日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第5 神は死なない(神というもののあり方)


神が身を隠すということの意味

 さて,古事記冒頭部分で次に問題となるのは,「獨神(ひとりがみ)と成りまして,身を隠したまひき」という部分だ。

 古事記ライターは,@,A,C群の,単独の神が身を隠すのであって,Dの男女ペアの神々については,身を隠さないと考えている。

 単独の神は神話上の役割を終え,ペアの神が,これから,国や神を生成していくからである。

 「神が隠れる」とは,どんな事態をいうのか。

 たとえば日本書紀では,国譲りという名の侵略を受けたオオナムチ(大己貴神=おおなむちのかみ。古事記にいうオオクニヌシ)が,永久に身を隠す。

 これは,神としての神話上の役割を終えたから,隠れるのである。


神は死なない

 神は人間ではないから,死なない。しかし,権威を失っていつき祭る人々がいなくなると,神話の表舞台から去る。

 これを,「身を隠す」という。

 オオナムチは,国を譲って,宗教的権威あるいは政治的権威を失ったので,出雲の政治,宗教上の表舞台から去ったのである。

 ただ,少数といえども,オオナムチをいつき祭る人はいるだろうし,人の心の中には残るはずだから,「死」という意味での終末を迎えることはない。

 繰り返すが,その神をいつき祭る人々がいる限り,神はどこかで生き続ける。

 祭政一致の政治体制の下では,政治と神事は対等である。権威を失うなどして,その神事の場,すなわち神託を聞く場から去ることを,神が「去る」,ないし「隠れる」というのだ。いつき祭る人々は消滅しないが,神事という公の場からは消えてしまう。このことを指して,「神が隠れる」というのだ。

 神が「死ぬ」と,平気で書いている学者さんが,たくさんいる。

 これは誤りである。日本神話の根本にかかわることである。


神は死なないという「叙述と文言」上の根拠(その1)

 上記した理屈は,私の偏見ではない。「叙述と文言」上の根拠が,あらゆる所に散らばっている。

 神としての神話上の役割を終えた神は,オオナムチだけではない。スサノヲ(素戔鳴尊)も,イザナキやイザナミも,同様である。

 日本書紀を見よう。

 根国(ねのくに)行きを命じられたスサノヲは,イザナキに対して,「吾,…… 根国に就(ま)かりなむとす。故(かれ),…… 姉と相見えて(あいまみえて),後に永(ひたぶる)に退(まか)りなむと欲ふ。」と述べる(第6段本文冒頭)。

 第8段終わりでは,「遂に根国に就(い)でましぬ。」という表現だ。根国の支配者に,「就」任したという表現だ。

 すなわち,スサノヲにとって根国へ行くことは,死ぬことではない。就職が職に「就」くという意味であるように,根国に「就」く,すなわち根国に行くという意味にすぎない。死とは関係ない。

 これと同様に,「根国」は,死者の国ではない。これについては,のちに検討する。

 またスサノヲは,現世から永久に「退」く,と述べているのであり,死んでしまうのではない。


神は死なないという「叙述と文言」上の根拠(その2)

 そういえば,イザナキの最後は,「霊運当遷(あつしれたまふ)」だった(第6段)。

 これは,霊や運というものが,まさに(当に)移る(遷る),移動するというような意味であろう。

 そして続けて,「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて,寂然(しずか)に長く隠れましき。」であった(第6段本文)。

 「幽」の字に惑わされてはいけない。別に,幽霊になるのではない。「隠れ」て,現世からは永久に見えなくなるだけであって,神はどこかで生きているのだ。


学者さんはわかっていない

 「幽」の字にとらわれて,「冥界」とするのが,学者の通説のようである。

 しかし,誤りとしか言いようがない。

 冥界は,人間が行くところだ。

 冥界とすると,死者の国,黄泉国(よみのくに)と同一だというのだろうか。するとそこは,神も人間も一緒になって生活している世界なのだろうか。

 さっぱりわからない。

 それでは,単なる人間と神の区別が,なくなってしまうではないか。

 これに対し,保食神(ウケモチノカミ=うけもちのかみ)は,「死れり(まかれり)」とされている(第5段第11の一書)。

 これは,ウケモチノカミが死んで,そこから五穀や蚕が生じたという説話だからだ。
 死と再生。冬と春。枯葉と新芽。
 ありふれたモチーフだが,五穀や蚕を生むために,ウケモチノカミは,終末という意味での死を迎える必要があったのだ。

 カグツチも,火の神カグツチから,新たなる神が生成してくることとの関係で,「死ぬ」。


神は死なないという「叙述と文言」上の根拠(その3)

 日本書紀の異伝である一書はどうか。
 第5段の一書にはこうある。

 イザナミの死については,「終りましぬ(かむさりましぬ)」(第2の一書)。「神退りましぬ(かむさりましぬ)。亦は云く,神避る(かむさる)といふ」(第3の一書)。

 「神退去りましぬ(かむさりましぬ)」(第5の一書)。第6の一書では,「化去りましぬ(かむさりましぬ)」とある。

 つまり,神に対しては,決して「死」という言葉をあてていない。

 そればかりか,第5段第6の一書では,神々が生成することを「神と化成る(なる)」といってみたり,イザナキが逃げるときに投げたものが,筍に「化成る(なる)」と表現したりしている。

 これらは,変化して「去る」とか,変化して「成る」という感覚であり,「去る」「成る」ばかりでなく,「化」という文字にも,重点があるのではないだろうか。


神の葬送をどう考えるか

 ただ,第5段第5の一書には,イザナミを「紀伊国の熊野の有馬村」に葬送したという伝承が紹介されている。

 「土俗(くにひと)」,すなわちその土地の人々が,イザナミを祭ったというのだ。その祭りの様子が端的に描かれている。

 しかしこれは,神話が成立した後,人間によって,そうした民俗ができたという問題である。
 神の葬式を行っているから神は死んだのサ,という議論は,ちょっと違う。

 ちなみに,古事記におけるイザナミは,黄泉国へ行って「蛆たかれころろきて」,という状態になるが,終末という意味での「死」を迎えたのではない。
 異界に行き,ヨモツヘグイにより,そんな異形の姿になったのだ。

 黄泉国は死者の国であろう。しかし,イザナミは死んだのではない。その世界に行ってその世界の住人になり,その世界を支配する神になったのだ。


「死ぬ」神をどう考えるか

 しかし,「叙述と文言」上,死ぬとされている神が,多少ある。

 たとえば,「死んだ」ように語られる,上記したイザナミ。古事記によれば,「出雲國と伯伎(ははきの)國との堺の比婆(ひば)の山に葬(はふ)りき。」とされている。

 また,イザナミといえば,その「死」の原因となったカグツチは,イザナキによって斬り「殺」される。
 「殺さえし」カグツチの「死体」から,さらに神々が生まれてくるのである。

 ここでは,人の心に生き続けるから「死なない」というのではなく,叙述上,生成の前提としての「死」が語られているのだから,カグツチは「死ぬ」のであろう。

 他のものに変化して生きていると言ってもよい。
 それは,冬と春,枯れ木と新芽,死と再生,といったテーマで,あらゆる所に顔を出す。

 ツクヨミによって「撃ち殺」され,「死れり」となったウケモチノカミ(保食神)も同様だ(第5段第11の一書)。

 これはこれで,古代人が神をどう考えていたかという問題とは異なるモチーフに基づいているのだ。


神が「死ぬ」伝承の新しさ

 こうした,伝承上,別のモチーフによるため,「死ぬ」神がある。

 私は,それだけでなく,伝承の新しさに基づく場合もあると考えている。

 すなわち,神は死なないという原則が廃れて,わからなくなった時代にできた伝承の中に,神が死んでしまう場合がある。

 そもそも,神を,あたかも人間のように見立てて肉体化し,その「死」や「死体」を語ること自体が,新しい。「神の肉体化」である。

 上記した,イザナミの葬送や,イザナミの墓や,「蛆たかれころろく」イザナミの死体や,切り刻まれるカグツチの死体などにも,こうした要素がダブっている。

 たとえば,国譲りという名の侵略の場面で,アメワカヒコが死に,アジスキタカヒコネが葬式に出向くという伝承がある。これには,死と再生というモチーフがない。

 こうした伝承は,かなり新しい伝承であろう。


古事記は新しいから平気で神が「死ぬ」という

 そして,神は死ぬのかという問題をめぐる伝承の古さと新しさは,日本書紀と古事記をめぐっても,論ずることができる。

 たとえば古事記では,いわゆる「スサノヲの勝さび」場面で,「天の服織女(はたおりめ)」は,「見驚きて梭(ひ)に陰上(ほと)を衝きて死にき。」とある。

 古事記ライターは,神が死んだと平気で書いているのだ。

 しかし,これに対応する日本書紀の伝承,第7段第1の一書での「稚日女尊(わかひるめ)」は,死なない。「神退りましぬ(かむさりましぬ)」とある。

 「稚日女尊」は,ご存じのように,日本書紀第5段本文で,アマテラスの別名「大日霎尊(おおひるめ)」として並び論じられる神である。

 アマテラスの誕生について後述するとおり,「大日霎貴」とか「稚日女尊」とかは,古伝承に残された古い名称である。
 少なくとも,アマテラス信仰が確立したのちの「天照大御神」という名称,「大神」の上の「大御神」と呼んでしまう精神とは無縁の,それよりも古い名称である。

 そうした古伝承に属する第7段第1の一書は,神が死ぬとは言わない。「神退りましぬ」である。


神は隠れるだけでありいつき祭る人々がいる限りどこかで生きている

 このように,本来は,神は死なない。
 神に,終末を意味する「死」はない。
 単に,現世から他の世界に去ったり隠れたりする(現世から見えなくなる)だけなのだ。

 これは,当然といえば当然である。

 叙述に不要な神,都合の悪い神,神話上の役割を終えた神は,神話の表舞台から退場してもらわなければならない。

 ただ,そうした神々を,死んだとして抹殺するわけにはいかない。それなりに,人々の信仰は消えずに残るからだ。

 「隠れる」という文言は,神話の表舞台から姿を消したということにすぎない。決して死んだわけではない。

 いつき祭る人々がいる限り,神はどこかで生き続ける。だから,隠れるとしか言えないのだ。公式の場から姿を消して,どこかで生きているからだ。


人は死ぬ

 これに対して,日本書紀が「国内の人民(くにのうちのひとくさ)」(第5段本文),「国民(くにのひとくさ)」(第5段第2の一書),「顕見しき蒼生(うつしきあおひとくさ)」(第5段第11の一書)などと表現している人間には,まさに終末としての「死」の文言が当てられている。

 「国内の人民」(第5段本文)には,「夭折」という字があてられている。
 これは,スサノヲの暴虐により,その寿命以前に死んだということだろう。「国民多に死ぬ(くにのひとくささわにしぬ)」(第2の一書)という表現もある。

 死んで働かなくなった人民は,支配者にとって,何の意味もない。
 その,死後を考えてやるのも,無駄なことだ。

 支配者にとっての人民は,まさに現実のこの世で生きて働いていてこそ,意味をもつ。労働してこそ意味をもつ。
 もうひとつ意味をもつとしたら,支配者である天皇に徳があるか否かを判断する材料としてでしかない。

 どこかで生きているというとらえ方は,できないわけだ。


獨神が身を隠しペア神は身を隠さない理由

 さて,上記@,A,C,D群の神々を比較すると,古事記ライターは,@,A,Cの単独の神が身を隠すのであって,Dの男女ペアの神々については,身を隠さないと考えている。

 これが,そもそもの問題であった。

 なぜ,単独の神だけが身を隠すのだろうか。

 生成したイザナキとイザナミは,「みとのまぐはい(みとのまぐわい)」,すなわち性交によって,国生みと神生みを行っていく。

 すなわち,男女,広くいえば陰陽2元論的な考え方が,生成発展の原動力となるのだ。

 これは,神武天皇以下の物語にもつながる原理だ。

 いかに高貴なお方が,いかなる姫と結婚して,どのような天皇が生まれたか。その系譜を示すのが,日本書紀や古事記の1つの目的なのだ。


現実世界と神話の世界を一貫した原理は「みとのまぐはい」であり「むすひ」ではない

 だから,人間界以前のお話,神話の世界でも,「みとのまぐはい」が生成発展の原動力である。だからこそ男女ペアの神々は,神話の表舞台で活躍するのだ。

 一方で,独身の神は,早々と身を隠す。
 生成発展の原理にならないし,現実に生きている天皇の原理につながらないからだ。

 その神々が,身を隠すようでいて,背後で生成発展の原理となっている(神野志隆光の説)というのは,もはや詭弁というほかない。

 単独の神々は,表舞台に立たない。

 たぶん,神話伝承上では,最も古い神々だったのだろう。しかし,日本書紀や古事記の編纂においては,あまり意味のない神だったわけだ。

 だから,簡単に身を隠してしまう。神話の表舞台から去る。

 こうした点からも,後付けの理屈で,ムスヒ=産霊の霊力を強調するのは,間違っている。これこそ,日本神話の歪曲,「新たなる神話の創作」だと,非難されるべきだろう。


タカミムスヒは獨神ではないし身を隠してもいない(表舞台に立っている)という反論

 こうした反論がありそうだ。

 タカミムスヒは,少なくとも古事記では,アマテラスと対の神という立場に立っているし,古事記において最も活動的な神だ。

 少なくとも身を隠してはいない。

 日本書紀においても,第9段の国譲りという名の侵略に際し,アマテラスの「命(みこと)もちて」,アメノホヒ(天菩比神=あめのほひのかみ)の派遣を決める。さらに,アマテラスと一緒にアメワカヒコ(天若日子=あめわかひこ)派遣を決定する。

 そして国譲りという名の侵略と天孫降臨は,タカミムスヒの「命(みこと)もちて」,アマテラスが命令する。

 立派に,働いているじゃないか。


タカミムスヒの位置づけは日本神話の根本問題にかかわる

 しかしこれは,前述したとおり,ムスヒ(産霊)の霊力とはまったく違う理由で登場するにすぎない。

 天命思想。これが許している革命の思想。古事記では,これを封じるためにタカミムスヒが登場させられた。

 また,タカミムスヒを,天孫の外戚として日本神話に位置づけるという,意図あってのことである。
 その背後には,律令国家草創期から天皇の外戚として結びついていった,藤原氏,その祖とも言える藤原不比等の姿がちらついている。

 意図的な神だから,公権的公定解釈である日本書紀本文では,登場が必要になった段階,第9段の「国譲りという名の侵略」で,突然登場する。


神野志隆光説の検討

 高名な古事記学者神野志隆光は,現し身(うつしみ)を隠して現さず,ひそめられたところで,神々の世界に対して働くと述べている。

 お言葉ですが,古事記のタカミムスヒは,「ひそめられたところで」など,活躍していません。
 神話の表舞台に堂々と登場して,アマテラスと一緒に主役を張っている。

 日本書紀のタカミムスヒも,第9段になると,突然堂々と登場し,主役を張っている。
 本来の主役はタカミムスヒだったというような叙述である(これについては後述する)。

 現し身(うつしみ)を隠して現さず,ひそめられたところで神々の世界に対して働くという説明は,もはや宗教の世界だ。

 極めて巧妙な言い逃れ,観念論とも言える。


タカミムスヒら3神の日本神話上の位置づけ

 上記@の部分,すなわち高天原とタカミムスヒら3神の登場は,上記A,C,Dの,古来の天地開闢神話にとってつけた,古事記ライターの作文だった。

 本来,古事記ライターが,正直に,「身を隠した」と述べたとおり,日本神話では活躍しなかった神なのだ。

 しかし,言依さしの思想を奉ずる古事記ライターは,善解するならば,天命思想に含まれる革命思想を遮断するために,上記@を冒頭にくっつけた。

 タカミムスヒとアマテラスが,一緒に天孫降臨を命令することにして,「言依さし」こそ,「天」であるタカミムスヒの「天命」である,という理屈を作った。

 だからこそ,全体に活躍するわけだ。

 日本書紀の場合は,単にタカミムスヒを外戚として位置づけるだけだから,第9段の「天孫降臨」の段になって,突如出現するにすぎない。

 それはそれで,筋が通っている。


神が死ぬという伝承は新しい

 ただ,神が「死ぬ」とされている伝承はある。

 のちに個別に検討しておくが,たとえば,返し矢に当たって死んだ,アメワカヒコ。
 古事記では「死にき」とされている。続いて展開されるアジスキタカヒコネ伝承でも,アメワカヒコが死んだとされている。

 死んだからこそ,それを弔うアジスキタカヒコネが登場するのだ。

 しかし,この,アジスキタカヒコネ伝承と一体となったアメワカヒコ伝承は,新しい。
 歌が詠み込まれ,これを導くためにアジスキタカヒコネ伝承があるようなものだ。

 こうした,新しい伝承では,神も平気で死ぬ。

 後述するとおり(日本神話の形成過程),イザナキイザナミ神話は,南九州の吾田で伝承された,日本古来の神話の古層に属する。

 だから,そうした古い伝承では,本来,神は死ななかったのだ。


日本書紀のテキストは「かくれる」と読ませている

 テキストにしている岩波文庫版日本書紀,第9段本文も第1の一書も,上記した箇所を,「死(かく)れぬ」とか,「死(かく)れたる」と読ませている。

 いずれにせよアメワカヒコの「喪を弔う」アジスキタカヒコネ伝承だから,「死」を前提としていることはいかんともしがたいのだが,これを「死(かく)れぬ」と読ませているのは,編者の見識であろう。

 ちなみに,小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1は,「死(みまか)る」と読んでいる。

 これは,わかってないなと思わせる。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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