改訂新版へのあとがき
「叙述と文言」だけで,遂にここまで来た。
日本神話について何も知らなくても,日本書紀と古事記のテキストだけで,ここまで考えて,自分の意見を言える。
いわゆる古事記学者さんや神話学者さんたちが,「物語を読み取る」という側面において,いかに役に立たなかったか。
「叙述と文言」を無視した,アカデミックな読み方に,いかに力がなかったか。
文献自体の力。それが,おわかりいただけたと思う。
この原稿の表題は「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」だが,本文を読めばおわかりのとおり,その目的は「古事記神話を笑う」というよりも,物語読者として,「日本神話を解明する」という点にある。
だから,改訂新版に際して,副題を付けた。
日本神話を特別に勉強しなくても,「叙述と文言」だけで,いろいろな問題に気付くことができるし,解明もできる。
その大前提として,「古事記神話」に対する特殊な態度を,一度捨てなければならない。
それも,おわかりいただけたと思う。
かなりのことが解明できたと思う。
日本書紀で言えば,第1段から第10段までがなぜあるのかという,日本神話の体系的理解。各段は,有機的に結びついており,いずれも必須であった。
朝鮮からタカミムスヒがやってきて,吾田にいた日の神(のちのアマテラス)と交わり,神武天皇とともにヤマトに行き,ヤマトの三輪山にいたオオナムチ(オオクニヌシ)と出会った,日本神話の歴史的成り立ち。
その,吾田における混交を語り,天皇の出自を語る日向神話。
それら日本神話の,大前提としての,偉大なる出雲神話とオオナムチ。
これらが解明されたことにより,いわゆる「高天原」神話,日向神話,出雲神話が,有機的,立体的に理解できるようになった。
そしてまた,タカミムスヒとアマテラスの関係,アマテラスとスサノヲによる「誓約」の問題など,数々の個別論点が解明できた。日本神話における縄文と弥生の交錯,朝鮮との関係,・・・。
これらはすべて,日本書紀と古事記の「叙述と文言」に根拠がある。
私は,その根拠を,すべて明示しておいた。
日本神話を読むのに,特別な「お勉強」は不要である。
誰にでも読める。理解できる。
だから私は,これからは「日本神話の森」にさまよい込むことはない。
もはや,日本神話を,格別,高尚なものだとは思わない。
私は,古事記神話を笑い,常識的な日本神話観をぶちこわしたが,新たなストラクチュアもつくったつもりだ。
これからは,ここで解明されたことを前提に,ものを考えていけばよい。
裏を返せば,日本書紀と古事記に残された「日本神話」は,思いのほか豊饒だったということだ。
皇国史観から解放されて,60年以上がたった。なのに,いまだに誰も,この「豊饒」に気付いていないのだが。
やはり古事記は,日本神話の,ある1つの伝承という地位まで,退いてもらわなければなるまい。
日本神話に対する頑迷固陋な観念を脱ぎ捨てて,自由な発想でとらえ直す人が,たくさん出てきてほしいと思う。
その時,日本神話は,その「豊饒な身体」を現すであろう。 |