日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さて,イザナキは,ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)まで逃げてきたのだった。そこで,死者の姿のイザナミが追いつく。ここで,2神の絶縁が宣言される。 これが,「コトドワタシ」の場面だ。 これについても,ヨモツヘグイと同様,まず日本書紀第5段第6の一書の,正確な理解が必要だ。 イザナキは,「千人所引(ちびき)の磐石(いわ)」,すなわち千人かかってやっと引けるような巨大な岩で,ヨモツヒラサカの「坂路」を塞いで,「伊奘再尊(いざなみのみこと)と相向きて立ちて,遂に絶妻之誓建す(ことどわたす)」。 すなわち,イザナミに向かい立って絶縁を宣言するのは,あくまでも男神イザナキである。 それはそうだろう。古代において,女性から絶縁を宣言するなんて,聞いたことがない。 それはともかく,男性から離婚を宣言するからこそ,「絶妻之誓建」なのだ。「絶妻之」の意味は言うまでもない。「誓」は宣誓の「誓」。「建」は建白の「建」だろう。
これに対しイザナミは,いとしいあなたが「如此(かく)言(のたま)はば」,すなわち絶縁だと言うならば,私は,「汝が治す国民,日に千頭縊り殺さむ。」と呪う。 そこまで言うなら・・・。というわけで,離婚に伴う,「決して妥協できない言い争い」に発展するわけだ。 これが,日本書紀が叙述する「コトドワタシ」だ。 @ コトドワタシの本質=離婚の宣言は,「絶妻之誓建」である。 A その後の言い争い(呪いの言葉)は,離婚に伴う付随的事情にすぎぬ。
日本書紀第5段第6の一書のコトドワタシをまとめておこう。 @ イザナキがチビキノイワでヨモツヒラサカを塞いで(世界の断絶), A 男であるイザナキが一方的な「絶妻之誓建」で絶縁宣言をした後(本質), B これに対抗するようなイザナミの呪いの言葉と(付随的事情), C これに対するイザナキの言い返しの言葉が続く(付随的事情)。
古事記はどうなっているだろうか。大事なところなので,読み下し文を引用する。ちょっと大変だが,読んでほしい。 最後(いやはて)にその妹伊邪那美命(いざなみのみこと),身自ら追ひ來たりき。 ここに千引の石(ちびきのいわ)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて,その石を中に置きて,各對(むか)ひ立ちて,事戸(ことど)を度(わた)す時, イザナミ言ひしく,「愛しき我が汝夫(なせ)の命,かく爲(せ)ば,汝の國の人草,一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。 ここにイザナキ詔りたまひしく,「愛しき我が汝妹(なにも)の命,汝(いまし)然(しか)爲(せ)ば,吾一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。 ここをもちて一日に必ず千人(ちたり)死に,一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。 さて,以上の「叙述と文言」を,どう読んだらいいのだろうか。
「千引の石」で路を塞いだのはイザナキなのだろうが,主語がないので,文章としてはっきりしない。 そればかりか,コトドワタシの本質,イザナキからする「絶妻之誓建」がない。あくまでも,「事戸を度す時」というだけだ。 具体的な描写は省略されて,「その石を中に置きて,各對ひ立ちて,事戸を度す時」という,抽象的な描写に終始している。 なまじ日本書紀の知識があると,イザナキが,@「千引の石」でふさいで,A「絶妻之誓建」をしたのだと思い込み,いったい何がおかしいの?ということになる。 しかし,日本書紀を知らない人には,絶対にわからないだろう。 そして,この書き方。 要するに,イザナキがやった有名なコトドワタシ,知ってるだろ,あの時のことだよ,という語り口なのだ。 それを知っていることが,古事記ライターと読者との暗黙の前提となっている。 だから,平気で内容が省略されている。平気で主語がとんでいる。その結果,誰がコトドワタシをしたのか,コトドワタシとは何なのかが,まったくわからなくなっている。 私は,こんなところに引っかかるので,今になっても古事記が読めない。
後述する,日向神話におけるタマヨリヒメ(玉依毘賣)の物語も同様だ。 そこでは,タマヨリヒメの物語は,ここよりも,もっと極端に省略され,「その御子を治養(ひだ)しまつる縁によりて」としか記述がない。 叔母であるタマヨリヒメが御子を養育していたという伝承を知っていることが,古事記ライターと読者との間の,暗黙の前提となっている。 それを知らない者,古事記しか読んだことがないという人にとっては,極めて唐突で,理解できない。
この部分,とても大事なことである。 日本書紀と古事記をいっしょくたにして理解しようとする人,「記紀神話」という言葉を平気で受け入れる人には,この疑問が理解できないだろう。 一度,「記紀神話」という,擦り切れたごった煮とも言うべき「俗説日本神話」を忘れて,この古事記の「叙述」だけを,よく味わってみてほしい。 わけがわからない叙述になっているはずだ。 古事記ライターは,古い伝承を知ってはいた。しかし,それを正確に残すことができなかった。 「ほらあの,この場面ですよ。」という意識で,はしょりながら叙述するのが,古事記である。
古事記を,日本書紀とは異なり,編纂されていない原初的な伝承をそのまま残した書物,ととらえる人が多い。 ならば,古事記の叙述「だけ」を,日本書紀と切り離して分析すると,どうなるか。実際にやってみよう。 「ここに千引の石(ちびきのいわ)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて,その石を中に置きて,各對(むか)ひ立ちて,事戸(ことど)を度(わた)す時」という叙述を,考えてみよう。
A 「その石を中に置きて」,「各」,「對(むか)ひ立ちて」コトドを言いわたしたのだから,イザナキとイザナミは,「千引の石」を挟んで対峙し,男女対等にコトドを渡したのだ。 B でもいったい,コトドワタシって,いったい何だろう。このあと,1日に1000人殺すとかいうのが出てくるから,そのことかな? これが,古事記の「叙述と文言」からの帰結である。
@については,日本書紀第5段第6の一書で補わないと,わけがわからない。これが原初的な伝承とは,恐れ入る。 こういうふうに,古事記だけでは何もわからないのが,古事記なのです。 また,Aについて,古事記ライターは,本気で男女対等のコトドワタシを考えていたのだと思う。 そうでなければ,「各」とは書けない。 まったく,両性対等。日本においては,古代から,女性の権利が守られている。天下太平。安泰,安泰。
いや,コトドワタシの本質が,一方的な「絶妻之誓建」にあることがわかっておらず,古事記ライターは,本当に,1日に1000人殺すという言い争いをコトドワタシと思っていたんじゃなかろうか。 現実に,現代でも,古事記のコトドワタシを,1000人殺すとかの言い争いとして紹介する人々が,たくさんいるからだ。 第5段第6の一書は,イザナキからする,一方的「絶妻之誓建」なのであった。これが本質だ。 これに続いて,イザナミは,そこまで言うのなら・・・というわけで,「汝が治す国民,日に千頭縊り殺さむ。」と,呪いをかけるのだった。 これは,コトドワタシ=離婚に付随する,男女の言い争いにすぎない。コトドワタシの本質ではない。 第5段第6の一書は,そこのところがわかっている。 しかし古事記は,コトドワタシ(離婚)そのものについては,「事戸(ことど)を度(わた)す時」で済ませてしまい,直ちに,付随的な言い争いに話が流れる。 コトドワタシは,1000人殺すとかの言い争いだと誤解している人が多い。
「その石を中に置きて」,「各」,「對(むか)ひ立ちて」コトドを言いわたしたという,古事記の叙述を正確に受け取ると,以上のようになる。 原初的な伝承をそのまま載せているのであれば,なぜこんなにも,わけがわからないのでしょうか。 これじゃあ,伝承になってない。伝承として伝えられないじゃないですか。 これは,私の嫌味ではない。 でも私には,古事記ライターが,信念を持って,「いい加減なままの」原伝承を,そのまま伝えようとしたとは思えない。 だからこそ,主語が曖昧になっているのだ。ついうっかり,「その石を中に置きて」とか,「各」と書いてしまったのだ。 コトドワタシは,イザナキからの一方的な「絶妻之誓建」。その後の呪いの言葉は,「各」自が行った。 この区別が,古事記ライターの頭の中で,きちんと整理されていなかった。しょせん,そんなところだろう。文章を「ばたばたと」作る際,ありがちなことだ。 古事記は,しょせん,リライト版である。
古事記がリライト版というのは,古い伝承を基にリライトしたという意味だ。もしかしたら,日本書紀そのもののリライトかもしれない。 それだけではない。ここには,敬語が巧妙に(というより愚劣に)使われている。 死者の姿になったイザナミは,古事記ライターにとっては,もはや用済みの神だ。だから,「伊邪那美命言ひしく,………といひき。」となっている。 庶民同様の扱いだ。 しかしイザナキは,このあとすぐに禊ぎをして,輝かしいアマテラスらを産まなければならない。まだまだ偉い神さんだ。 だから,「伊邪那岐命詔りたまひしく,………とのりたまひき。」となっている。
一緒に国生みと神生みをした2神が,「言ひしく」と「詔りたまひしく」ですか・・・。 もはや,言葉を失いますね。私は。 古事記ライターは,本当に本当に,ご都合主義の権化である。ライターの風上にも置けない。こんなことをやっちゃあ,お里が知れる。 古事記は,じつはこんな人が書いているのだという事実を,忘れてはならない。 そして,この敬語の使い方ひとつとってみても,古い伝承に,「自由に」手を入れたことが明らかなのである。 ある,口承伝承者らしき者が,「自由に」語った痕跡が,これだ。 しかもその人は,天皇の絶対的権力が確立した後の,身分の上下関係をそのまま受け入れた時代の人ではないだろうか。
さて,古事記によれば,黄泉国と顕し国との間に置かれた「千引の石」によって,イザナミは,顕し国に戻ってこられなくなった。 古事記は,イザナミが「一日に千頭絞り殺さむ。」と呪ったことにより,ヨモツオオカミ(黄泉津大神)になったと述べる。 しかし,ちょっと待ってほしい。 顕し国へ戻れるかどうか,イザナミが話し合った相手は,ヨモツカミ(黄泉神)だったはずだ。 黄泉国には,そこを支配する「黄泉神」が,すでにいたのだ。 なぜイザナミがヨモツオオカミ(黄泉津大神)になれるのだろうか。 すでに「黄泉神」が登場しちゃったから「黄泉津大神」なのかな。だとしたら,ご都合主義の,「自由に創作されたお話」というしかなくなる。 私には,さっぱりわからない。 ちなみに,日本書紀第5段第6の一書では,黄泉津大神は出てこない。
古事記ライターの身になって考えてみよう。 前述したとおり,古事記ライターは,国土の上に,何よりもまず神がいたと言いたかったのだ。だから,国生みがなされた後,直ちに,神生みの叙述に入った。国土のいたる所に神がいて,君たちの日常生活の周りにはこんな神々がいるんだよ,と言いたかった。 「神国日本」を言いたかったのだ。 死の国,黄泉国にも,そこを支配する「黄泉神」がいた。これが,古来の伝承上の神だ。古事記ライターも,それは知っていた。 しかし一方,古来の伝承は,イザナミが「一日に千頭絞り殺さむ。」と呪って,黄泉国に留まったと伝えている。 そこで,国作りをしたイザナミを,それなりの神に仕立て上げねばならない。だから,「黄泉神」の上の「黄泉津大神」にしたのだ。 しかし,「大神」とはいいながら,「詔りたまひしく」ではなく,「言ひしく」だったけれど。
さて,ここで古事記の物語を振り返り,イザナキが黄泉国から逃走した理由を考えてみよう。 一部の人が言う,「夫婦愛の物語」なのであれば,「蛆たかれころろきて」という姿のイザナミを見て,哀れに思うのが普通ではないか。 私はそう思う。 場合によっては,生首さえ胸に抱くはずだ。西洋の小説で,愛人の生首を抱いたというのが,たしかあった。あの題名は何だったか。 ところがイザナキは,そんな感傷などひとかけらもなく,一目散に逃げ帰る。そしてご丁寧にも,黄泉国と顕し国との間を「千引の石」で蓋をして,イザナミが決して現世に来られないようにする。 それだけでは足りないのだろう。追ってきたイザナミに対して,コトドを渡す。 この念の入れ方は,尋常ではない。
私は,日本書紀で初めてこの部分を読んだ時,夫婦愛のかけらもないし,冷たいなあ,と感じた。しかし今では,これでよいのだと思っている。 当時の死は,恐るべきものだった。 老衰による大往生は稀だった。天然痘などの病気や飢饉になると,あっという間に,苦痛と汚穢にまみれて死んでいった。 後世,釈迦如来,大日如来,阿弥陀如来らと並べて,薬師如来が流行したのも,よくわかる。 死を,さなぎから蝶への変化だととらえ,拘束された現世から自由な来世へのメタモルフォーゼととらえる考え方がある。 現実の死は,汚穢に満ち嫌悪すべきもの。それ以外の,何物でもない時代だった。 だからこそ,死を自分の身体から遠ざけようとしたのだ。
話は跳ぶが,アジスキタカヒコネ(阿遲志貴高日子根神=あじしきたかひこねのかみ)は,「死んだ」親友,アメワカヒコ(天若日子=あめわかひこ)に似ていたがゆえに,残された妻たちから,夫がまだ生きていると間違えられる。 アジスキタカヒコネは,「何とかも吾を穢き死人に比(くら)ぶる。」と言って,烈火の如く怒る。 アジスキタカヒコネは乱暴な神だという人がいる。しかしそれは違う。何もわかっていない人だ。 死は単なる汚穢であり,蛆たかる土くれであり,それ以上のものでもそれ以下のものでもなかったのだ。 それは,人生の終わりだ。 イザナキは,黄泉国のことを,「いなしこめしこめき穢き国」と言っている。アジスキタカヒコネと同じ認識だ。 死という穢れの前では,夫婦の愛情など吹っとんでしまったのだ。
この意味では,日本書紀の方が劇的な効果を獲得している。 前述したとおりイザナキは,愛するイザナミに再会し,「共に語る」。その情愛の深さが,この一語に結晶している。 ところが,「膿沸き虫流る(うみわきうじたかる)」イザナミの姿を見て,一目散に逃げ出す。まったく正反対の行動をとる。 そのコントラストがすごい。それだけ,死は恐ろしいものだったわけだ。 ところが古事記ライターは,前述したとおり,黄泉神の許可があれば顕し国に戻れるなどと叙述して,死を不可逆的なものにしなかったために,この劇的なコントラストを曖昧にしてしまった。 古典として,価値が高いのはどちらだろうか。 私は,日本書紀をとる。
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