あの日から、もう二度とちっぽけな自分に似合わない恋はしないと思ってた。
あんな痛い思いはもうしたくなかった。逃げてんじゃねえよって言われても、弱虫って言われても、傷つかなかった訳じゃない。だけどあの日の胸の痛みよりはずっとマシだと思った。
何があっても決意は揺らがないって思ってた。


――――――だけど。
















つま先立ちする私、心で背伸びする君











どこをどう走ったんだか自分でもよくわからない。
無我夢中で走って走って、気がついたら見慣れた場所にいた。
特別教室棟の裏手。あんまり人が来なくて、静かで、一人になりたい時は大抵ここに来る。
一番お気に入りの桜の木に寄りかかって大きく息をついた。心臓がばくばく鳴る音が耳の奥で響いてうるさかった。
走ってる時は夢中で気がつかなかったけど、ものすごく足が痛かった。普段の運動不足に加えて、準備運動も何もなしでいきなり全力疾走したからだ。脛がズキズキして、立っているのも辛かった。
周りに座れるような場所はない。地面に直接座ってて、万が一誰かが来て見つかるのも嫌だった。



「……ここしかない、かあ……」



桜の木を見上げて一人ごちて。
意を決して、まだ少し乱れている息を整えて、辛うじて手が届く高さの枝を掴んだ。
何年ぶりかの木登りは思ったほど困難ではなかった。運動不足ではあるけど、運動神経はそこまで衰えてないってことかな、なんて考えながら太めでしっかりした枝を選んで腰を落ち着ける。
ざらざらした幹に背中を預けて痛む足をそっと擦る。気持ちのいい風が吹いて周りの枝や葉っぱを揺らした。
深呼吸を繰り返しているうちに心臓の鼓動は普段のスピードを取り戻して、他には誰もいないこの場所の静かな空気のおかげで、ぐちゃぐちゃだった頭が冷えて落ち着いていく。






――――――逃げ出してきちゃった。



鳳くんの顔を見た途端に逃げるなんて、私はどこまで彼に酷いことすれば気が済むんだろう。
あんなふうに目の前から走って逃げられたらいくら鳳くんでも怒ったに違いない。
これで終わり。もう何もかも終わり。きっと終わり。
鳳くんはモテるから、きっとすぐにもっとお似合いの可愛い女の子が見つかって、私のことなんか忘れてくれる。

……私が望んだとおりに。

そう考えた途端、胸が痛んだ。心臓を素手で掴まれたような痛み。
あの人の言葉を聞いた時よりずっと、あの時以上に。
目の奥が熱くなって私は慌ててぎゅっと目を瞑った。



例えそうなったって、自分から逃げた私に哀しむ権利も泣く権利もない。
自分で望んで選んだんだから。
かたく握った手で瞼を抑えて涙が零れそうになるのを堪えて、宙に投げ出していた足を持ち上げて枝の上で体育座りするみたいにぎゅっと身体を縮こめる。昼休みの終了を告げる予鈴が響いても、動く気にはなれなかった。
もうずっとここにいたいとさえ思う。出来るはずもないけど、教室に戻るのも誰かに会うのも嫌だと思った、その時。
ざっと地面を蹴る足音が聞こえて、反射的に閉じていた目を開けた。
視界を覆う桜の枝葉の隙間から見える地面。そこに。



鳳くんがいた。




ほんの数メートル先、ちょっとでも動けば気付かれそうな距離。
息を飲んで縮こまったままの身体を硬くする。
さっきは着ていたブレザーは手の中でくしゃくしゃになってて、前髪の間から覗く額には今の季節には不似合いな汗が滲んでいて、鳳くんは息を弾ませながらシャツの袖でそれを拭っていた。
ここまで走ってきたんだと、一目でわかる姿。
さっき必死に堪えた涙がまた溢れそうになった。






追いかけてきてくれた。
あんな酷い形で気持ちを無碍にした私を。あんなふうに逃げ出した私を。
追いかけて、きてくれた。






声を上げて泣き出したい衝動にかられて、さっきまで瞼を押さえていた手で口元を押さえる。
ぎゅっと唇を噛みしめて、また零れそうになる涙を堪えた、その瞬間だった。
ぐうって、おなかが鳴って。
予期していなかった事態に驚いて思わず身動きした拍子に、枝が揺れてがさりと音をたてた。

……うそっ……!



走り出そうとしていた鳳くんの足が、一歩踏み出して止まる。
広い背中が振り返る。視線がゆっくりと動いて、真っ直ぐにこっちを振り仰いだ。




「―――先輩」



優しい声が名前を呼ぶ。
私のいる枝のほぼ真下まで来た鳳くんと目があって、どんな顔をしたらいいかわからなくなる。
見つかってしまった気まずさと、恥ずかしさと情けなさと、追いかけてきてくれた嬉しさと。いろんな感情がごっちゃになって、頭の中がパンクしそうだった。返事することも出来ない。
鳳くんはどこまでも真っ直ぐな眼差しでそんな私を見上げて、おもむろに口を開いた。



「俺は先輩に、俺の傍で笑ってて欲しいんです」
「…………」
「だから先輩が周りの目が怖いって言うなら俺が守ります。それぐらいしか出来ないけど、先輩が笑っていられるように身体張って守りますから」
「…………」
「俺は先輩が好きです。他の誰でもない、 って人が好きです。だから先輩」



「―――もう俺から逃げないで下さい」






そう言って鳳くんが差し伸べてくれた両手は、私のいる高さまで易々と届いた。
ちょっとだけ躊躇ってから私に触れたその手は少し震えていた。私の手を完全に包み込めてしまう大きな手のひら。
見つめてくる目と同じ。ありのままの私を受け止めてくれる、優しくて温かい、鳳くんという人のそのものの。

何よりも欲しかった、手のひら。

まるで吸い寄せられるみたいに、その腕の中に飛び込んだ。
伸ばした腕で抱きとめてくれた鳳くんが小さく息を呑む音が聞こえて、抱きしめる腕にそっと力がこもる。
抱きしめ返した時に触れた背中は、私がめいっぱい腕を伸ばしても回りきらないくらい広くて、とても温かかった。



「先輩?」
「……ありがとう」
「……はい」
「それからね」











――――――私も、貴方が、好きです。











その言葉を耳元に囁いた途端、鳳くんの腕の力が緩んだ。
お互いの肩に埋めていた顔を上げる。
視線が合わさった瞬間、少し紅潮している顔に浮かんだ照れくさそうな笑みに、初めて言葉を交わしたあの日の彼の姿が重なった。
日に焼けた顔を赤く染めてとても優しく笑ってくれた、あの日の彼と。



ほんの数日前のことなのに、何故だかひどく懐かしくさえ思えて笑ったら、鳳くんが不思議そうな顔をして、どうしたんですか?と訊ねてくる。何でもないと首を振って答えた時、盛大におなかが鳴った。
やだ、信じられない……!さっきといい、今といい、なんでこんな時に!
せっかくのいい雰囲気を一気にぶち壊した自分の腹の虫に対する怒りと、恥ずかしさとで真っ赤になった私を抱き上げたまま、鳳くんは屈託ない笑顔を浮かべた。



「そう言えば、先輩お昼まだだったんですよね」
「……うん、ごめん……」
「謝ることじゃないですよ。それに俺もまだなんです」
「え、そうなの?」
「跡部先輩に言われて、昼休みになってすぐに部室で隠れてましたから」
「そうだったんだ」



つまり私たち二人とも、跡部のせいでお昼を食いっぱぐれてる訳なのね。
昼休みはとっくに終わって、校内はしんとした静けさに包まれている。堂々と学食に行く訳にも行かない時間。
少し考え込んでいた鳳くんが不意に小さく笑った。初めて見る悪戯っぽい笑みが可愛くて、何だかドキドキする。



「何?」
「このままサボって、外に食べに行っちゃいましょうか」
「外に?あ、でも私、お財布向日に預けたまんま……」
「俺が持ってますから大丈夫ですよ。ずっとここにいても仕方ないし、行きましょう。ね?」
「……うん」
「決まりですね」
「あ!ちょ、ちょっと待って!降りて、自分で歩くよ!」



にっこりと笑った顔に押し切られて頷くと、鳳くんは嬉しそうに笑って私を抱き上げたまま歩き出した。
慌ててストップを掛けた私の視界で、鳳くんは本気で残念そうな顔をして。
まるで小さい子供が駄々をこねるみたいに上目遣いで私を見つめる。抱き上げられて私の方が視線が高くなってる今だから見れる、鳳くんの表情。さっきの悪戯っ子みたいな笑顔を見た時と同じで、大きな身体にはアンバランスなその可愛さに馬鹿みたいにドキドキした。

大きな身体と大きな心で私を守ると言いながら、子供のように拗ねてみせたりもする。年下の男の子。
好きだと最初に自覚した時より、もっとずっと、鳳君のことを好きだと思った。






無意識なのか、小さな子供のように軽く尖らせた拗ねた唇。
今は低い位置にあるそれに、私は触れるだけのキスを落とした。




驚いて目を丸くした鳳くんの表情が緩やかに融ける。
もう一度、正面から見つめあって、私たちは笑った。





















小さくても年上の私と、大きくても年下の君と。
二人並んで、つま先立って、背伸びして。


そして恋を始めましょう。






















06/07/23UP     <<BACK   TOP