日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
いい加減なことを言う人を,これはこういう趣旨であるなどと善意に解釈してあげていると,いい加減なものも,ついにいい加減でなくなる。 それが,現代における古事記だ。 だから,古事記を読むときは,あまり善解してあげないくらいがちょうどよい。
2005年7月に「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」(初版)を公開してから,はや4年になる。 この間,2009年6月初めには,訪問者が10万人を超えた。 この,超マイナーな世界のサイトにしては,健闘していると思う。
初版公開後,岸根敏幸著・「日本の神話・その諸様相」・晃洋書房(2007年4月10日)が出た。 氏は,「基本姿勢として,両者を独立した個別の神話としてとらえるべきであると考えているので,本書では,あえてこの『記紀神話』という呼称は用いない」(諸様相179頁),としている。 まったく同感である。 各論では,アメノオシホミミについて,「スサノヲの血を直接引くことで,スサノヲの統治を継承するにふさわしい存在であるという条件を満たすような神(すなわち,アメノオシホミミのこと)を登場させることこそが,ウケヒ神話の根底にある意図なのではないか。ここでは,このような見通しを提示しておきたいと思う。」と述べている(諸様相106頁〜107頁)。 まったく,そのとおりである。 この問題関心を頭の中でころがせば,日本書紀第6段〜第9段の把握を通じて,初版で私が展開した,「日本神話の体系的理解」につながっていくはずだ。 また,岸根氏は,神は死ぬのかという問題意識もおもちのようだ。結論としては,「日本の神は死ぬ場合があると指摘することができる。」と述べている(諸様相51頁)。 神は死ぬのか,という問題は,日本神話の基本を理解するための重要論点である。この改訂新版では,氏が言う「死ぬ場合」について,若干,補充した。
溝口睦子著・「アマテラスの誕生」・岩波新書(2009年1月20日)は,立場や結論はまったく違うが,私と同じ問題関心が散見された。 結論や主張はまったく違うものの,溝口氏の以下の指摘は,初版で私が展開した意見と同じである。 @ タカミムスヒは,朝鮮半島を通じて波及した文化の波の1つ(8頁)。タカミムスヒが日本に侵入し,アマテラスと交わった(20頁)。 A タカミムスヒは,天孫降臨神話とともに朝鮮半島からやって来た,外来の神である(94頁)。 B 古事記ではなく,日本書紀を見ると,日本神話のもととなった「原資料」の姿がよくわかる(102頁)。 C アマテラスには海洋的性格があり,「トコヨの国」がなによりも慕わしい国だったに違いない(115頁,212頁)。 D 「天岩屋神話」を読んでみると,アマテラスは,なす術を知らない女神であり,秩序の頂点に立つ絶対神では決してない(121頁)。 E 「ウケヒ神話」,「天岩屋神話」の真の主役はスサノヲである(122頁)。 F アマテラスに焦点があるのではなく,むしろ,イザナキ・イザナミの国生みから,スサノヲ,オオクニヌシが,「話の中心のライン」だった(125頁)。 G 日本の古い時代における神々の王といえば,オオクニヌシをおいて他にはなかった(129頁)。 H オオクニヌシについては,大八洲国や葦原中国など,「日本全域を支配領域として視野においた伝承が少なくない」(133頁)。 I 日本書紀第6段第1の一書,第3の一書にみえる宗像三神は,現実の歴史的事実を踏まえて,その起源を語っている(159頁)。 私がこれらを論じたのが, タカミムスヒとアマテラスの混交(@,A), いずれも,私が,初版で論じ尽くしたテーマだった。
話は変わるが,「2ちゃんねる」でも,話題になったようだ。 2008年だったか,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」と本居宣長の「古事記伝」を対決させるスレッドが立ったようだが,現在,お蔵入りしているようである。 著者としては,少々,残念ではある。 いろいろメールをいただいたが,初版公開後,唯一,こんなメールが来た。 学校でもどこでも,古事記は古典だって言ってますよ。昔から偉い人が研究してきたんだから,古事記は素晴らしいに決まってんじゃん。古事記を笑うって,こっちが笑っちゃうよ。 こうした反応が,本当に,たった1つだけだったことが,むしろ意外だった。 おおかたの人は,自分の眼で,真面目に古事記を読んでいる。そして,悩んでいる。そうした感触を得た。
ただ,初版は,いまひとつ整理されていない部分がある。たとえば,「日本神話の体系的理解」という,私が一番言いたかったことが,分散している。 今回の改訂は,内容を整理し,わかりやすさに重点を置くつもりで着手した。見出しをみれば,どんなことを言っているか,わかるようにするだけのつもりであった。 しかし,着手してみると,もう少し緻密に書かないと,と思うところがたくさん出てきた。 また,たとえば「国生み」の細かい問題など,初版でパスした部分を書き加えることになったし,今回の「日本神話の構造と形成過程」のように,初版の考えを,もう一歩進めて突き詰めた部分も,多数ある。 日本神話の構造的,体系的理解や,形成過程を,もっと正面に打ち出さなければならないとも感じた。 それは,現代の学者さんたちに無視されてもくすぶり続ける,「神武東征」を,どうとらえるかという問題にもつながる。 こうして,確立した構造的,体系的,形成過程的理解のうえで,各問題点を,とらえ直さなければならないことになった。 それと同時に,日本書紀と古事記に散らばっている「各伝承」の位置関係,「各伝承」が指し示しているベクトルの方向性を,より明確にしなければと思った。 要するに,初版は,まだまだ幼かったわけだ。
こうした改訂作業の途中で,古事記学者さんの一貫した意見を聞く必要を感じ,結局,西郷信綱氏の古事記注釈全8巻(ちくま学芸文庫)を読むはめになった。 こっちが,構造とか体系とか形成過程とか言い始めるのだから,古事記学者さんはどう言ってるのか。そのレベルはどうか。これは確かめるしかないな,という感じである。 初版の時は,テキストとは別に,小学館の新編日本古典文学全集版を使ったが,注釈が少なく,つっけんどんで,学者さんの思考過程を把握しがたい。 西郷信綱氏の古事記注釈全8巻は,氏の,一貫した注釈が豊富である。確か,初版公表後に,文庫として刊行が始まった書物である。 これを選んだのは,言うまでもなく,「通勤電車の中で読める」,唯一の古事記注釈書だからだ。 これで古事記学者さんの水準がわかったし,それとの対比のうえで,この論文をまとめることができた。 「言葉」に対する,西郷信綱氏の見識の深さ。厳密さ。とともに,その,とらわれない自由さ。イメージの豊かさ。 さすがに,文学部の学者さんである。 言葉に対する厳密な態度と,イメージのふくらみが,きちんと両立している。 私は,井上光貞的な歴史学者としての論理性と,文学部的な自由さとが,見事に融合している点に驚いた。
しかし,以下に示すとおり,日本神話解釈において,氏の見解に同意できるところは,じつはほとんどないのである。 この論文は,残念ながら,西郷信綱氏の日本神話解釈とは,全く別なところで成立している。 なぜ違うのか。 それはたぶん,私が,「素人の物語読者」という立場を徹底し,「叙述と文言」だけに頼って,「余計な知識」も「余計な情念」も排除しながら,日本神話を作った人たちが何を考えていたかを,ひたすら追究しようとしたからであろう。 私は,日本神話を,「第三者的」に,「評論家的」に読む気になれなかったのだ。
そんな,あれやこれやのおかげで,「改訂新版」の分量は,2倍以上に増えてしまった。 はじめ,仕事の合間の1か月と,たかをくくっていた改訂作業が,7か月にも及んだ。 「改訂第1版」と考えていたが,これは,「改訂新版」と銘打った方が良さそうだ。 いずれにせよ,「話のタネ」は,すでに初版で提示済みだ。 今回の改訂新版は,「古事記神話を笑う」という点から,「日本神話を解明する」という点に,軸足が移っている。 古事記の「へんてこりん」を訴えた初版と違い,日本神話を,ほぼ全面的に論じたものになっている。 そんなわけで,この改訂新版には,「物語読者として日本神話を解明する」という副題をつけた。
初めて読む方は, 「第19 日本神話の故郷を探る」 を,まず最初に読んでいただきたい。 これで,日本神話の全体像が得られるだろう。 次に, 「第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない」 これで,日本神話のたて軸が理解できるだろう。 古事記に対する批判はいらない,日本神話の全体像をとりあえず知りたい,という方にもお勧めしておく。
古事記に関する結論めいたことは, 「第82 『居場所』のない古事記」 を読んでいただきたい。 古事記偽書説をめぐる議論が,いかに些末的で非生産的か。古事記全体をとらえ直すことがいかに大切かがわかるだろう。
老婆心ながら,この論文では,「オオナムチの支配」などといった表記が出てくる。 これだけ見ていると,なんだかトンデモ本のように見えるが,単に,「叙述と文言」に即して,テキストが言いたいことを,代弁しているにすぎない。 ライターの叙述意図からすれば,「日本神話のこの部分はこう言っている。」「こうしたことになる。」「こんなことが言いたいのだ。」というくらいの意味である。 この後,何度も出てくるが,神は,それをいつき祭る人の所に降臨する。だから,あくまでも,神をいつき祭る人々の存在を想定しています。 また,「歴史的事実」と「神話的事実」の混同もなきよう,お願い申し上げます。 くれぐれも,お間違えのないように。 ま,歴史的事実がどうだったかは,自然に出てくる問題だとは思っていますが。
なお,初版もそうだったが,「印刷された書籍」のように全体を通読する人にとっては,同じことが何度も出てきて,かなり「くどい」かもしれない。 わざと,「くどく」しているのである。 と言うより,個々の問題に対する思考の出発点というようなものがあって,そこに立ち戻りつつ考えて,それをそのまま叙述しているのである。 本の読み方がわかっている人には不必要であり,かえって不親切であり鬱陶しいが,寛恕願いたい。 インターネット上の文章は,しょせん「つまみ食い」の消費財である。だから,「つまみ食い」できるようにとの配慮が,根本にある。 「いわゆる古事記」に慣れ親しんだ普通の方には,私のとらえ方や思考の出発点が理解しにくいだろうという,危惧もある。 だから,興味のある部分から読み始めて,関連部分に跳んでいって,そこからさらに跳んでいるうちに,全体が理解できるようにしたつもりだ。 つまらなければ,途中でやめればいいようにできている。 この点,ご了解願いたい。
なにしろ長大な論文なので,テキストの読み取りに誤解があるかもしれない。 また,全体の統一性についても,自分で言うのも変であるが,細かいところになると,あれ,あっちではこんな風に書いてたっけなあ,どこだったっけ,なんてのが日常茶飯事であった。 ワープロの検索機能には,本当に世話になった。手書きでは,とうの昔に破綻している。 書いて,まとめていくうちに,思考がまとまってくる。 本当は,もう少し手元に置いて,気の向くまま読み直していたいのだが,もはや際限がない。この時点ですでに,書きすぎている部分が多々あることも承知している。 公開したあと,少しずつ訂正していくつもりである。
初版は削除せず,サイト内に,参考として残すことにした。 前述したとおり,初版発表後,いくつかの本が出版され,その中に,私が展開した議論と同じもの,私の問題意識と同じものがあることに気付いた。 今後の出版物との関係もあるので,いつでも参照できるようにしておいた。
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