日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第14 国生みのあとの神生み


神の国を語りたい古事記

 さて,古事記だ。

 国生みを終えたイザナキとイザナミは,続けて神生みを行う。しかも,延々と生み続ける。読んでいて,辟易するくらい生み続ける。

 なぜ延々と神を生むのだろうか。国土の次は,国土の上の自然じゃないか。山や川や草や木ではないか。動物ではないか。そして人間ではないか。
 それはどうなった。

 神話を読もうと意気込む読者としては,当然,そうした期待があるわけだ。

 しかし古事記ライターは,人間も自然も無視して,熱心に,神々を語る。自然や人間など,まったく無関心だ。

 明らかに,神々中心の世界観を世に残したかったに違いない。

 国土の上には,自然や動物や人間よりも,何よりも,まず神々がいるというのだ。

 古事記ライターは,そうした世界観をもっている。


神には無頓着な日本書紀

 ところで,日本書紀本文も,異伝である一書も,人間の発生については沈黙している。その点では,古事記と同様,神話としての資格があるかどうか疑問だ。

 これは,神話の定義にかかわることだが,まあ,それはどうでもいい。

 しかし日本書紀第5段本文の構想は,古事記とは明らかに違う。
 たとえば,国生みに続く叙述は以下のとおりだ。

 「次に海を生む。次に川を生む。次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。次に草の祖草野姫(かやのひめ)を生む」。

 こうして,「吾(われ)已(すで)に大八洲国及び山川草木を生めり。何(いかに)ぞ天の下の主者(きみたるもの)を生まざらむ。」と宣言して,アマテラスら3神を生む場面に行ってしまう。


日本書紀第5段本文に「神生み」はない

 「神生み」,とも言うべきくだりはない。

 日本書紀編纂者は,神生みには,ほとんど関心がない。山川草木を象徴する伝承上の自然神を,ちょこっと並べてみましたというだけのようだ。

 そうして,「「吾(われ)已(すで)に大八洲国及び山川草木を生めり。」として,国生みを完成させてしまい。国生みとは別に,アマテラスら3神を生む場面に行ってしまう。

 日本書紀編纂者は,国生み,もっと正確に言えば,大八洲国という国土と山川草木の生成だけで,地理的存在としての葦原中国が完成すると考えている。

 「記紀神話」という言葉で,古事記と十把一絡げにされるのは,日本書紀編纂者にとって,迷惑だろう。


古事記は「国生み」+「神生み」=「神国日本」と考えている

 一方,古事記ライターは,国生み(大八洲国という地理的な国土)+神生みにより,初めて葦原中国が完成すると考えている。

 定式化すると,「国生み」+「神生み」=「神国日本」だ。

 国土のあらゆるところに,神がいるし,いなければならないと考えている。
 だから,大八洲国を生成したあと,神々をごまんと生む。

 そしてその,最後の最後に,「神国日本」の集大成として,アマテラスら3神が生まれてくる。
 こうして,「地理的存在としての国」生みが完成する。それは,「神国日本」なのである。


テキストの表題と「叙述と文言」を並べれば明白だ

 古事記が考えている「神国日本」の生成は,テキストにしている岩波ワイド文庫版古事記の表題を並べて整理してみても,容易にわかる。

@ 「3 大八洲国の生成」

   地理的存在としての「大八洲国」を生んだ。

A 「4 神々の生成」

ここの書き出しは,「既に國を生み竟(を)へて,更に神を生みき。故,生める神の名は,・・・」として,神々を生む。
そして,最後のまとめは,「凡(す)べて伊邪那岐,伊邪那美の二はしらの神,共に生める島,一十四島,神,三十五神」として,さらに,「これ伊邪那美神,未だ神避らざりし以前に生めり。唯,意能碁呂島は,生めるにあらず。」

B 「5 火神被殺」

神生みの途中で,イザナミは「死ぬ」。カグツチ「殺し」により,さらに神々が生成する。

C 「6 黄泉の国」

黄泉国までイザナミを追ったイザナキは,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」と言う。だから,国生み=神生みは終わっていない。

D 「7 禊祓と神々の化生」

イザナキ1人でさらに神を生み,あげくの果てに,アマテラスら3神が生まれてくる。「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」と言って,喜ぶ。

E 「8 三貴子の分治」

アマテラスら3神に支配領域を命じ,「修理固成の命令」が果たされる(国生みの終了)。


古事記の「国生み」は「神国日本」の国生み(1)

 一般には,いわゆる「大八洲国」を生んで,いわゆる「国生み」が終わると思われている。
 それが,通説だろう。

 しかし,古事記はまったく違うのだ。

 上記@。これで,狭義の「国生み」は終わる。

 しかし,上記A「4 神々の生成」の冒頭は,「既に國を生み竟(を)へて,更に神を生みき。故,生める神の名は,・・・」と,神生みがつながっていく。狭義の「国生み」で,「生み」が途切れるわけではない。


古事記の「国生み」は「神国日本」の国生み(2)

 しかも,上記A「4 神々の生成」の,最後のまとめは,「凡(す)べて伊邪那岐,伊邪那美の二はしらの神,共に生める島,一十四島,神,三十五神」である。

 「島」と「神」を,一連のものとして生んだとしている。

 そして,さらにさらに,「これ伊邪那美神,未だ神避らざりし以前に生めり。唯,意能碁呂島は,生めるにあらず。」である。

 オノゴロシマ(意能碁呂島)から始まった「国生み」だったが,古事記ライターは,「神生み」も含めて,一連,一体のものとしてとらえているのである。


古事記の「国生み」は「神国日本」の国生み(3)

 そして,上記Bを経て,上記C「6 黄泉の国」では,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」

 この,「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず」という「叙述と文言」から,狭義の「国生み」のあと,間髪を入れずに始まった「神生み」が,「国生み=神生み」の一環であることがわかる。

 イザナキは,オノゴロシマへ一緒に帰って,さらに広義の「国生み」の一部である「神生み」を続けようというのだ。

 上記@「3 大八洲国の生成」の段階では,国生みは完成しておらず,上記A「4 神々の生成」と,上記B「5 火神被殺」で,神生みが延々と続くが(ここでたいていの人は辟易するが),「神生み」が完了しないと,「神国日本」という広義の「国生み」も,完了しないのだ。

 だから古事記は,「国生み」+「神生み」=「神国日本」と考えている


古事記の「国生み」は「神国日本」の国生み(4)

 そしてイザナキは,だめ押しのように,上記D「7 禊祓と神々の化生」に至って「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」と言って,喜ぶ。

 「吾は子を生み生みて」とある「子」とは,「島」と「神」。地理的存在としての大八洲国生み+神生み,という意味だ。

 それは,生む対象として,「島」と「神」を,一連,一体のものとしてとらえていた古事記ライターの頭からすれば,当然のことである。
 そして,「生みの終(はて)」が,アマテラスら3神だというのだ。

 こうして,「神国日本」の国生みは終わる。

 これにかぶさるようにして展開されるのが,出雲神話だ。

 葦原中国を平定して,「人間社会としての国」を作るのは,オオクニヌシ(大国主命,大己貴神)だ。人間の登場は,オオクニヌシを待たねばならない。


古事記の「神生み」をまとめる

 すでに述べたとおり,神生みに対する古事記ライターの執着は,尋常ではない。ここで古事記が嫌いになる人も,たくさんいるのではないだろうか。

 ここで,古事記の神生みを,整理しておこう。以下のとおりだ。

@ 国生みに続いて行われる神生み。

A そこで生まれたカグツチ(迦具土神)にイザナミが焼かれて生成する神。

B イザナキがカグツチを殺して生ずる神。

C 黄泉国から逃走する際に生まれる神。

D イザナキが禊ぎをする際に生ずる神。


古事記の「国生み」はアマテラスらの誕生で「神国日本」として完結する

 古事記ライターは,文字どおり,「神国日本」を考えている。

 そして,「イザナミの死」後,神生みを受け継いだイザナキは,B,Cの神々を生み続け,その最後の最後に,Dで,神々しいアマテラスら3神を生む。

 葦原中国をめぐる世界を支配するべき,神々の最高神というわけだ。

 ここで,「国生み」と「神生み」が終わり,「神国日本」が完成する。
 「国生み」+「神生み」=「神国日本」という国生み体系が,完結する。

 そうした構想なのだ。

 だからこそイザナキは,「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず」と言ったあと,アマテラスら3神を生んで,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」と言って,喜ぶ。

 「生み生みて」とは,「国生み」と「神生み」のことである。「神生み」だけではない。

 アマテラスらは,その,「生みの終(はて)に」生まれてくる。

 要するにイザナキは,神がいる国,「神国日本」の生成を,イザナミの「死」後,受け継いで,完成させたのだ。その最後の神生みが,アマテラスだった。

 だから,古事記ライターの気持ちをしっかり捕まえるならば,「神国日本」の最高神,アマテラスが生まれてきたことを,ありがたがらなければならないのだ。

 これが,古事記の「根本イデオロギー」である。

 日本書紀とは,根本から違う。決して,「記紀神話」などという用語でくくってはならない。


古事記ライターの神に対する執念

 さて,生まれてくる神々は,決して,「高天原」の神々だけではない。
 自然神や,水門の神や食物の神や土の神など,とにかく現実に生きている人間の周囲にいる神々だ。

 人間は,全然,まったく登場しないくせに,人間の周りにいる神々が,辟易するほど登場する。そして,Dの神生みの最後の最後に,神々しいアマテラスが生まれてくる。

 どうですか。古事記ライターの執念が,少しずつわかってきませんか。

 古事記は古事記で,きちんとした構成があるようだ。この点,古事記ライターはたいしたものだ。


一読者としてのしらけ(古事記は神々の解説書)

 しかし私には,君たちの周りにはこんな神々がいるんだよ,その一番偉い神様がアマテラスなのだよ,と説教されているような気がする。

 少々おしつけがましい。
 悪いけど,かえって,古い伝承という気がしてこなくなる。

 意気込んで古事記を読んだけれど,これほど熱心に神を説明されると,神々の解説書のような気がする。
 神話の世界から遠のいてしまった,現代の私たちに向けた,神話復興の解説書のような気がする。

 少なくとも,アマテラス信仰が確立してから,様々な神々を整理して,「神国日本」に位置付けた書物だと位置づけることができる。


オオクニヌシの国づくりは「国生み」が終わった後の「人間社会づくり」だ

 さて,古事記に戻ろう。

 地理的な国土としての国づくり(日本書紀は単なる国土,古事記は神の国としての国土という違いはあるが)が終われば,次に来るのは,人間社会だ。

 私は,オオクニヌシの国作りこそ人間社会作りである,と考えている。いわゆる「国生み」とは,なんの関係もない。

 オオクニヌシは,スサノヲの「生太刀」と「生弓矢」を使って,「八十神」を征伐して,「始めて國を作りたまひき」とされる。

 これが,「叙述と文言」上の根拠である。

 ここにいう「國」は,もはや,土地という自然的存在や,神々がいる場所としての国土ではない。

 「生太刀」と「生弓矢」が必要な,生臭い世界だ。戦争をして殺しあいをする人間と,その人間がいつき祭る神々がいる,人間社会そのものだ。

 人間を武力で制圧して,「始めて國を作りたまひき」となったからこそ,その直後に,高志國のヌナカワヒメ(沼河比賣)への夜這いの話が,続いて語られる。

 これもまた,生臭い話だ。


生臭い話は「産霊」の霊力とは関係ない

 それはまさに,オオクニヌシの王朝物語である。それが証拠に,オオクニヌシの物語は,オオクニヌシの神裔,すなわち子孫を語ることで終わる。

 これは,後で詳しく述べる。

 とにかく,「修理固成の命令」に基づいた,「国生み」と「神生み」とは,もはや何の関係もない。
 「産霊」の霊力とも,関係がない。

 「生太刀」と「生弓矢」,「戦争」,ヌナカワヒメへの「夜這い」は,もはや「産霊」の霊力とは異なる,生臭い人間の世界の物語だ。


学者さんの説(神野志隆光説)はどうなっているか

 「叙述と文言」をしっかり読むということを理解するためにも,学者さんの説を批判しておこう。

 高名な古事記学者である神野志隆光は,国生みは,イザナミの死で中途半端なまま「未完におわった」と言う。
 イザナキが国作りを完成することもなく,未完のまま終わると言う(神野志隆光・古事記・99頁・日本放送出版協会)。

 そして,その未完の国作りは,オオクニヌシによって果たされると言う(神野志隆光・古事記・99頁,106頁・日本放送出版協会)。

 その全体に,古事記冒頭で高天原にいるとされた,タカミムスヒの「産霊(むすひ)」の思想が関与していると言う。

 国作りは,そうした産霊の思想に裏付けられた,古事記を一貫したテーマだと言いたいようだ。


「叙述と文言」から出発する物語読者としての反論

 すでに見てきたように,この学者さんの説は,「叙述と文言」に反している。

 くどいようだが,物語読者としての私の反論は,以下のとおりである。

 要するに,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」というイザナキの言葉,「叙述と文言」を,どう考えるか,ということに尽きる。

 「大八洲国」を生み終えたにもかかわらず,その後なぜ,立て続けに神を生むのか。その後イザナミが黄泉国へ行ったとき,なぜ,こんなことを言うのか。

 そして,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」という,「子を生み生みて」という「叙述と文言」を,どう解釈するのかという問題でもある。

 「生める子は,淡道の穗の狹別島」という「叙述と文言」から始まって,大八洲国が生まれ,「既に國を生み竟(を)へて,更に神を生みき。故,生める神の名は,・・・」として,神々を延々と生み,その最後の果てに,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」なのである。

 大八洲国も神も,立て続けに「生んだ子」である。だから,「子生み」は,天照大神ら3神の出生で終わるのだ。

 私は,この学者さんは,古事記をきちんと読んでいないと思う。
 「産霊の思想」という主観に溺れて,本居宣長と似たような過ちを犯しているのではないか。


古事記の「国生み」は「神国日本」生みだからイザナミの死で中断されない

 神生みは,イザナミの「死」(前記Aの部分,「神の死」の意味については後述)によっても中断されない。

 中断されると言う人がいるが,前記したとおり,「叙述と文言」に反している。
 それは,夫であるイザナキに受け継がれるのだ。

 なぜなら,黄泉国までイザナミを追ってきたイザナキは,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。故,還るべし。」と言うからだ。

 ここでは,「神生み」が,「国生み」と同視されている。

 イザナミは,大八洲国,すなわち地理上の国土を生み,さらにその国土にいる神,火の神カグツチを生んでいる最中に「死んだ」のだった。

 してみると,「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず。」というのは,「神々がいる国」ということだ。


修理固成の命令はオオクニヌシの国作りで完成されるのではない

 神野志隆光の言うように,未完の国作りはオオクニヌシによって果たされると言うならば,当初,イザナキとイザナミに下された,天つ神による「修理固成の命令」は,オオクニヌシにも及ぶのか,という疑問も生まれる。

 「修理固成の命令」から,「国生み」が始まったのである。

 天神,地祇という区別がある。

 「修理固成の命令」は,「天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて」,天神たる,イザナキとイザナミに与えられた命令だ。

 その「修理固成の命令」は,地祇にすぎないオオクニヌシの国作りにも及ぶと言うのだろうか。
 なぜ,地祇であるオオクニヌシに及ぶのだろうか。

 神野志隆光説は,世界観が混乱しているのではなかろうか。


「産霊」の思想はいいけれど「修理固成の命令」をどう考えるのか

 相手の立場をおもんぱかって考えよう。「産霊」の思想が古事記の物語を貫くのであって,天神にも地祇にも及ぶと考えるのだろう。

 となると,「高天原」と「葦原中国」の対立という,日本神話全体の構成と矛盾しないだろうか。

 話を戻して,「修理固成の命令」と,「産霊」の原理とは,いかなる関係に立つのか。

 「修理固成の命令」の背景に「産霊」という世界生成の原理があり,命令を裏打ちしていると言うのだろうか。

 だとすれば,「産霊」の思想を背景にして,「現実」には(古事記の叙述上は),イザナキらに「修理固成の命令」が出されただけだから,その範囲を超えて国づくりを考えるのは,やはりおかしい。

 地祇であるオオクニヌシまで,この命令に拘束される理由は,まったくない。
 オオクニヌシは,「修理固成の命令」を受けていないのだ。


「産霊」の思想と「修理固成の命令」を図示する

 世界観を図示すると,以下のとおり。


|―――――――――――「産霊」の思想――――――――――――|

|――「修理固成の命令」―――|……………… ? ………………|

|――「国生み」と「神生み」―|―「オオクニヌシの国作り」――|

   (地理的意味での国土) |(人間社会としての国)
   (じつは神国日本)   |(戦争も女もある生臭い人間社会)


 最上段の,「産霊」の思想が及ぶ範囲が,神野志隆光の主張である。
 これが,「オオクニヌシの国作り」まで及ぶというのだ。

 だとすると,物語の「表面」に出ている「修理固成の命令」が,「オオクニヌシの国作り」まで及ぶとしないと,筋が通らない。

 「産霊」の思想は,神野志隆光も認めるであろうとおり,あくまでも,物語上のあれやこれやの仕掛けの背後にある,「原理」にすぎないからだ。

 「オオクニヌシの国作り」についても,物語上,「修理固成の命令」と同等の「命令」が必要であろう。

 それが不要とするならば,何でもかんでも「産霊」で解決,ということになり,背景原理=「産霊」 ←→ 「物語」という重層構造が破綻してしまう。


「叙述と文言」を軽視する学者さんたち

 なぜ,「産霊」の思想を持ち出して,「吾と汝と作れる國,未だ作り竟(お)へず」,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に三はしらの貴き子を得つ。」という,「叙述と文言」を無視するのか。

 また,なぜ,何度も何度も出てくる「日向」という「立派な地名」を,「日に向かうところという神話的意味を与えられていたのである」(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,35頁)などと,解釈するのか。

 さらにまた,なぜ,古事記の国生みが「生み廻り」であるのに,「還ります時」という「叙述と文言」を無視して,「なぜ『還り』とあるか未詳」(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,37頁)で済まそうとするのか。

 私には,まったく理解できない。「物語読者としての古事記読み」を軽視しているとしか思えない。

 日本神話を観念的にとらえ直そうとしていることだけはわかるが,「叙述と文言」を軽視しているとしか思えない。


古事記を文献として読むということ

 文学部系は,思想や情念にとびつく。しかし,あられもなくつまらない条文解釈から始まる法学部系は,しらける。

 しかし,文献を読むときは,思想や情念にとびついてはならない。

 じつは,「産霊」の思想自体,日本神話の中でどこまで考えられているのかわからないのだ。
 それは,後述するとおり,日本書紀の異伝である一書に出てくる。しかしそれは,ひそやかに出てくる。日本書紀編纂者は,まともに扱っていない。


 古事記を文献としてとらえるならば,なによりもまず,「叙述と文言」から入るのが筋である。
 そこから入って,その背後にある思想をとらえ,そこから,「叙述と文言」を照らし直すのが筋である。

 法律の条文解釈と同じである。

 「叙述と文言」を無視して,背景原理だけを押し出されてしまっても,対応に困るのである。


古事記を文献として読まない態度

 「叙述と文言」を無視して,古事記冒頭にある「産霊」の思想にとびついて,それを振り回すのは,意味がないというよりも,むしろ危険だ。

 その方法論が許されるならば,古事記のいろいろなところにとびついて,「産霊」から古事記を解釈するという,主観的な解釈が,いくらでもできる。

 そして,何が危険かと言うと,「日向」は,「日に向かうところという神話的意味を与えられていた」にすぎないという前提で,またまた議論が発展してしまうからである。

 そんな議論が,いっぱいある。
 ご苦労さんなことだ。

 確かに,古事記には,「産霊」の思想が見え隠れする。

 しかし,古代人は,そんな大層な観念に従って,今の学者さんが考えるような理念に従って,「一貫した」神話伝承を作ったのではない。


天と地のペア神の整理の仕方

 さて,学者さんの説に対する批判はこれくらいにして,神生みについて,細かいけれど納得できないことを述べておきたい。

 古事記ライターは整理したつもりなのだろうが,なぜ天つ神と国つ神がペアで生まれてくるのか,私にはわからない。

 たとえば「天之水分神」と「国之水分神」。「天之久比奢母智神」と「国之久比奢母智神」。「天之狹土神」と「国之狹土神」。「天之狹霧神」と「国之狹霧神」。「天之闇戸神」と「国之闇戸神」。

 これらは天と地を対比させたつもりなのだろう。


「この漂へる国」の修理固成命令なのになぜ「高天原」の神が生まれるのか

 しかし,全体の構成という点から見れば,破たんしている。

 「この漂へる国を修め理り(つくり)固め成せ」というのが「修理固成の命令」である。

 だからこそ,「天降って」,地上にある淤能碁呂島(おのごろしま)で国生みをしているのだ。

 なのになぜ,「天」の神を生むのだろうか。「漂へる国」を統括する地の神,国つ神だけを生めばよいのではないだろうか。
 それだけで,「漂へる国」を「修理固成」できるはずだ。

 地上に降って,天つ神を生むのは,おかしいのではないか。

 そもそも,上記クニノサツチ(国之狹土神)は,日本書紀本文によれば,混沌とした中で生まれてきた,クニノトコタチに続いて生まれた神だ。
 そうした原初的な神なのだ。

 古事記では,なぜか,ここでやっと生まれてくる。
 整理する位置を間違えているのである。

 古事記ライターは,構成というものを,あまり考えない人らしい。


天鳥船や大宜都比賣神は「漂へる国」の神なんですかね

 さらに,「天鳥船(あめのとりふね)」や「大宜都比賣神(おおげつひめのかみ)」も,「高天原」の神だ。

 「天鳥船」は,国譲りという名の侵略の際,タケミカヅチ(建御雷神)に添えて派遣される神だ。「大宜都比賣神」は,スサノヲが追放される際,「高天原」で五穀を作り出す神だ。

 「この漂へる国」の修理固成に,何の関係があるのだろうか。

 このように,古事記ライターは,「この漂へる国を修め理り(つくり)固め成せ」という「修理固成の命令」を,きちんと受け止めていない。
 そのために必要な神だけでなく,不必要な神まで羅列している。

 「修理固成の命令」をきっかけにして,神々を整理してみましたとさ,という構成である。


タケミカヅチが生まれてくるからここに置いたのか

 アメノトリフネ(天鳥船)については,タケミカヅチとともに派遣されるから,ここに置いたとも言える。
 このあとすぐに,タケミカヅチが生まれてくるからだ。

 しかし,そんな便宜的なことで,私は納得しない。

 古事記ライターは,やはり,「この漂へる国」の修理固成を書きながら,そんなことは忘れてしまって,神々の羅列に一所懸命なのだ。


大宜都比賣神は死んだり生き返ったりする

 さて,古事記で生まれてくる神々を,ひとつひとつ説明することはできない。学者さんさえ,半分お手上げのようだ。

 ここでは,オオゲツヒメ(大宜都比賣神=おおげつひめのかみ)だけ取り上げてみよう。

 オオゲツヒメは,食物の神だ。話は跳ぶが,スサノヲが高天原を追放されて出雲に降る途中,このオオゲツヒメ(大気都比賣神と表記)に食物を乞う。

 オオゲツヒメは,鼻,口,尻から食物を出す。
 汚いと言って怒ったスサノヲは,オオゲツヒメを殺してしまう。その死体の各部から,五穀と蚕が生成する。

 ちょっと変な話だが,要するに,五穀と養蚕の起源を語っているのだ。

 それはよいのだが,じつはこのオオゲツヒメ,「死んで」いなかったのだ。

 スサノヲの子孫,オオクニヌシは,国を作る。その子孫も栄える。大年神(おおとしのかみ)の子孫に,羽山戸神(はやまどのかみ)というのがいる。この神は,オオゲツヒメ(表記は大気都比賣神)と結婚して,子供をもうける。


文献としての古事記の未熟さ

 普通の人であれば,誰でもおかしいと思うはずだ。

 だが,日本最古の古典がそんな馬鹿な誤りを犯すはずがないと思っているから,誰も変だとは思わないし,言わない。

 何かの間違いだろう,で片づけてしまうのだ。

 本当に,人口に膾炙した日本古来の伝承であれば,なぜ,こんな,ちぐはぐなことが起こるのだろうか。
 伝承というものは,伝えられるうちに,洗練されていくものだ。「おじいちゃん,それおかしい。」という,子供の一言によって,リファインされていくものだ。

 古事記にはそれがない。

 それとも,フランケンシュタインのように,古い伝承のつぎはぎだから仕方がないとでも言うのだろうか。
 しかし古事記序文は,天才が「誦習」したものを文章化したと,堂々と誇らしげに述べているではないか。

 私は,こうしたところに,古事記ライターの,ライターとしての資質が,はっきり表れていると思う。
 文献としての古事記の価値も,こうしたところで決まる。

 古事記は,この程度の書物なのだ。文献としては,未熟な書物だ。日本最古の古典であり,大変なことが書いてあると思ってはいけない。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



本サイトの著作権は天語人が保持します。無断転載は禁止します。
引用する場合は,表題と著者名と出典を明記してください。
日本神話の読 み方,すなわちひとつのアイデアとして論ずる場合も,表題と著者名と 出典を明記してください。
Copyright (C) 2005-2009 Amagataribito, All Rights Reserved.


by 天語人(あまがたりびと)


Contact Me

Visitor Since July 2005