は、この世に少なくはないだろう。かつて僕もその内の一人で、生活の中でギャンブルの渦に巻き込まれてしまっている子供であった。

僕の両親は、数々の商売をしてきた。不動産、喫茶店、スナック、雀荘、唐木家具店など、多様な職業を連ねた。父も母もとても子煩悩だったが、あまりにも忙しいために、僕たち姉弟は部屋の隅に追いやられてしまうようなこともあった。

両親が雀荘経営をしていたこともあり、スナックや雀荘への出入りや、ホン引きやノミ行為なども目の当たりにしてきた。たくさんの人々が家に出入りし、幼い頃から人見知りするひまもないほどであった。
僕たち姉弟は、いろいろな人に出会い、話をしてもらったり、遊んでもらったりした。


そのような中で、忙しい親に代わって僕の面倒をよくみてくれていたのが、「みーちゃん」と呼んでいた、父母の弟分のような24〜5歳の男の人であった。
彼は僕たち姉弟の言うことをよく聞いてくれて、優しい兄のような存在であった。
ギャンブルにのめり込んで、家財を失ったり、薬に手を出してゆく人たちがいる中で、彼はいつも穏やかに、そして、ギャンブルにおぼれることなく僕たちに接してくれていると感じていた。

幼稚園を抜け出して、酒屋のおじさんの車に乗せてもらい、みーちゃんの家にエスケープしたことも度々あった。両親のいない夜は、みーちゃんの家に泊まりに行くことも多かった。
僕が寂しさを感じることなく、明るさに満ちた幼稚園〜小学校時代を過ごせたのは、まさに彼のおかげであった。


しかし数年後、僕の最大の理解者であると信じていた彼が、自分の雀荘を作ると聞いたとき、僕は一つの失望を覚えた。結局、その世界で生きる人なのだと、漠然とした疎外感を心に感じていた。大好きだった彼が、以前とは違って、少し遠く見えた。
中学校、高校へと通うにつれ、僕自身も忙しくなり、毎日会うことも少なくなった。


雀荘をみーちゃんが始めて6年が過ぎた頃、突如、彼は入院した。
末期のすい臓ガンであった。
投薬により頭の毛が抜けた彼を見舞いに行き、彼と一緒に病院を抜け出し、中華料理を食べに行った。そんなときも彼は、穏やかで、優しかった。僕の言うことをよく理解してくれるいつもの彼であった。

高校3年生になっていた僕は生意気にも「なぜマージャン屋を始めたのか。」と聞いた。
僕にとって、その質問は、彼の生き方を問うことでもあった。
彼は僕の兄であり、友人であり、最大の理解者であった。しかし、僕はそんな彼に、マージャン屋を始めたことを責めていた。心のどこかで、マージャンを卑下していた。
親の仕事を聞かれても、マージャンについて隠そうとする自分がいた。

しかし、僕の質問に、彼は、うれしそうに答えを返した。
「患者がいるから医者がいる。勉強することも遊ぶことも必要だから、勉強する場も、教える人も、そして遊び場所を作る人もいる。麻雀をして楽しんでいるお客さんの顔を見るのがうれしいんだよ。」


物事にすぐ優劣をつけがちな僕に言い残したかのように、みーちゃんは、それから半年を待たずに帰らぬ人となってしまった。

 

僕たちの社会は、学歴などの価値観が優先されるときがある。
いつもどこかで、他人からの評価や、視線を気にしなければならないときがある。そんなとき、いつも僕に多くの出逢いを生んでくれた人たちのことを思い出す。

価値観が違っても、それぞれ、みんな役目がある。
中身のない自分をつくって生きていることなんてしたくない。
みんなが楽しく話しをして生きていられることが、一番の幸せでいたいなあと、しみじみ思うのである。

学校へ通うこと、通わないこと、それらを価値化してしまい、優劣をつけようとするのは、僕たちの心そのものである。
いろいろな事情の人や違った立場にいる人たちがいる。お互いを理解し合える気持ちこそ、僕たちに必要な価値観ではないだろうか。一方的な価値観に左右されずに、今の自分を生きることを大切にしたいと思うのである。

 

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