逃げるように走り出した小さな背中が、追いかけてきてほしいと言っているような気がした。


諦めの悪い自分の願望がそう思わせただけかもしれない。
それでも、否定されなかった向日先輩の言葉と、走り去る寸前の一瞬に見えた彼女の表情に一縷の望みを抱いて、俺は走り出す。



とても愛しい、あの小さな背中を追って。
















つま先立ちする私、心で背伸びする君











「よう鳳。振られたんだってな?」



朝練後、着替えを終えてロッカールームを出た瞬間、聞こえた第一声がそれだった。
いつの間に部室に来ていたのか、コーヒーのカップ片手にくつろいだ様子の跡部先輩は、俺と目が合うと含みのある笑みを浮かべて見せた。
ドアノブを掴んだままだった手を下ろして、とりあえず、おはようございます、と型どおりの挨拶を返す。
俺の背後で一旦足を止めていた他のレギュラーメンバーは、一旦立ち止まって跡部先輩にきちんと挨拶をしてから、早足で部室を出て行った。
最後に日吉が部室から姿を消すと、入れ替わりに宍戸さんが入ってきた。
俺を見留めて軽く手を上げる。



「よう、お疲れ」
「お疲れさまです、おはようございます」
「宍戸なんざほっといて、さっさとさっきの質問に答えろよ」



そう言って跡部先輩が意地悪く笑う。
宍戸さんはちょっとムッとした顔をして、跡部先輩から椅子二つ分ほど間を開けて腰を下ろした。
チラッと視線をこっちに向けながら、持ってきたペットボトルの蓋を捻る。
跡部先輩の言った『さっきの質問』という言葉に対して何のリアクションも無いってことは、宍戸さんは跡部先輩が何でここに来たかを知っているようだった。
昨日問題の場面にも立ち会っているし、気にして様子を見に来てくれたんだろう。
宍戸さんの気遣いに感謝しつつ、俺はちょうど跡部先輩と差し向かいになる席に腰を下ろした。


「詳しい話を聞かせてもらおうじゃねえか」
「……わかりました」


話したくないです、なんて言っても無駄だろうな。
俺は心の中で諦めの溜息をついて、図書室での出来事から昨日のテニスコートでのやり取りまでの説明を始めた。











手短に説明を終えてオレが口を閉じると、跡部先輩は心底呆れたように溜息をつき、宍戸先輩は片手で軽く顔を覆って上を向いて、あのバカ、と呟いた。
そんな二人の様子を訝しく思いながらも、その一方で段々と気持ちが滅入って来るのを感じた。
改めて一連の流れを思い返して、フラれたんだって事実を再確認して。
曖昧な言葉で誤魔化された告白。振り払われた手。泣きそうな顔。
やっぱり俺の気持ちは先輩にとっては迷惑でしかなかったんだ。それに俺なんかより、以前から親しかった向日先輩の方が全然お似合いなんじゃないかな。考えれば考えるほど、思考はマイナス方向に突き進んでいく。
そんな俺の様子に気付いた宍戸さんが、テーブル越しに身を乗り出して俯いた俺の頭を軽く叩いた。



「何しょぼくれてやがんだ、お前は」
「すいません……」
「ったくよー……あのな長太郎、の言ったことだけど、鵜呑みにすんなよ」
「はい?」
「いや、だからさ」
「おい鳳。お前昼休みは暇か」



何か言いかけた宍戸さんの言葉を遮って、跡部先輩が俺に問いかけた。
唐突に聞かれて戸惑いながらも頷くと短い一言が返ってきた。
それは極簡潔な、だけど決して拒否を許さない命令。



「昼休み、あれの後ろに隠れてろ」



そう言って跡部先輩が指差したのは、開いたままだった扉の奥のロッカールームに置かれたソファセット。
跡部先輩の意図するところがわからなくて返事をするのに戸惑っていると、先輩は口元に意味ありげな笑みを浮かべて呟いた。






「感謝しろよ、この俺が協力してやるんだからな」






そして昼休み。
ソファの後ろに縮こまって息を潜めていた俺の耳に飛び込んできた会話が。
俺の中に残っていた疑問に答えを与えて、諦めきれず持て余していた気持ちに火をつけた。































部屋を飛び出した先輩のあとを追いかけようとした俺の手を掴んで止めたのは、向日先輩だった。
ソファに腰を下ろしたまま、ぐっと顎を逸らせてこっちを見上げてくるその顔に真摯な表情を浮かべて。
噛みしめるように呟かれた一言が、静まり返った部屋の中で俺の耳を打った。



「泣かしたらぶっ飛ばす」
「……泣かせたりしません。絶対に」
「…………」



真っ直ぐに向けられる視線から目を逸らさずに答えた。
その短い一言だけでわかった。向日先輩がどれほど先輩を大事に思ってるか。
大切に想っている。それは多分、きっと、友達以上の気持ちで。
俺のことを好きなんだろうと先輩に問いかけたのは、決して俺を応援するためじゃなかった。
―――ただひたすら、先輩の為だけに。

その気持ちに応えられないようでは、先輩を追いかける資格はないと思った。
睨みあった、ほんの数秒の時間が、ひどく長いものに思えた。
向日先輩はくっと唇を引き結んで強い眼差しで俺を見据えて、そしておもむろに顔を背けて掴んでいた手を離した。
虫でも追い払うかのようにひらりと小さくその手を閃かせる。



「さっさと行けよ」
「ありがとうございます」
「……落ち込んだ時は大抵特別棟の裏に逃げるぜ、アイツ」
「……ありがとうございます!」



さっさと行けと言いたげにもう一度手が閃く。
小さく会釈して、跡部先輩にも頭を下げて、俺は部室を飛び出した。
















時折すれ違う知り合いに先輩を見なかったか訊ねながら走って走って、向日先輩の言っていた特別教室棟の裏手に辿り着く。
春になれば満開の花を咲かせる桜並木は、今は少しずつ色褪せ始めた葉を風に散らせている。
秋口だと言うのに額にうっすら滲んだ汗をシャツの袖で乱暴に拭う。ブレザーはとっくに脱いでしまっていた。
校舎裏と言ってもそれなりに広い場所だけど、視界を遮るものはほとんどない。にもかかわらず、先輩の姿は一向に見えなかった。

もう教室に帰ったとか。それとも学校の外に出て行った?



「……くっそ……!」



焦る気持ちを落ち着かせたくて、一旦足を止めて弾む息をゆっくり整える。
ブレザーを握り締めたまま、膝に手をついて前屈みになる。吸い込んだひんやりした空気が肺を満たして、熱くなった頭を少しだけクリアにしてくれた。
拭いきれなかった汗がこめかみから頬を伝って地面に染み込むのを見ながら、大きく息を吐いて、もう一度走り出そうとした時だった。






乾いた葉が擦れあう微かな音、枝がしなる音、それから。
聞いたことのある小さな音が、頭上から聞こえてきて。
ゆっくり振り仰いだ先、並木の中でも特に大きな桜の木の太い枝の上。
散り始めたとは言えまだまだ豊かに茂る葉の中で、隠れるように必死に身体を縮こまらせている先輩の姿。




泣き出す一歩手前の顔で。






















06/07/16UP     <<BACK   TOP   NEXT>>