日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さてここで,主に日本書紀の「叙述」にしたがって,国譲りという名の侵略と天孫降臨を振り返ってみよう。 なぜ,出雲が狙われたのだろうか。 それはやはり,「当時」ここが葦原中国の中心だったからだ。ヤマトのみならず,大八洲国に広がった出雲神話の,本拠地だったからだ。 「当時」というのがいつのことかは,不明だ。 これについては,すでに,「日本神話の構造と形成過程」として述べておいた。 ここでは,若干,補足しておこう。
中国や朝鮮の文化が渡来人と共にやってきて,伝播していったルートには,2つある。 1つは,北九州に上陸して瀬戸内海を通っていくルート。これは「百済ルート」といわれている。 もう1つは,直接出雲あたりに上陸して,若狭,北陸,新潟方面まで沿岸沿いに進むルートだ。これは,「新羅ルート」といわれている。 たとえば,同じく仏教の伝播といっても,このルートとの関連で,新羅仏教か,百済仏教かという違いがある(朝鮮と古代日本文化・司馬遼太郎,上田正昭,金達寿編・162頁以下・中央公論社)。
出雲は,新羅ルートの要衝の地であり,新羅文化が直接入ってきていた。 これに対しヤマトは,「百済ルート」の終点に位置する。 しかし,日本書紀と古事記の叙述上,ヤマトが中心となるのは,神武天皇の「東征」以降だ。 そしてその時,ヤマトには,すでにオオナムチがいた。 だからそれ以前は,「新羅ルート」が中心だったことになる。
前述したとおり,オオナムチは,天の下,すなわち葦原中国を平定して出雲に戻ってきた。 それは,天の下を支配し,オオナムチをいつき祭る人々が,ヤマトの地にいたことを示す。 新たにヤマトに本拠地を置こうとする人々は,オオナムチという神との対決を避けて通ることができない。それは,目の前の三輪山にいるオオナムチであり,本拠地,出雲にいるオオナムチだった。 だからこそ,このオオナムチをはじめとした,出雲の神々を,「神話の表舞台」から退場させるために,「国譲りという名の侵略」という神話が必要だった。
しかし,「国譲りという名の侵略」という神話は,しょせん,虚構である。イデオロギー上の操作である。頭の中で作ったお話にすぎない。 それが証拠に,「現実問題としては」,ヤマトにいるオオナムチと血縁関係を深めたにすぎないではないか。 神武天皇は,コトシロヌシの娘,姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)を「正妃」にした(神武天皇即位前紀庚申8月)。 神武天皇が吾田にいたときの妻は,「日向国の吾田邑の吾平津媛」だった。 この姫がどうなったのか,日本書紀の叙述上,まったくわからない。行方不明になってしまう。
それどころか,吾田の吾平津媛(あひらつひめ)との間の子,手研耳命(たぎしみみのみこと)は,神渟名川耳尊(綏靖天皇)によって暗殺される(これは暗殺であり叛乱ではない)。 一方,神武天皇には彦五瀬命,稲飯命,三毛入野命の,吾田における3人の兄がいたが,いずれも戦死したことになっている。 だから,神武天皇の系図上,南九州の僻地,吾田の血筋は,見事に途絶えることになっているのだ。
吾田は忘れ去られた。 いや,もしかして,忘れ去りたい出自だったのではないか。 残ったのは,出雲の神,コトシロヌシの娘との系譜だけだ。これをとっかかりに,華麗な系譜が語られる。 一方,南九州の吾田は忘れ去られ,むしろ,景行天皇などによる征伐の対象となる。 日本書紀は,こっそりと,天皇の出自の秘密を語っている。
古事記によれば,天孫ニニギの長男が火照命であり,「此は隼人吾多君の祖」とされている。 吾多は,南九州の「薩摩国吾多郡吾多郷」であり,私は,南九州の西海岸だと考えている。この隼人は,天孫ニニギが「国まぎ」の末たどり着いた場所,事勝国勝長狭が国を献上してくれた場所の住人だ。 その「吾多隼人」が,ヒコホホデミの「奴僕」となり(第10段第2の一書),犬の遠吠えをこととして,天皇を警護する「近習」となる(履中天皇即位前紀)。 そして,「奴僕」であり,犬の遠吠えをこととする吾多隼人が,よりによって,大嘗祭にあたっては,「隼人舞」を披露する。 結論めいたことはまだ言えないが,私は,「神武東征」に付き従った地元民だったと考えている。 歴史的事実とまでは言えないが,少なくとも,日本神話における「神話的事実」としては,そうした位置づけなのであろう。 ただ,吾多を忘れたい天皇は,隼人を,あくまでも「下僕」のような扱いをした。しかし,大嘗祭という,天皇即位の儀式には,「神武東征」という,天皇家発祥の時から付き従った人々として,特別な扱いをしたのである。 それは,「今」でも,古くからの家来が付き従っているという,パフォーマンスであったろう。 現実には,隼人の反乱などがあったが。
さて,神武天皇以下の天皇は,コトシロヌシの血をひいた姫を娶っている。 神武天皇は,ヤマトを支配してから,早速,正妃を迎える。それが,コトシロヌシの娘,姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)だった。 その,姫蹈鞴五十鈴姫命は,神八井耳命と神渟名川耳尊を生む。神渟名川耳尊は綏靖天皇になる。 その綏靖天皇は,姫蹈鞴五十鈴姫命の妹,五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后とする。 こうして,コトシロヌシの血が濃くなる。
五十鈴依媛は,安寧天皇を生む。 その渟名底仲媛命は,懿徳天皇を生む。 これは,安寧天皇と渟名底仲媛命との子,息石耳命の娘だ。やはりコトシロヌシの血をひいていることになる。
このように,神武天皇以下,懿徳天皇までは,すべてコトシロヌシの血をひいた女を皇后にしているのだ。 出雲国を現実に武力侵略し,支配したのであれば,こんなことをする必要はない。 オオナムチは,すでにヤマトの三輪山にいた。神武天皇がヤマト入りする以前の,神話の時代に,すでにいた。 だからこそ,その人々と血縁関係を深めることによって,支配者たり得たのだ。
だからこそコトシロヌシは,神功皇后を助ける神である。決して敵ではない。 神功皇后は,仲哀天皇が神の意思に逆らって死んだ後,その神の名を知ろうとする。 神功皇后は,反逆の女帝だ(以下,「神功記を読み解く」を要約する)。 夫仲哀天皇が死んだとき,応神天皇は胎児にすぎなかった。だから,本来ならば,そこで皇位継承問題が生ずるはずだ。 ところが神功皇后は,仲哀天皇が死んだことを隠し,殯(もがり)を秘密に行い,皇位継承問題を無視し,新羅征討を行って勢いをつけ,ヤマトに凱旋しようとした(もちろん叙述上のことであり,歴史的事実とは別問題だ)。 新羅を討った神功皇后は,筑紫の地で応神天皇を生む。そしてヤマトに凱旋しようとする。しかし,ヤマトにいた仲哀天皇の妃(みめ)との間の子,カゴ坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は,仲哀天皇が筑紫で死亡したことを聞き,これを阻止しようとする。 当然だろう。 こうして,皇后の子と妃の子との間で,皇位継承を巡る争いが始まる。
難波を目指した神功皇后の船は,先に進めなくなる。そこで,務古水門(むこのみなと)に帰って神の意思を占った。 アマテラスは,わが荒魂を神功皇后の身辺につけてはならぬ,広田国(ひろたのくに,現在の兵庫県西宮市)におらしめよと言う。 これら諸神の言うがままに祭ったところ,神功皇后は平安に海を渡ることができた(神功皇后摂政元年2月)。進軍できたのだ。 コトシロヌシは,皇祖神とされるアマテラス,ワカヒルメ,住吉3神と共に現れ,神功皇后を助けたのだ。祭る場所を指定したのは,それが軍事上の要衝だったのだろう。 コトシロヌシは,決して天皇の敵ではない。ここでは,アマテラスと共に,皇統を庇護する神とされているのだ。
私が言いたいことは,以下の一点だ。 出雲を狙ったって言っても,そうなっていない。むしろ,出雲と融和してるじゃないか。 ただ,観念の上では,ヤマトを征服していた出雲の神々を,神話の表舞台から退場させなければならない。 そのために, @ 「誓約による神々の生成」場面を描いて「正当性の契機」という仕掛けを作り(第6段), A 縄文系のスサノヲが弥生系のアマテラスに反逆するという場面を作って「侵略の理由」を作り(第7段), B アマテラスの弟スサノヲが国の基礎を作り,その子孫オオナムチが天の下を作ることにより,「侵略の対象たる葦原中国」が用意され(第8段), C 国譲りという名の侵略で,出雲系の神々が,めでたく日本神話の表舞台から退場し,素戔鳴尊が天上界に残した別系統の子の子孫が支配者に成り代わる(第9段)という, 手の込んだ,「壮大なる血の交替劇」を作ったのである。 それがヤマトの政権が作った神話である。 神武天皇が,原初的な神話を背負って,南九州の吾田から「東征」したあと,付け加えた神話である。 こうして,出雲神話が取り込まれ,都合の良いように合体させられて,日本神話として完成する。 これが,「日本神話の形成過程」だ。
なぜ出雲に天孫降臨できなかったのか,なぜ降臨場所は南九州(人によっては北九州)なのか,という問題にも答えておかなければならない。 敵の本拠地,出雲を平定したのなら,ここに降臨するのが当然であり,筋だ。敵の本拠地を叩いて,そこに将軍が凱旋し,そこを拠点にするのが,軍事の常識だ。 敵の本拠地を叩くから,敵の戦意は喪失し,降伏する。あとは,ゲリラ戦までやるかい?という問題となる。 第9段の一書や古事記は,五部神や五伴緒を伴った天孫降臨だの,天壌無窮の神勅だのと,華々しくもにぎにぎしい,荘重な天孫降臨を描いている。 そうした勇ましい天孫が,なぜ武力で平定した出雲に降らないのか。なぜ五部神や五伴緒を伴って,出雲を堂々と凱旋行進しないのか。 学者さんが言うように,「出雲侵略の歴史的記憶」が反映されているのなら,すなわち歴史上本当にあったお話ならば,それを高らかに叙述すればいいじゃないか。 それができていない。
「叙述と文言」を,詳しく見てみよう。 タカミムスヒは,可愛い皇孫ニニギを立てて,「葦原中国の主(きみ)」にする決断を下した。天孫降臨はそのために行われたはずだ。 実際に出雲に派遣されたフツヌシとタケミカヅチは,オオナムチに対し,「高皇産霊尊,皇孫を降しまつりて,此の地に君臨はむとす(きみとしたまはむとす)」と述べ(日本書紀第9段本文),自分たちがやってきた理由を述べている。 オオナムチに対し,「皇孫がここに降臨するつもりである」と,はっきり言い切っているのだ。 「叙述と文言」も,「此の地に君臨はむとす」などと言っている。出雲への降臨を示唆している。 なのに,なぜ出雲に降臨しないのか。
その答えは,もう出ている。 簡単に言えば,「天孫降臨」は神話の原型に属する伝承だったのに対して,「国譲りという名の侵略」は,「壮大なる血の交代劇」を語る,新しい神話だったから,ということになる。 この2つの神話の間には,日本神話の形成過程において,乗り越えられない断層があったのだ。 私は,これを,「国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層」と呼んでおきたい。 以下,復習を兼ねて,まとめておこう。
「天孫降臨」神話は,九州にいる「日の神」が,天孫を伴ったタカミムスヒが朝鮮からやってくるのを迎えたように,原初的な神話であった。 「産霊」こそが,カイコと桑と五穀を生んだ原動力であった(第5段第2の一書)。 一方,五穀を生んだウケモチノカミの身体の各部と五穀との間には,朝鮮語で初めて解ける音韻対応がある(第5段第11の一書)。 要するに,タカミムスヒは,五穀と養蚕という弥生文化を携えて,朝鮮からやってきたのである。 そのタカミムスヒは,すでに壱岐や対馬に進出して,「天地を鎔ひ造せる功有する」神として,列島でいつき祭られていた「日の神」や「月の神」の,「我が祖(みおや)」とされていた(日本書紀顕宗天皇3年)。 こうしていよいよ,タカミムスヒは,「宗像三神」を露払い役として,「天孫」と共に,筑紫洲に上陸する。
日の神が,宗像三神を「筑紫洲」に天下らせて,「道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ。」と命令した(第6段第1の一書)。 「宗像三神」を天降らせた場所は,「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」。それは「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあった(第6段第3の一書)。 「日の神」,すなわち,後代いうところのアマテラスは,すでに筑紫洲にいて,朝鮮からやって来る「天孫」を迎えたのだ。そのために,宗像三神を鎮座させたのである。 筑紫に上陸したタカミムスヒが,南九州の吾田に行き,そこにいた日の神(後年のアマテラス)と混交していったことは,すでに述べた。
「天孫降臨」は,こうした,日本神話の原初的伝承であるから,やはり,伝承どおり,南九州に降臨しなければならない。それを動かすことはできない。 だから,出雲侵略と言いながら,実際には,出雲に天孫降臨しないのである。叙述上,できないのだ。 要するに,古来の神話伝承(天孫降臨)と新しく作り出された神話伝承(国譲りという名の侵略)が継ぎはぎされているから,こうした問題が生ずるのだ。 私は,これを,「国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層」と呼んでおこう。
以上述べた意味で,「国譲りという名の侵略」伝承は,しょせん,虚構である。 たとえば,神武「東征」の,「東征」ともいうべき戦いの記録は,どこにもない。 だから,これは,「東征」とは言えない。 これと同じだ。 日本書紀編纂者を始めとして,幾多の伝承を残した者たちは,戦いの叙述を残すことができなかった。 神代の世界の話でも,書いてはならないことと,書いてもよいことがあったはずだ。 出雲に天孫降臨できず,凱旋の叙述さえないということは,国譲りという名の侵略は,虚構だったということだ。
南九州に降臨した天孫は,何もない荒野(いわゆる「膂宍の空国」)をさまよった末,吾田地方にたどり着き,そこで事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)という1人の人に出会う。 他に人は出てこない。街も宮も出てこない。 その地で,突然,何の理由もなく国を献上される。 驚くべきことに,天孫ニニギが行ったことは,たったこれだけである。にぎにぎしくも華々しい天孫降臨の結果が,たったこれだけ。 ただ,古事記だけは,降臨した地に立派な宮を作ったと述べている。 それだけ。 なぜ,こんなにも寂しい結果しか叙述できなかったのか。
天孫ニニギが作った3人の子供のうち,2人が,いわゆる海幸彦・山幸彦だ。ここで,海神の宮訪問のエピソードなどが挟み込まれる。 こうして,神代の物語は幕を閉じる。 結局,神代の時代には,葦原中国の支配は実現されなかった。日本書紀第9段第1の一書の,「天壌無窮の神勅」など,結局,なーーーんにも実現していない。 にぎにぎしくも華々しい「天孫降臨」。しかも,「天壌無窮の神勅」。あそこは,おまえが支配すると,定まっているところなのだよ。 なぜ,「天壌無窮の神勅」が実現されなったのか。
場面は転じて179万2470年後の吾田。 神武天皇は東征して,ヤマトを征服するが,それは,天孫降臨後179万2470年後のことだった。 神武天皇が「天壌無窮の神勅」を実現するから,話は通ってるって? 冗談じゃない。 すでに述べたとおり,天孫降臨と神武東征との間には,もはや相当因果関係がない。社会通念上の因果関係がない。 こんな,こ難しいことを言わなくても,誰にだってわかる。 「天孫降臨」と「神武東征」とは,もはや,まったく関係のない出来事なのだ。
東征した神武天皇は,結局,天の下全部を支配することはできなかった。 支配した範囲は,ヤマトのうちの,ごくごく一部でしかない。 支配領域は,ヤマトのうちでも,ごくごく狭い一部でしかなかったのだ。 やはり,「天壌無窮の神勅」は果たされていない。
さて,「国譲りという名の侵略」は,出雲の神々を「神話の表舞台」から退場させるための,単なる,観念の上での征服なのであった。 では,実際の出雲国は,どのように屈服したのか。 神武天皇の後,いわゆる欠史8代を経て,崇神天皇の時代になる。 その崇神天皇は,各地に,いわゆる四道将軍を派遣した(崇神天皇9年9月)。大彦命を北陸に,武渟川別を東海に,吉備津彦を西道に,丹波道主命を丹波に派遣した。 ということは,この時期には,吉備さえも平定されていなかったのであろう。 出雲は,まだまだ独立国だったようだ。
崇神天皇60年7月は,いろいろな角度から検討されており,有名な部分だが,ここにはいろいろな問題が詰まっていて,それを読み解いていくのは,かなり面白い。 以下,検討してみよう。 崇神天皇は,群臣に詔(みことのり)する(天皇がしゃべる言葉はすべて詔だ)。 これを見たい。
まず,出雲の臣の祖神,「武日照命」が,「天より将ち来れる神宝」としている点がすごい。 武日照もまた,天から降臨した伝承をもっている人々の長だったのである。 天皇に連なる系譜だけが貴かったのではない。 そんな家系は,神武天皇「東征」のあとの「当時」,たくさんあったのである。
天から持ってきた神宝は,いわゆる「三種の神宝」をキャッチフレーズにする,天皇家だけのものではなかった。 それが,人によっては歴史的事実と認める崇神天皇の時代でさえ,出雲の大神を祭る神社にあり,人々が尊崇していた。 じつは,神武天皇に先だって河内に天下り支配したという伝説をもつニギハヤヒ(饒速日命=にぎはやひのみこと)も,天からもってきた神宝を持っていた。 神武天皇自らが,それを認めている。 「天羽羽矢(あまのははや)」と「歩靫(かちゆき)」が,それだ(神武即位前紀戊午12月)。 これもまた,1つの王統の証明だった。
時代は下るが,允恭天皇の時代に,氏姓の秩序を改めたという叙述がある。 その原因は,群卿(まえつきみ),百寮(つかさつかさ),国造らが,皆それぞれ,「或いは帝皇(みかど)の裔(みこはな),或いは異(あや)しくして天降れり」と主張したので,氏姓の秩序が混乱したという点にある。 当時の人々らが,皆勝手に,天皇の子孫とか,「異しくして天降れり」とか,主張していたのだ。そこで盟神探湯(くがたち)をして,氏姓を正したという(允恭天皇4年9月)。 天から降ってきた証拠も,「三種の神宝」だけではなかった。 私たちは,その中で,支配者として生き残った者たちの伝説を読んでいるにすぎない。
話を戻そう。崇神天皇は,その神宝を見たいという。 大人から見れば,しょうもないガラクタかもしれないが,それを見せるとオオーッと言われる。場合によっては馬鹿にされるかもしれないが。 とにかく,自らの出自を証明する,ありがたい宝物があるということが,氏族の優越性の証明だった。 崇神天皇60年7月には,崇神天皇とても簡単には見られなかった神宝が語られているのだ。 その前提となるのは,ヤマトの政権と出雲国とが対等であり,それまでは,服従,被服従という関係になかった,という事実だ。
さて,結局,出雲の神宝はヤマトの政権に奉られた。 神宝を司っていた出雲振根(いずものふるね)が,たまたま「筑紫国に往りて(まかりて)」,留守にしていた。 「筑紫より還り来き(もうき)」た出雲振根は,何を恐れてそんなにたやすく神宝を差し出してしまったのかと言って,腹を立てる。 この恨みが原因で,結局,出雲振根は飯入根を殺した。これを聞いたヤマトの政権は,内紛に乗じて出雲振根を殺した。 問題は,こうした,物語のあらすじではない。 出雲振根は,ちょっと出かけてくる,というような感じで「筑紫国」に行き,帰ってくる。 前述したとおり出雲は,崇神天皇の時代に服従するまで,ヤマトの政権と対等で独立した政治権力だった。 その向こうの筑紫国には,出雲国から自由に通行できた,という叙述なのだ。
だから,筑紫国は,長い間出雲国の支配圏だったのである。 こうなると,いわゆる九州王朝説も,怪しくなってくる。 ヤマトの政権とは別に,九州独自の王朝があったという考え方がある。 日本書紀の「叙述と文言」からすれば,むしろ,出雲国が「筑紫国」を支配していたと考えるべきだ。 また,「筑紫国」すなわち北九州地方が出雲の支配下にあり,オオナムチが支配していたとするならば,天孫降臨北九州説は成り立たなくなる。
出雲振根が出かけていた「筑紫国」が地図上のどの範囲であるかは,はっきりしない。 日本書紀編纂者は,編纂当時の知識で「筑紫国」と叙述していることがあるし,ここでも,「筑紫国」と言っておきながら,その次の行では,「筑紫」と叙述しているからだ。 神代の巻第4段では,「筑紫洲」とある。地名については用語が一貫していない。 それはともかく,ここで初めて出雲が平定されたことになるのだろう。 じつは,第8段第4の一書に,スサノヲが新羅国に天降ったという叙述が出ている。前述したとおり,新羅の神スサノヲが,出雲にやって来たのであった。 出雲は,その地理的位置からして,ヤマトなどよりはるか以前から,朝鮮半島と交易してきた。その経路は,直接新羅にいく方法と,筑紫から朝鮮半島に渡る方法とがあった。
出雲が平定され,それに伴って筑紫も平定されたからこそ,朝鮮半島との交易が可能になったのだろう。 崇神紀の最後では,任那が朝貢してきたこと,任那は筑紫国から2千余里のかなたにあること,新羅の西南にあることを述べている。 すなわち,それまで認識していた新羅とは,異なる路程上の国であると述べている。そして,崇神天皇の死亡記事を簡単に記載して終わっている。 この部分は,極めて象徴的だ。 さらに次の天皇,垂仁天皇の時代には,相撲の起源で有名な,出雲の「野見宿禰(のみのすくね)」が出てくる。 もはや出雲は,支配領域である。
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