差し出された手を振り払ってしまってから気付いた。
もうとっくに、気持ちは彼に向いていたこと。


今更気付いたって、きっともう、遅いのに。
















つま先立ちする私、心で背伸びする君











4限終了のチャイムが鳴って、にわかに教室内が騒がしくなる。
机を移動したり、お弁当を持って出て行ったり、連れ立って学食へ向かったり。
それぞれ動き出したクラスメイトたちの中で、私はいつもより少しゆっくり教科書やノートを片付けていた。
何人かのクラスメイト―――ほとんどが女子―――から向けられる、ちりちりと刺さるような視線に気づいてない振りをして、声を掛けてきた友達に応えて財布を片手に席から立ち上がった時。
「あっ……」という誰かの小さな声を合図に、教室内のざわめきが一層大きくなって、そしてそれをかき消すように、嫌と言うほど聞き覚えのある声が朗々と響いた。




「―――、いるか」
「……跡部?」



教室後方の出入り口に現れた跡部は、私を見つけるなりニヤッと笑って。



「ちょっと聞きたいことがある。来な」
「……私これから学食行くんだけど」
「知るか。おい樺地、連れて来い」
「……ウス」
「いきなり言われても困るったら、ちょっ……きゃあっ」



大柄な身体からは考えられない素早い動きでいつの間にか傍まで来ていた樺地くんが、すいません、と消え入りそうな声で呟いて、私を肩に担ぎ上げた。
いきなりのことに驚いて、弾みで手にしていた財布を落としてしまう。
それには気づいていないらしく、樺地くんは一足先に廊下に出た跡部を追って足早に歩き出した。
止まって!と言いかけて、財布を拾い上げた小柄な人影に気付いた。
目があった向日は何か言いたげな上目遣いで私を見てから、財布を手にしたまま小走りに追いかけてきた。階段を降り始めたところで追いついて、樺地くんの隣に並ぶ。
止める訳でもなくそのままついてくるだけの向日に、半分やつあたり気味に怒鳴った。



「向日、どうにかしてよ!」
「無理。樺地のヤツ、跡部の言うことっきゃ聞かねえもん」
「……ダメ元でもどうにかしようとか思わないの!?」
「だからくっついて来てやってんじゃん」
「くっついて来るだけ!?」
「一人で連れてかれるよりはマシだろ!」




樺地くんに担がれたまま、こっちを見上げる向日と延々怒鳴りあって。
目的地に辿り着いた時には早くも疲れ果ててぐったりしていた。
部室棟の一室、一番広くて日当たりのいい部屋。男子テニス部のレギュラー専用部室。
もう引退したはずの元部長は、さも当たり前のような顔でそこに踏み込んで、奥のロッカールームのソファに腰を下ろした。
私は樺地くんの腕からやっと解放されるかと思いきや、空いているソファの上に直接降ろされて強制的に座らされた。
隣に腰を下ろした向日が行儀悪く足を組んで背もたれに寄りかかる。



「で、なんなんだよ跡部。俺もも腹減ってんだから、さっさとしろよな」
「呼んだ覚えのないお前にそんなこと言われる筋合いはねえよ」
「付き添いだよ、付き添い!」
「保護者が必要な歳でもねえだろ」
「うっせーよ」
「ふん」



鼻で笑われてむっとした表情になりながら、向日はそれ以上何も言わずに跡部を睨みつける。
学校の調度品とは思えない、値の張りそうなソファの背にゆったりともたれた王様は、面白そうに笑って向日から私に視線を動かしておもむろに形のいい唇を動かした。
零れ出る言葉は何となく予想出来た。






「鳳のヤツを振ったんだって?お前」




……ああ、やっぱり。
ぎゅっと胸を掴まれたみたいに、息が詰まった。
今日一日、絶えず聞こえてきた周囲のひそひそ話を思い出す。




―――あの鳳くんを振ったんだって。
―――部活中に派手に告白されてたって。
―――走って逃げたって?マジ?




昨日の鳳くんと私のやり取りは、テニスコートを取り囲んでいたたくさんのギャラリーのおかげで、今朝にはもう学校中に知れ渡っていた。
クラスでも、廊下でも、いつもとは違う空気を感じた。
明らかに好意的とは言えない視線や、聞きたくないのに聞こえてしまう噂話。
あれだけ広がってたら、昨日あの場にいなかった跡部の耳に入らない訳がない。
余裕に満ちた笑みを浮かべて傲然と構えている目の前の男が、何を考えてわざわざ昨日のことについて聞いてくるのかはわからない。
とりあえずわかっていることは、答えないことには開放してもらえないだろうってことくらいだ。
大きく息を吸い込んで、意を決して口を開いた。




「……振ったけど、それが何か?」
「何で振ったんだ」
「そんなこと、あんたに教える必要ないわよ」
「俺が知りたいから聞いてんだ、答えろ」
「嫌です」
「―――まだあのことを気にしてんのか」



最後に言われた台詞に思わず唇を噛みしめる。
跡部は私の反応を見て、してやったりと言わんばかりに笑って、軽く前に身を乗り出した。



「図星か」
「……あんたには関係ないでしょ」
「並んで歩くのが恥ずかしいなんてくだらねえ理由でフラれたことを、いつまで引き摺ってるつもりだ?」
「…………」
「女をオプションとしか思ってないようなバカの言った台詞に、しつこく拘るなって散々言っただろうが」
「……別に、もう気にしてなんか」
「じゃあ何で鳳のヤツを振ったんだ?」
「だから、なんでそんなこと、跡部に話さなきゃいけないのよ!」
「お前が鳳を振る理由が他にねえからだろ」



ぐっと言葉に詰まった私を、いつの間にかからかうような笑みを消して、正面から見つめる。
嫌味なくらい様になる仕草で足を組み替えながら、跡部は再びソファの背にもたれて腕を組んだ。
言い返せるものなら言い返してみろ、と言いたげな強い視線に真っ直ぐに射抜かれて、私は完全に返す言葉を失くして黙り込んだ。
下手な言い逃れなんて通じない。跡部は全部わかってる。
でも、それをはっきりと肯定するのは嫌で、私は口を噤んで俯いた。
少しの沈黙の後、小さな舌打ちの音が聞こえて、それから。

ソファの上に投げ出してた私の手に、別の誰かの手がそっと触れた。
驚いて視線を動かしてその手の先を視線で辿ると、向日と目があって、重なった手にぎゅっと力がこもった。
慰めようとしてるみたいに。
どうしてなのかわからないけど、真っ直ぐに私を見る向日はどこか淋しそうだった。



「……向日」
「俺も跡部の意見には賛成だけど。いつまでも拘ってんな、ってーの」
「…………」
「でもそれは今は置いといてさ。マジなとこ、の気持ちはどうなんだよ?」
「え?」
「っつーか、わざわざ聞くまでもねーと思ってっけどな」



何だか面白くなさそうに、微かに眉間にしわを寄せ、唇を尖らせてぼそりと呟く。
聞くまでもないってどういうこと、って聞き返そうとして口を開くより先に、向日が真っ直ぐな視線をこっちに向けたまま、いつもより少しゆっくりめに言葉を紡いだ。






「鳳のこと好きだろ、お前」






後ろからガツンと頭を殴られたみたいな感じがした。
呆然と見返した向日の表情はさっきと同じで何だか淋しそうだった。
たった今向日が口にした言葉が、何度も何度も頭の中でぐるぐる回る。




『好きだろ』




そんなことないって言い返そうとしたのに、言葉は喉に張り付いたみたいに出てこない。
向日の言葉は私が目を逸らしていた本心をぴたりと言い当てていたから。
言い返すことが出来なかった。






昨日、鳳くんが差し出してくれた手を、振り払ってしまってから気がついた。
もうとっくに、彼を好きになっていたこと。
真っ直ぐに向けてくれた好意が嬉しかった。
飾らない言葉で告げてくれたその気持ちも、ずっと高い位置から見つめてくれた優しい眼差しも。
嬉しかった。本当は、とても。
だけど、以前ある人に言われた言葉が私の気持ちに蓋をした。



『だってお前めちゃくちゃ小さいじゃん』
『俺と並ぶとなんか親子みたいでさあ。それか電柱にくっついてる蝉?アハハ』
『様になんねーんだよな、カッコつかねーっつーか。もう連れて歩きたくねえわ』



早くに止まってしまった成長。いつまでも伸びない身長。
私より小さい人が世の中にいない訳じゃない。こんなこと気にしすぎたってしょうがないってわかってる。でも。
とても好きだった人が口にした心無いその言葉が、深く深く胸の中に刺さって、今でも消えてくれない。


鳳くんは彼と同じようなことを言うような人じゃないと、思う。
だけど鳳くんと並んで歩くのは怖かった。
不釣合いな二人だって言われるのが、周囲の目が、怖かった。
くだらない、本当にくだらないこと。バカみたいなコンプレックス。
私はそんな理由で、鳳くんの真摯な気持ちをはねつけたんだ。











「……



向日が、優しい声で私の名前を呼ぶ。
それが契機になった。
溢れた涙が頬の上を滑り落ちて、スカートの膝に染み込んでいく。
ごめんな、と小さな声で向日が言う。私は何度も首を横に振って空いている手で涙を拭った。
向日は何も悪くない。悪いのは私だ。鳳くんの気持ちを踏みにじった私だ。

私と向日のやり取りをしばらく黙って見ていた跡部が、不意に呆れと僅かな同情が混ざり合った溜息を漏らした。
ソファの肘掛に頬杖をついてじっと私を見つめて、そして唐突におい、と呼び掛けて。
そこにいないはずの人の名前を口にした。






「聞いたな―――鳳」






向日が目を見開いて跡部を見た。
そのあとを追うように私も跡部に視線を向ける。
悠然とソファに腰掛けている跡部の後ろに現れた人影を見て、向日がマジかよ、と呟くのが聞こえた。




「……すいません」



落ち着いたトーンの声。
少し癖のある髪が揺れて。
ソファの影から立ち上がった鳳くんは、相変わらず優しい眼差しを真っ直ぐこっちに向けた。

目が合った瞬間、全身が震えて、頭の中が真っ白になって。



次の瞬間、私は弾かれたように立ち上がって部屋を飛び出していた。
背後から口々に名前を呼ぶ声が聞こえたけど、振り返らなかった。






















06/07/10UP     <<BACK   TOP   NEXT>>