日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)


日本書紀はアマテラス神話を確立していない

 さて,天の石屋戸場面の検討が終わったところで,アマテラス神話を総括してみよう。

 私は,少なくとも日本書紀では,アマテラス神話が確立されていないと主張してきた。

 第5段本文で生まれるのは,「大日霎貴」という名の「日の神」であり,どうもこれはアマテラスらしいというだけであり,しかも,最高神とか支配者とかいう叙述はまったくなく,単に「光華明彩(ひかりうるわ)し」いので天上界に送られただけだった。

 同じく光り輝く「月の神」と同格で,送られるだけだった。

 スサノヲと対峙する第6段では,天上界を自分の世界だと考えてもいるらしいが,第6段から第8段までの,「天の下の支配者不在の時代の物語の主人公」は,スサノヲであった。
 だから,日本書紀編纂者が,ことさらアマテラスを称揚して描いたとも思えない。

 日本書紀編纂者の関心事は,スサノヲだから。アマテラスは,脇役だから。

 日本書紀編纂者は,第5段本文の「天照大日霎尊」を頼りに,第6段以降で「天照大神」神話を叙述するが,第7段で,またたく間に,その化けの皮がはがれる。

 天上界はアマテラスをはずした「共和制」であり,アマテラスの権威も支配もまったくなく,弱々しくも情けない女神,アマテラスがいるばかりだった。

 神々が「困った困った」と言って協議したのは,アマテラスの職掌,光の供給がなされないからにすぎなかった。
 古事記は,アマテラスが隠れたので世界秩序が崩壊した風なことを書いているが,日本書紀にそんな記事はないのであった。

 日本書紀におけるアマテラスは「新嘗」をしているが,それは,「皇子・大臣」も独自に行っている新嘗にすぎず,「五穀と養蚕」を司ることを指し示すにすぎなかった。

 古事記では「大嘗」などと,大きく出ているが,天皇でもないアマテラスが,代替わりを前提とした,一世一代の「大嘗」をするなど考えられず,しょせんいい加減な古事記なのであった(新嘗で十分なのであった)。

 「絶対的存在」のアマテラスを,現に目の前に「絶対的存在」として存在する天皇になぞらえたのであろうが,それ自体が,勇み足なのであった。

 当時最新の情報を取り入れた古事記の「新しさ」が,露呈しているのであった。

 そして,日本神話のハイライトシーン,日本神話はこのためにあると極言してもおかしくない場面,「国譲りという名の侵略」と「天孫降臨」では,タカミムスヒこそが命令神であり,アマテラスが命令神となる伝承は異伝中の異伝にすぎないのであった。


日本という国家はアマテラス神話を確立していない(溝口睦子説に対して)

 私が「叙述と文言」を根拠に主張したことは,大雑把にまとめると,以上に尽きる。

 こうしてみると,少なくとも日本書紀において,アマテラス神話が確立しているとは言いがたい。

 ただ,公平に見て,「アマテラス神話を描こう」としている「努力のあと」は,認められるであろう。

 日本書紀は,律令国家黎明期の,日本という「国家」における,神話の公権的公定解釈である。

 日本という国が,日本を担った複数の官僚たちが,720年という時点で,アマテラス神話を確立していないのである。
 むしろ,一貫性のなさを露呈したまま終わっている。

 だから,溝口睦子氏が,「アマテラスの誕生」(岩波新書,2009年1月20日)で,天武天皇の時代に,時代の要請によってアマテラス神話を確立させたというのは,賛成しかねる。


古事記をどうとらえるかが問題である

 問題は古事記である。

 古事記は,何度も述べてきたとおり,アマテラス信仰がはっきりしている。私に言わせれば,はっきりしすぎている。

 日本書紀がアマテラス神話を確立していないとすると,単純に考えれば,古事記はその後の書物ということになる。

 しかも古事記は,日本書紀編纂者が採用しなかった異伝の「つぎはぎ」であり,しかも総合したような面も,もっている。

 だから,「後付け」という気配が濃厚である。
 日本書紀が嫌で,自分の言いたいことを,異伝を「つぎはぎ」して言おうとしたのではないか。


「くせ者古事記」を歴史学の中でどうとらえるのか

 こうした古事記を,いかなる時代的思潮の下に位置づけるのか。

 これは,「伊勢神宮の成立時期」や「祝詞の成立時期」とともに,立派な歴史学の問題になるだろう。

 古事記成立時期の問題は,これらに連動している。

 ここには,古事記が当時の社会の中でいかなる役割を果たした書物であり,いかなる人々に読まれていたのかという問題をもからめ,解明されなければならない問題がある。

 私が,「くせ者古事記」と呼ぶ理由は,ここにある。

 そうした意味で,古事記は宮中の秘密文書であり,女房たちがくすくす笑って語りを聞いていたのだという説が,じつは結構当たっているのかもしれない。

 そうでないと,「712年成立」が崩れてしまうだろう。
 とにかく,政府の公的文書は,アマテラス神話を確立していないのだから。


アマテラス神話を覆す日本書紀第7段の一書

 さて,日本書紀編纂者のアマテラスに対する曖昧な態度。これを端的に物語っているのが,日本書紀第7段第2,及び第3の一書である。

 日本書紀第7段の3つの一書は,強烈な個性を放っている。
 日本神話の構成を考え直させる,第7段第3の一書の強烈さは,後に述べる。

 ところが他の2つの異伝も,ほとんど常識になっている「アマテラス神話」をひっくり返すほどの,強烈な光を放っている。

 いったいアマテラスは,本当に天石窟の主人公だったのか。
 天の石屋戸伝説は,本当にアマテラス固有の伝承だったのか。
 伊勢の大神は本当にアマテラスなのか。
 紀伊国のヒノクマノカミ(日前神)ではないのか。

 そうした疑問を生じさせる異伝群だ。よく知られているアマテラス神話との落差は,尋常ではない。

 日本書紀編纂者は,こうした異伝をも,きちんと残した。大切な資料として残した。
 ここに,日本書紀編纂者の,冷徹な編纂態度が見て取れる。


アマテラスが紀伊国の日前神だとする第7段第1の一書

 第7段第1の一書は,適当に読み流すと,「天照大神」を主人公とした天石窟の話を展開しているように見える。

 しかしこの異伝は,以下のように伝えている。

 思兼神(おもいかねのかみ)の発案で,アマテラスの「象(みかた)」を作って祈ることになった。
 こうして作られた「象(みかた)」は,「是即ち紀伊国(きのくに)に所坐す(まします)日前神(ひのくまのかみ)なり」。

 驚くべきことだ。

 「天照大神」による天石窟の話。
 しかしそれは,「紀伊国(きのくに)の日前神(ひのくまのかみ)」であり,伊勢の大神ではないのだ。

 これはいったいどうしたことか。


古語拾遺(斎部広成)の屁理屈(あるいは神話の偽造)

 この矛盾を解決しようとしたのが,斎部広成による「古語拾遺」だった。

 斎部広成は,最初に作って意に染まなかった鏡が日前神で,次いで作った美麗な鏡が伊勢の大神であると解釈した。

 鏡が2つあったというのだ。

 しかし本当にそうだろうか。

 鏡が2つあったと,どこに書いてあるのだろうか。根拠があるのか。話を取り繕うための,斎部広成による,単なる創作話ではないのか。

 古語拾遺は,日本書紀や古事記の時代から90年近くたった,807年の撰上である。

 学者さんさえも,斎部広成「独自」の説であり,古語拾遺という文献の「史料性とも関連する。」と述べている(岩波書店・古語拾遺・訓読文補注,76頁)。

 要するに,文献としての価値を疑うほど信用できないという意味だ。

 だからこの見解は無視して,日本書紀の「叙述と文言」だけを考えるべきだろう。斎部広成がこう言っている,古語拾遺にこう書いてある,で終わっていては,何の解決にもならない。


「其の瑕今に猶存。此即ち伊勢に崇秘る大神なり」の解釈

 第7段第2の一書では,「日神尊(ひのかみのみこと)」あるいは「日神」の話として天石窟の話が展開される。やはり天石窟伝説だ。

 しかしそれは「天照大神」の話ではない。あくまでも,「天照大神」とは異なる,「日神」の伝承だ。

 「紀伊国(きのくに)の日前神(ひのくまのかみ)」が,天石窟にこもった「天照大神」であるという,第7段第1の一書とは,まったく異なる伝承だ。

 だから,日神と天照大神に関するこの2つの伝承は,同じ天石窟に関する伝承ではあるが,まったく異なる,独立した伝承だ。

 しかし,第7段第2の一書では,「日神」が岩窟から出てくる時に,岩戸に触れて,鏡に「小瑕(こきず)」がついたという。

 問題は,このあとに挿入された1文だ。

 「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」。

 「今」というのは,日本書紀編纂時の「今」である。


第7段第2の一書は日神が主人公でありアマテラスではない

 この第7段第2の一書によれば,天石窟の話は,「日神」という一般的な太陽神に関する伝承でしかない。
 アマテラスという,固有名詞を獲得した神の話ではない。

 また,これが「伊勢の大神」の伝承であるという保証は,どこにもない。

 「伊勢の大神もアマテラスも日神だから,いいじゃないか。」とは言えない関係にある。

 ところで,日本書紀編纂時には,日神のうちの1つとして称揚されていた,「伊勢の大神」という神があった。
 これを称揚しようとする機運があった。

 しかし第7段第1の一書によると,天石窟伝説を持つアマテラスは,紀伊国の日前神だ。伊勢の大神ではない。

 だが一方,鏡に「小瑕(こきず)」がついたという,「日神」伝承がある(第7段第2の一書)。

 そこで,「伊勢の大神」の鏡を調べてみると,確かに,「今」でも,「小瑕」がある。

 これで,第7段第2の一書の,天石窟を伴った日神伝承が,「伊勢の大神」につながった。

 そして,そうならば,天石窟伝承をもった「天照大神」(第7段第1の一書)は,伊勢の大神ではなかろうか。

 だからこそ日本書紀編纂者(またはこの異伝の作者)は,この異伝に1文を挿入して,天石窟の伝承をもった「日神」は,じつは「伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神」だったと判断しているのだ。


第7段第1,第2の一書の存在意義

 日本書紀編纂時点で,天石窟の伝承=天照大神=伊勢の大神だと論証することが,日本書紀編纂者の課題となったのだろう。

 この時点で,天石窟の話は,「天照大神」や「日神」とは結びついていても,伊勢の大神に結びついていなかったのだ。

 第1の一書は,
@ 天石窟の話は「天照大神」の話である,
A しかし「天照大神」は伊勢の大神ではなく紀伊国の日前神である,としていた。

 これで天石窟の話が「天照大神」につながった。
 しかし,それが紀伊国の日前神であっては困る。

 そこで日本書紀編纂者は,第2の一書を掲載した。これは,
@ 天石窟の話は「天照大神」を含む「日神」一般の話である,
A 日神が岩窟から出てくる時に鏡に「小瑕(こきず)」がついた,と伝えていた。

 そこで,日本書紀編纂時の「今」,宮中にあるか伊勢にあるかした鏡を調べてみたら,やれ嬉し,やっぱり小さな瑕が残っている。

 こうして,「伊勢の大神」 → 鏡の瑕 → 「日神」の天石窟伝承 → 「天照大神」の天石窟伝承,とつながったのだ。

 「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」という1文は,以上の事情を物語っている。

 図示すると,こうなる。

天石窟伝承=天照大神  ――→ 紀伊国の日前神(第1の一書)!

天石窟伝承=日神,小瑕(第2の一書)
         ↑
         ↓
         小瑕 ――→ 伊勢の大神


天石窟=天照大神=伊勢の大神という図式は日本書紀編纂時までなかった

 こうして,現在の私たちが常識として知っている,天石窟の伝承=天照大神=伊勢の大神,という図式が作り上げられたのだ。

 それが言いすぎだとしても,少なくとも日本書紀編纂者が生きた時代には,この図式を証明する必要があった。

 だから,日本書紀が編纂されていた時点で,いわゆる「伊勢の大神」=アマテラス神話は確立していなかった。

 日本書紀編纂時以前の伝承の世界では,

@ 天石窟の話は,「天照大神」固有の話であるとともに,日神一般について流布された話でもあったし(第7段第2,第3の一書),

A 「天照大神」の話だという伝承は,「伊勢の大神」ではなく「紀伊国の日前神」という伝承が一方にあって,伊勢の大神=天照大神とは断定できなかった,

B 「伊勢の大神」はいわゆる「日神」であり,すでに「大神」として称揚されていたが,瑕のついた鏡をもっていた,というだけなのだ。

 伊勢の大神が当然天照大神であると考えていたならば,「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」などと,特筆大書することはなかったであろう。


思えばアマテラスの出自はいい加減だった

 思えば,日本書紀第5段本文は,生まれた日神をアマテラスとは呼ばず,「大日霎貴(おおひるめのむち)」と呼んでいた。

 本文中の異伝で,「天照大神」あるいは「天照大日霎尊(あまてらすおおひるめのみこと)」という呼び名が紹介されているだけだった。

 すなわち,日本書紀編纂者自身,古来から信仰されていた日神がアマテラスであるとは断定できなかったのだ。
 「天照大日霎尊」という名称もあるから,日神=「大日霎貴」は「天照大神」のことだろう,というにすぎない。

 これは,よく考えると大変なことだ。生まれたときの名前に疑義があるというのだから。


アマテラスは伊勢に鎮座したのではなかったか

 以上の私の見解については,検討しておかなければならない点がある。有名な,「天照大神」の諸国放浪の話だ。

 崇神天皇は,「天照大神」に豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)をつけて,倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭る。これをきっかけに,「天照大神」の流浪が始まる。

 垂仁天皇の時代に,「倭姫命」によって,やっと,伊勢に鎮座する。

 「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ」(垂仁天皇25年3月)。

 こうして,伊勢の五十鈴川の川上に鎮座した。
 いわゆる,伊勢神宮の縁起譚だ。

 崇神天皇の時代にすでに「天照大神」が祭られ,垂仁天皇の時代に伊勢に鎮座したのだから,それよりはるか後代の日本書紀編纂時に「天照大神」が紀伊国にいたとかいう誤解は,あり得ないのではないか。

 考えてみれば,神武紀にも「天照大神」が登場するではないか。
 その後も,「天照大神」は,何度も登場する。
 壬申の乱の初期に,天武天皇が「望拝」した神は,「天照太神」だった(天武天皇元年6月)。

 一応,こう考えることもできる。


「則ち天照大神の始めて天より降ります處なり」の解釈

 しかし,その垂仁紀には,わけのわからぬ「叙述」がある。

 上記した垂仁天皇25年3月の「叙述」の直後に,こうある。

 「故(かれ),大神の教の隨(まにま)に,其の祠を伊勢國に立てたまふ。因りて齋宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります處なり」(垂仁天皇25年3月)。

 「其の祠を伊勢國に立てたまふ」というのは,伊勢神宮の内宮である。
 それが,「天照大神」が初めて天降った場所だというのである。

 このお話は,崇神天皇が,なぜか突然,「天照大神」と「倭大国魂」を,「天皇の大殿の内に」,「並祭」していたことが,出発点だった。

 その,崇神天皇がいつき祭っていた「天照大神」は,決して,伊勢の「祠」から分祀された神ではない。

 「則ち天照大神の始めて天より降ります處なり」という「叙述と文言」からすれば,それまで「天照大神」は,降臨していなかったのだ。

 だから,「豊鍬入姫命」や,その後の「倭姫命」が持って歩いた「神」は,「天照大神」ではない。単なる「日神」である。

 その日神が,「倭姫命」によって伊勢に鎮座させられ,その後,晴れて「天照大神」と呼ばれたにすぎない。


日本書紀における固有名詞の使い方

 その,「その後」がいつ頃のことなのか。

 「文言」は大切だが,たんに「天照大神」が出てきたからといって,安心はできない。

 なぜなら,日本書紀編纂者は,地名や神名について,当時どう呼ばれていたかまではきちんと叙述していない面があるからだ。

 上記したとおり,崇神紀,垂仁紀の「天照大神」がそうだった。

 神武紀の「天照大神」も,そうである。

 日本書紀編纂当時に「天照大神」であれば,「後世,天照大神と呼ばれる神」というくらいの感覚で「天照大神」という文言を使っている側面がある。

 たとえば,後世「筑紫国」と呼ばれた地域であれば,平気で「筑紫国」と呼んでいたりする。
 神代の物語に,平気で,「新羅国」が登場する。

 だから私は,上記した崇神天皇,垂仁天皇時代以降の物語の「天照大神」は,「日神」と読むべきだと考えている。

 その「日神」が,いつ,「天照大神」に変換していったのか。それが問題だと考えている。


神功皇后摂政元年2月のアマテラスは皇祖神ではない

 少なくとも,神功皇后の時代は,皇祖神としての天照大神はいない。
 神功皇后摂政元年2月。崇神天皇や垂仁天皇の,あとの時代の話だ。

 新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生む。そしてヤマトに帰ろうとする。しかし,カゴ坂皇子と忍熊皇子は,これを阻止しようとする。皇后の子と妃の子との政権争いだ。

 難波を目指した神功皇后の船は先に進めない。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占った。

 アマテラスは,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言う。
 広田国に戦いの拠点を置けという意味なのだろう。

 稚日女尊は,活田長峡国(いくたのながおのくに)に居たいと言う。
 事代主神は,長田国(ながたのくに)に祭れと言う。

 表筒男,中筒男,底筒男の3神は,わが和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居らしむべしと言う。

 ここに政治の拠点を置けという意味なのだろう。司令塔を置けという意味なのだろう。

 これら諸神の言うがままに祭ったところ,神功皇后は平安に海を渡ることができた(神功皇后摂政元年2月)。

 アマテラスは,他の,稚日女尊,事代主神,表筒男・中筒男・底筒男の3神と同列だ。最後の切り札ではない。

 神功皇后は,アマテラスを皇祖神として仰いでいないのである。
 皇祖神でもない「天照大神」は,単なる「日の神」だったのであろう。


天武天皇と天照大神

 さて,問題は,壬申の乱時の天武天皇である。

 「朝明郡の迹太川(とほかは)の邊(へ)にして,天照太神を望拜(たよせにをが)みたまふ」。

 たったこれだけ。

 皇祖神としての「天照大神」なのか,伊勢にいる「天照大神」なのか,さっぱりわからない。

 それまでの日本神話や,崇神紀,垂仁紀の「叙述と文言」をそのまま受け入れると,何となく,天武天皇も「天照大神」(と言われていたのかは定かではない。日神だったかもしれない。)を信じていたのだろうな,と思われる程度である。

 そして,晴れて壬申の乱に勝ち抜くと,この時の感謝の気持ちを込めてか,

 「大來皇女(おほくのひめみこ)を天照太神宮(あまてらすおほみかみのみや)に遣侍(たてまだ)さむとして,泊瀬齋宮(はつせのいつきのみや)に居(はべ)らしむ。是は先づ身を潔めて,稍(やや)に神に近づく所なり。」となる。

 伊勢神宮に奉仕させるのは,この時から始まる。

 しかしこれが,皇祖神としての,現在いう「天照大神」だったかどうか。
 たんに,伊勢にいた「日神」を崇拝し始めただけだったのではなかろうか。

 結局のところ,720年という時代に,日本書紀編纂者は,天石窟=天照大神=伊勢の大神という図式を証明するのに,躍起になっていたのだから。


天武天皇の時代にアマテラス神話が形成されたという説

 前述したとおり,天武天皇の時代に,アマテラスを皇祖神とする日本神話が形成されたという説がある(溝口睦子・アマテラスの誕生・岩波新書,180頁など)。

 しかし,日本神話の公権的公定解釈である日本書紀は,アマテラス神話を語っていない。

 政府の公文書が,日本神話の編纂過程で,天照大神,紀伊国の日前神,伊勢の大神,日神の関係に悩んでいるのだ。

 天武天皇が生きた時代に,アマテラス神話が朝廷神話として形成されていたのであれば,日本書紀編纂者が悩むことはなかったであろう。


古事記はやはりいい加減である

 ここまでくると,やはり古事記のいい加減さを論じなければなるまい。

 古事記ライターは,天石窟=アマテラス=伊勢の大神=皇祖神という図式を,当然の前提としている。何も悩んでいない。

 しかも古事記は,アマテラスを,タカミムスヒと並立した命令者にしようとしている(きちんと描けてはいない)。

 日本書紀編纂者は,古い伝承に忠実だ。
 その検討の根拠が,異伝である一書に残されている。
 矛盾や離れ業を承知で,編纂せざるを得なかった。
 それを正直に残している。


古事記は本当に古い書物なのか

 通説によれば,日本書紀が成立したのは720年。古事記が成立したのは712年。日本書紀に先立つこと8年。

 8年の違いなど,じつは何の意味もない。8年などあっという間だ。国家的プロジェクトは,今でさえ10年,20年単位で行われる。
 当時は時間の流れがはるかに遅かったはずだ。流行や思潮の変化も,行政の仕事の速度も,はるかに遅かったはずだ。

 だから,8年を隔てた日本書紀も古事記も,同時代の書物だったはずだ。

 古事記は,天石窟=アマテラス=伊勢の大神=皇祖神という図式を,なぜここまで平然と主張できたのだろうか。
 なぜ,タカミムスヒとの並立神という位置づけができたのだろうか。

 日本書紀に残された「極めて危うい関係」の2神が,のちのち並立神に変化することはあり得る。
 しかし,並立神が別れて,「極めて危うい関係」になることはない。

 だから,古事記 → 日本書紀という変化は,あり得ない。

 それとも,そもそものはじめから,2神について,「極めて危うい関係」という伝承と,並立神という伝承と,2つあったのだろうか。

 古事記は,何の疑問もなく平然と,天石窟=アマテラス=伊勢の大神=皇祖神という公式を当然の前提とするばかりか,皇祖神タカミムスヒと対等な神であると主張してやまない。

 古事記という書物は,日本書紀編纂者が直面した悩みや矛盾が,とうの昔になくなって,天石窟=アマテラス=伊勢の大神=皇祖神という図式をそのまま信じればよかった時代の産物ではないだろうか。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・日本書紀のまとめ

 日本書紀では,アマテラス神話は確立していない。日本書紀編纂者は,720年の頃,天石窟=アマテラス=伊勢の大神=皇祖神という図式を,証明しなければならなかった。

 神武天皇以後,「天照大神」が登場するが,垂仁天皇25年3月の「則ち天照大神の始めて天より降ります處なり」という「叙述と文言」からすれば,崇神天皇の時代に天より降って,「大殿」でいつき祭られ,垂仁天皇の時代に伊勢に鎮座したという伝承は疑わしく,それは単なる伊勢の「日神」神話にすぎず,伊勢の「日神」が,いつ「天照大神」になったかを,改めて問わなければならないのであった。

 そして,天武天皇の時代においてさえ,そこに出てくる「天照太神」(大ではなく太である)が,皇祖神として,現在信じられている天照大神そのものであったかどうか,疑わしいのであった。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・復習と問題提起

 第7段における日本書紀編纂者の悩みを図示すると,こうであった。

天石窟伝承=天照大神  ――→ 紀伊国の日前神(第1の一書)!

天石窟伝承=日神,小瑕(第2の一書)
         ↑
         ↓
         小瑕 ――→ 伊勢の大神

 いわゆる「天照大神」は「紀伊国の日前神」であり,「伊勢の大神」は単なる「日神」であり,「小瑕」によってつながっているにすぎなかった。

 天石窟伝承が「天照大神」の話だという伝承は,「伊勢の大神」ではなく「紀伊国の日前神」という伝承が一方にあって,伊勢の大神=天照大神とは断定できなかった。

 「伊勢の大神」が,当然,天照大神であると考えていたならば,日本書紀編纂者は,「其の瑕(きず),今に猶存(うせず)。此即ち伊勢に崇秘る(いつきまつる)大神なり」などと,特筆大書することはなかったであろう。

 ところで,「伊勢の大神」は,本当に,「天照大神」だったのであろうか。
 こんな疑問を呈するのは,皆がこれを信じてから1300年もたった今となっては,愚問かもしれない。
 しかし,日本書紀編纂者は,720年の時点で,悩んでいた。

 古事記は,どうなっているだろうか。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・古事記の神武記と神功記

 これがまた,はっきりしないのである。

 結論だけを言ってしまうと,神話の時代に,さんざん「天照大御神」と言っていたくせに,神武天皇以降はなりを潜めて,「伊勢の大神」になってしまう。

 神話の時代の「天照大御神」を削ってしまうと,よくわからなくなるのだ。

 神武天皇と神功皇后の時代に天照大御神が出てくるのは,仕方がないと言えば言える。

 高倉下が出てくる場面。「己が夢に云う。天照大~・高木の~」。
 これは,国譲りという名の侵略に密接に関係した場面であった。

 また,神功皇后の時代のお話。「是は天照大~の御心。また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大~ぞ」。
 これは,皇祖神ではなく,他の神と対等な,ある1つの神という扱いでしかなかった。

 しかしそれでも,「天照大御神」という「文言」は出てこない。もはや,「天照大神」に格下げだ。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・「伊勢の大神」としか言わない古事記

 問題は,これ以外である。

 先に論じた崇神天皇の時代は,「妹(いも)豐スキ比賣(とよすきひめ)命は伊勢の大~の宮を拜き祭りたまひき」。

 垂仁天皇の時代も,「倭比賣命は伊勢の大~の宮を拜き祭りたまひき」。

 景行天皇の時代のヤマトタケルは,「故,命を受けて罷り行でましし時,伊勢の大御~宮に參入りて,~の朝廷を拜みて,すなはちその姨(おば)倭比賣命に白したまひけらくは」。

 継体天皇の時代は,「次に佐佐宜(ささげ)王は,伊勢~宮を拜きたまひき」。

 以上である。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・日神からアマテラスへ

 みな,「伊勢の大~」である。

 さんざん,「天照大御神」と言っていたのに,なぜ堂々と「天照大御神の宮」と言わないのか。伊勢の「天照大御神」を拝むと言わないのか。

 「天照大御神」,「天照大御神」と言っていた,古事記の神代の話は,じつは,単なるイデオロギーにすぎない。
 神代の話を否定する,戦後の学者さんたちの頭を借りれば,そうなるはずである。

 思考実験をしてみよう。一度でいいから,頭の中にある,「古事記の神代」ファイルを削除してみよう。
 それが,進歩的な学者さんたちの望むところだったはずだ。

 もちろん,「日本書紀」ファイルも,削除するのだ。

 すると,「伊勢の大神」と「天照大御神」は,まったくつながらなくなる。

 つながると考える人は,削除という思考実験に失敗した人だ。

 口では,神代の「天照大御神」を否定していても,それが頭にこびりついていて,「伊勢の大神」=「天照大御神」と考えてしまう。

 実際のところは,「伊勢の大神」という「日神」がいたにすぎないのだ。


「伊勢の大神」は「天照大神」か・神話から歴史学へ

 その「日神」が,いついかなる事情で「天照大神」に変貌し,さらに「天照大御神」に変身していくのか。

 これこそが,歴史学のなかで,問われなければならない問題なのである。

 その意味で,日本神話は歴史学になりうる。
 それは,宗教と律令国家と信仰との関わり合いである。

 このように考えると,「天照大神が伊勢に鎮座するに至ったのは,宮廷の祖神としてその神威を天下に光被せしめようとするもので」という学者さんの意見(西郷信綱・古事記注釈・第5巻・筑摩書房,233頁)は,あまりにも素朴で,あまりにも普通すぎて,あまりにも脳天気に思えてくるのである。

 


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第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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