初めて見た先輩の第一印象は「小さい人」だった。
やけに嬉しそうな顔をして走っていった向日先輩を目で追って、そして見つけたその人は。
小柄な向日先輩が普通に見えるくらい(こんなこと言ったら向日先輩には殴られそうだ)小さくて、俺は思わずじっと見つめてしまった。
俺の視線には気付いていない彼女が、駆け寄っていった向日先輩に気付いて軽く手を振る。
話しかける向日先輩に向かって何か一言二言返したかと思うと、二人して声をたてて笑う。
小柄で華奢なその身体からは想像出来ないほど、明るくてパワフルな笑い声がこっちにまで響いてきて、俺は一層その人から目が離せなくなった。
惹きつけられるようにそちらに視線を向けていたら、宍戸さんが近くを通りがかった。
笑い声を聞いて足を止めて、そして呆れたように呟いたのは、彼女の名前。


「誰かと思ったらかよ。ったく、相変わらず賑やかな女だな」


―――、先輩。
その名前を声には出さずに何度もリピートして、心の中に刻み込んだ。
遠目にも鮮やかな彼女の笑顔と一緒に。


氷帝学園二年 鳳長太郎。
テニス部所属、正レギュラー、現在彼女なし。
――――――半年前から一学年上の 先輩に片思い中。
















つま先立ちする私、心で背伸びする君











テニス部の仲間で同じクラスの山内が入院したことを聞いたのは、つい昨日のことだった。
朝のHR前の教室で、急性腸炎だってさ、と山内と親しいクラスメイトが溜息混じりに言うのを聞きながら、テニス部の部誌を開く。
日付と朝練の練習内容を書いた後、欠席者の欄に『二年山内、入院の為』と書き込んだところで、担任が教室へと入ってくる。
日直の号令に合わせて挨拶した後、担任の口からも山内の入院について話があった。


「―――という訳で、山内はしばらく欠席になる。それで、退院してくるまで誰か代理で図書委員をやってほしいんだが……」


図書委員、という単語を聞いた瞬間、真っ直ぐに手を上げていた。


「お、鳳か。やってくれるか?」
「―――はい。俺でよければ」
「いや、進んでやってくれる奴がいて助かったよ、それじゃあ頼むな」
「わかりました」


周囲の席の奴らが物好きな、と言いたげな視線を投げかけてくる中、俺は担任に向かって頷いてみせてから、机の上に開きっ放しだった部誌のページを閉じた。


―――彼女も図書委員だってことは知っていた。
山内の代わりを進んで引き受けたのは、うまくすれば彼女と同じ日の当番に入れるかもしれないという期待があったからで。
でもまさか、初日からそれが叶うとは思っていなかった。
予想外の幸運に浮かれた俺は、彼女が自分のことを知ってくれていたという事実に更に舞い上がってしまって。


「―――先輩のことが好きです。俺と、付き合ってくれませんか」


――――――気付いたら、思いっきりストレートに告白していた。
















今日何度目かもわからない溜息が漏れる。
隣にいた日吉が舌打ちするのが聞こえたかと思うと、ジャージの肩を掴まれて引っ張られて。
驚いて顔を動かしたら、苛立たしげな表情でこっちを睨む日吉と目があった。


「いい加減その溜息止めろ、鬱陶しい」
「……ごめん」
「ったく……何があったか知らんが、部長が練習中ボーっとするな。他の部員に示しがつかねぇ」
「……ごめん」
「…………」


本心から悪いとは思っているんだけど、どうにも気分が落ち込み気味で声にも力が入らない。
日吉は呆れたような目で俺を軽く睨むと、「適当にやらせとくからお前は明日の練習要項でもまとめてろ!」と言い捨てて、さっさとコートに行ってしまった。
……やっぱりあいつの方が部長、似合ってるよなぁ……。
情けないことを考えながらギャラリーの一角に腰を下ろしてファイルを開く。
ボールペン片手に明日以降の練習メニューの組み立てに取り掛かろうとしたところへ、聞き覚えのある声が響いた。


「おーっす長太郎」
「調子はどうや、鳳」
「あ、お疲れ様です!」


立ち上がって頭を下げた俺に向かって、ギャラリーを降りてきた宍戸さんと忍足先輩は軽く手を上げて答えてくれた。
コート内にも声を掛けている先輩たちに、日吉や他のレギュラーも一旦練習を止めて挨拶を返す。
先輩たちは引退してからもこまめにコートに顔を出して指導してくれたりしている。
ファイルを閉じて、先輩たちにいつもありがとうございますと声を掛けようとした時、ギャラリーの入り口付近で新たな声が上がった。


「なーんでンな嫌がってんだよ!」
「だーかーらー!嫌とかじゃなくて、忙しいんだってば私!」
「嘘つけ、今日お前んとこ部活ねーじゃんか」
「別に部活なくたって忙しい時もあるよ!て言うか何でテニス部なのよっ」
にお前がなんか悩んでるから気分転換させてやってくれっつわれたんだよ。前に練習見に来た時、見てるだけでも面白いねってお前言ってたじゃん、だからさぁ」
「そ、それは確かに言ったけどっ……でも今日はそういう気分じゃないのーっ!」


嫌というほど聞き覚えのある声が、二人分。
片方の声の主である向日先輩は、入り口のところでまだもめながらも、こっちに向かって大きく手を振って笑った。
その向日先輩に引っ張られながら、必死に入り口のフェンスにしがみついて抵抗している小柄な影が目に入った途端、俺の手から音を立ててファイルが落ちて。
昨日の昼休みの会話が走馬灯のように脳裏に蘇った。
















「―――先輩のことが好きです。俺と、付き合ってくれませんか」


言ってしまった後で、はたと我に返った。
こんないきなり告白するつもりなんてなかったのに、何やってんだ俺!
内心ものすごく慌ててながら、でもそれを必死に外に出さないように押し隠して、先輩の顔を見たら。
ほのかに赤く染まった顔に浮かんだのは明らかな困惑の色。
数秒間の沈黙の後、先輩は俺に向けていた視線を逸らして俯いてしまった。


「……私なんかより、もっと鳳くんにお似合いの子はいっぱいいるんじゃないかな」
「……似合うとか似合わないとかじゃなくて、あの、俺は」
「私、小さいでしょ」
「え?」


予期しなかった言葉に一瞬戸惑った俺に向かって、こちらを振り仰いだ先輩はにっこり笑って。


「こんな小さい女と鳳くんとじゃ釣り合わないでしょ。それに、ほら、私鳳君よりも年上なんだよ?」
先輩」
「鳳くんだったらもっと素敵な彼女ゲット出来るって!並んでも様になるような、背の高い綺麗な、さ!」
「せん……」
「あ、これとこれは自分で片付けられるから、こっちとこっちお願い出来るかな。そっちの棚の最上段ね」


先輩はそれ以上話を続けるのを拒むように無理やり話題を変えて、俺の手の中から数冊の本を抜き取るとさっさと別の棚の方へ行ってしまった。
結局昼休みの間中、先輩は俺が話しかけるようとするたび、それを遮るようにあれこれと指示を出してきて、まるで俺の告白なんて聞かなかったかのように振舞っていた。
昼休みが終了して、図書室の鍵を閉める、その瞬間まで。
















「―――ちょっと!向日ってば!」
「っだーもー!さっさと来いって!」


いきなり、さっきよりもずっと近くで聞こえた声に我に返る。
相手が相手だけに力で向日先輩が負けるはずもなく、先輩はしっかり腕を掴まれてギャラリーを降りてきていた。
それでも必死に抵抗して、俺たちのいる場所より数段高い位置で踏み止まっている。
言い争う二人を見て宍戸さんが呆れたように言う。


「っとにお前らは……毎度毎度同じような会話して、よく飽きねぇな」
「痴話喧嘩やったら俺らのおらんとこで頼むわ、ホンマ。あてられる方の身にもなってみぃ」
「「痴話喧嘩とか言うなー!!」」
「無駄に息ぴったりだな」
「ホンマやな。……ん?どないしたんや鳳、ボーっとして」
「あ?何やってんだよお前、さっさと拾え!プリント飛ばされちまうぞ」
「え、あ……あ、あっ、す、すいませんっ」


宍戸先輩に背中を叩かれて、慌てて散らばったファイルの中身を拾い集める。
幸いにもそれほど広範囲に散らばってはいなかったので、すぐにほとんどが集まった。
拾い残したものがないかぐるりと周りを見回した時、小さな手のひらが目の前に突き出されて。


「……これ」
「……あっすいま、せ……」


ボールペンを持つその手を辿って視線をあげていくと、先輩と目があった。
段差の所為で、昨日は下にあった視線が今は同じ高さにある。
俺の好きな笑顔はどこにもなくて、何だかぎこちなく強張ったその表情に、ぎゅっと胸が締め付けられるような気がした。
―――俺の告白は、もしかして先輩にとって迷惑だったんだろうか。
背の小さい自分じゃ、俺とは釣り合わないって言われたけれど。
付き合うとか付き合わないとかに、身長なんて何の関係があるんだろう。
確かに先輩はかなり小柄な方だし、確かに俺も初めて見た時は小さい人だなと思ったけど、でもそんなことあの時の先輩の笑顔を見たら全部ふっ飛んだ。
よく響く、元気のいい笑い声に圧倒されて。
満面の笑顔って言葉がぴったり当てはまる、顔中くしゃくしゃにして笑うその姿が可愛くて、自然と意識も視線も吸い寄せられて。
誰だろう、一体どんな人なんだろうと、気になって気になって。
気がついたら好きになっていた。
そんな俺の気持ちは、先輩にとっては。


――――――迷惑なものでしか、なかったんですか?






咄嗟に俺は、差し出されたボールペンごと先輩の手を掴んだ。
先輩の肩がびくっと大きく揺れる。
周りに先輩たちがいることだとか、コート内に他の部員たちもいることやコート周辺に見学してる女の子たちがいることとか、全部頭から消えていた。
先輩しか見えなくなってた。


「……あ、あの……!」
「―――どんな人だろうと、他の人じゃ駄目なんです」
「…………」
「俺は先輩が、 さんって人が好きなんです」
「……鳳、く」
「俺は確かに年下で、頼りないかもしれないけど。でも」
「…………」
「貴方が好きです」


掴んだままの手から、一秒ごとに早くなる先輩の鼓動が伝わってきた。
それが耳の奥でうるさく鳴る自分の心臓の鼓動と混じって、周りの音は全然聞こえなかった。
俺を見ていた先輩の顔が不意に泣き出しそうに歪んで、かたく瞳が閉ざされた。






「―――やっぱり、ダメ……」
「……え?」
「……ごめん、なさい……!」
「せんっ……」






捕まえていた俺の手を振り払って、小さな背中を向けて先輩が走り出す。
再び伸ばした手は宙を掴んだ。
追いかけようとした俺の視界を、先輩より一回り大きい人影が過ぎる。


っ!」


――――――向日先輩。
その姿を見た瞬間、踏み出しかけていた足が止まってしまった。
ガシャン、と大きな音を立てて入り口が閉まって、二人の姿は視界から消えた。
呆然としている俺と、呆気に取られている周囲の人たちを残して。






















06/01/24UP     <<BACK   TOP   NEXT>>