日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第44 出雲のスサノヲ


高天原を追放されたスサノヲは出雲に降る

 さて,古事記の話を進めよう。日本書紀では第8段にあたる。いよいよ,いわゆる「出雲神話」だ。

 「高天原」を追放されたスサノヲは,出雲に降る。

 日本書紀第5段本文でのスサノヲは,追放先として「根国に適ね」と,あたかも刑務所に行けとでも言うように,行き先を指定される。

 しかし,古事記でのスサノヲは,イザナキから,「この国に住むべからず」と言われるだけだ。目的地「根の堅州国」は,スサノヲが希望した国にすぎない。

 だから,スサノヲが望んだ,「根の堅州国」に行く途中,出雲に立ち寄っても,それはスサノヲの自由なわけだ。

 ただ,指定された支配領域「海原」や天の下から,追放されたことになるのか,という疑問は残る。


出雲神話のあらすじ

 とにかくスサノヲは,降った出雲で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治して,クシナダヒメ(櫛名田比賣=くしなだひめ)と結婚し,子孫を残して繁栄し,根の堅州国へまかる。

 神として,「隠れる」のだ。

 そんなストーリーになっている。

 そのあと古事記では,日本書紀とは異なり,オオクニヌシの物語が大々的に挿入されている。
 これは,後に述べるとおり,オオクニヌシの王朝物語とも言うべき内容になっている。項を改めて述べる。


なぜ出雲神話が挿入されるのか

 なぜここで出雲なのだろうか。

 スサノヲが出雲建国の基礎を作り,オオクニヌシの代に栄えたというお話が,なぜここで出てくるのだろうか。

 それはもう明らかでしょう。私は,何度も論証してきた。

 日本書紀でいえば,

@ 第6段で,「誓約」というからくりを使って,葦原中国を支配する神を用意し(正当性の契機),

A 第7段で,「五穀と養蚕」に反逆するスサノヲを描いて,侵略の理由や口実を用意し,

B 第8段で,侵略される天の下を用意した。

C 第9段で,実際に侵略が始まる。

 日本神話の体系的理解が頭に入っていれば,疑問は何もありません。


日本神話の体系がわかっていない学者さんの意見

 この,日本神話の体系がわからない学者さんは,こう主張する。

 「記紀を通じ,皇祖神を中心に構成されている神代説話の中で,大己貴神または大国主神を中心とする出雲神話は,異質の夾雑分子という印象が強い。」(岩波文庫,日本書紀1,358頁)

 そもそも,少なくとも日本書紀は,皇祖神を中心に構成されてなどいない。

 アマテラスもタカミムスヒも,

@ その位置づけが極めて曖昧であり,

A 第9段本文冒頭に示された系図によってつながっているだけの,「極めて危うい関係」でしかなく,

B そしてこの2神の間には,五穀と養蚕をめぐって,「ねじれた接ぎ木構造」があり,

C ヤマトにおける神話再構成過程での「切り貼り」という傷口が,ぽっかりと口を開けている。

 「記紀を通じ,皇祖神を中心に構成されている」という認識自体が,「叙述と文言」をきちんと読まなかった時代の,悪しき遺産なのだ。


出雲神話は「異質の夾雑分子」ではない

 そして,「異質の夾雑分子」という認識。

 私に言わせれば,いかにも傲慢無礼な態度だ。

 文献として残っている神話を,「異質の夾雑分子」で片づけられるはずがない。
 書物として残っている以上,それを綿密に解読するのが文献学だ。

 それとも「日本神話」は,文献学の対象外だとでも言うのだろうか。
 文献学の対象とするに足りない書物だとでも言うのだろうか。
 それほど政治的な書物だというのだろうか。

 しかし,政治的書物であっても,その文献を綿密に検討して,どのように政治性なのかを明らかにするのが文献学じゃなかろうか。

 それを検討するうちに,見えてくるものがあるはずだ。

 日本書紀編纂者も古事記ライターも,出雲神話が必要だと思って,そこに挿入した。1つの物語として読む読者も,その意味を知りたいのだ。


出雲を中心に大八洲国が平定されていた

 出雲は単なる出雲であり,小さな国だった。そうした認識しかないからこそ,なぜここに出雲神話があるのか,という疑問が出てくるのである。

 出雲神話は,単なる出雲地方の神話にすぎないという認識があるから,そんな一地方の神話が,なぜ,中央の大和朝廷の神話に取り込まれ,大きな顔をしているのか,という疑問が生ずるのである。

 学者さんが用意した回答は,たくさんある。
 いわく,出雲は強国だった。いわく,出雲には宗教的権威があった。
 男女の巫女集団である巫覡(ふげき)の徒が,日本全国を回って出雲神話を広めた,などという珍説まである。

 この一事をもってしても,日本書紀や古事記の研究者たちが,じつは日本書紀や古事記の神話をよく読んでいないと断言できる。

 神話の「叙述」を,無視しているのだ。

 出雲国風土記では,オオナムチが「天の下造らしし大神」とされている。
 万葉集にも,「大汝少彦名の神代」という認識が見える。

 出雲は,大八洲国全体を支配する国だったのだ。


「オオクニヌシの王朝物語」「偉大なるオオナムチ神話」

 その詳細は,後述する「オオクニヌシの王朝物語」,「偉大なるオオナムチ神話」を,先に読んでいただくしかない。

 結論だけをかいつまんで述べると,その支配した「天の下」の領域は,日本書紀の「叙述と文言」からすれば,東は越の国と大和国まで,西は筑紫国までの,広大な領域となっている。

 古事記によれば,オオクニヌシは,出雲を中心として西は筑紫まで,日本海側は,場合によっては朝鮮から越の国まで,そして瀬戸内海を通ってヤマトはもちろん美濃,尾張や,現在の長野県の西部あたりまで(諏訪湖の西まで)を,支配していた。

 これが,「叙述と文言」からの帰結だ。まさしく大八洲国そのものだ。

 「叙述と文言」に基づいた理由と根拠は,のちほど,嫌と言うほど提示しよう。

 ここでは,大八洲国を支配していた出雲の神々を,神話の表舞台から退場させるために,日本書紀や古事記が,いかに苦心して神話伝承を構成しているかということだけを,頭に留めておいてほしい。


スサノヲは単なる狂言回しだ

 だから,日本書紀や古事記におけるスサノヲは,単なる狂言回しの役割になっている。これについては,前述した。

 確かにスサノヲは,クシナダヒメ(櫛名田比賣)を獲得するのに,八俣の大蛇という怪物を退治しなければならなかった。

 一種の通過儀礼だ。
 困難を乗り越えたところに幸せがあるという,お決まりのパターンだ。
 しかもその過程で,草薙の太刀という,これまた英雄譚に不可欠なアイテムを獲得している。

 しかし,日本書紀と古事記の神話におけるスサノヲの本質は,国譲りという名の侵略と天孫降臨を用意するために利用された,哀しいピエロにすぎない。

 これは,「スサノヲ神話の本質」として,「天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由」などで,すでに論じた。


スサノヲはなぜアマテラスの弟なのか

 そして,スサノヲは,なぜアマテラスの弟なのかという問題も出てくる。

 これについても,「誓約による神々の生成(日本書紀)」で,すでに解明しておいた。

 学者さんは,出雲政権が皇室に服属する際に,弟として,皇室の神話体系に組み入れられたのだとしている。支配される出雲を,ヤマトの弟分に仕立て上げたというわけだ。

 しかしそうだとすると,

@ アマテラスの弟として生まれた,
A しかし性格が悪くて追放された,
B その途中で出雲に降臨した,
C ここでクシナダヒメと結婚して子孫を残し国を作った,
D その後根の堅州国へ行った,

という話だけでよかったはずだ。

 征服された出雲国は,悪い弟が治めている国だと言えば足りたはずだ。


学者さんの説では説明しきれない「叙述と文言」

 学者さんの説によると,

@ スサノヲがわざわざ天上界に寄り道して,誓約によりアメノオシホミミらを生む必要(正当性の契機)はなかったし,

A 天の石屋戸の話を引き起こす必要(侵略の理由と口実)もなかったはずだ。

 学者さんは,やはり,神話を体系的に理解していない。神話をきちんと読んでいない。

 こうして,焦点が絞られてくる。

 弟であるという点に,それほど意味はない。アマテラスとの関係では,むしろ,学者さんが説明できなかった,誓約と天の石屋戸という点に意味がある。

 そうしたエピソードをくっつけられるのであれば,不肖の兄でもよかった。壬申の乱に勝った天武天皇は弟だったから,敵方を兄としてもよかったのだ。

 ただ,当時としては,やはり長子が重んじられていたのだろう。だから弟にした。
 日本書紀の神話を読むと,弟は決して疎んじられていない。

 海幸彦・山幸彦の物語では,弟である山幸彦が兄である海幸彦を支配する。その山幸彦が神武天皇につながっていくのだ。

 その後も,実在かどうかは別として,初期の天皇は兄ではなく,むしろ弟だ。無能な兄に対して賢い弟が描かれていることさえある。


足名椎とスサノヲ

 さて,例によって,具体的なお話に入る前に,体系的,総論的説明が長くなってしまった。

 古事記のお話を続けよう。

 出雲に降ったスサノヲは,アシナヅチ(足名椎=あしなづち)とテナヅチ(手名椎=てなづち)に会う。彼らは,クシナダヒメの父と母だ。
 八俣の大蛇が姫を食べに来ると言って,泣いている。

 事情を聞いたスサノヲは,だったら,いっそのことクシナダヒメを自分にくれと頼む。アシナヅチは名前を教えてほしいと言う。

 これに対するスサノヲの答えが,またまたふるっている。

 「吾はアマテラスの同母弟なり。故(かれ)今,天より降りましつ」。

 アシナヅチは,「然(しか)まさば恐し(かしこし)。立奉らむ(たてまつらむ)」と即答する。


アマテラス信仰に屈した情けないスサノヲと論理矛盾の展開

 スサノヲは,まるで,命令を得て降ってきたかのようだ。

 そもそも,天から降ってきたことを威張れる身分だろうか。
 高天原を追放されて,身をやつしていたのではないだろうか。

 古事記ライターは,この話の筋を,とうの昔に忘れてしまったようだ。

 また,「吾はアマテラスの同母弟なり。」という,えっらそうな一言で,アシナヅチたちがあっという間にひれ伏してしまうのも,笑える。

 なぜかって?わからないか?
 まだ,国譲りという名の侵略や天孫降臨のはるか前なのだよ。

 天の下の葦原中国では,アマテラスなんて神は,まだまだビッグネームじゃありません。誰も知らないはずだ。とにかく,まだ支配できていませんからね。

 神話伝承なら,こんな出鱈目な展開が許されるのだろうか。日本書紀は,こんなことはやっていない。


「同母弟」が笑わせる

 もう1つある。

 「吾はアマテラスの同母弟なり」。なんか,おかしくないか。

 すでに,さんざん論じたところだが,古事記におけるスサノヲも,アマテラスも,イザナキが単性生殖で生んだ子であり,イザナミの子ではありません。

 彼らに母などいません。

 以下,同じことを繰り返します。

 スサノヲは,単性生殖で生まれてきたにすぎない。
 イザナミと血のつながりはない。
 スサノヲにとってイザナミは,自分の父親が,かつて愛した女にすぎない。
 しかも,スサノヲが生まれる前に,コトドワタシという離婚手続きをとっている。
 もちろん,育ててくれた母親でもない。
 養子縁組もしていない。

 スサノヲは,イザナミの顔さえ知らないではないか。

 古事記ライターは,思い込みの激しい人のようだ。


古事記のいい加減さ

 要するに,古事記ライターは,アマテラス一本主義の人なのだ。

 「吾はアマテラスの同母弟なり。」

 ここには,強烈なアマテラス信仰が,顔を覗かせている。それが,古来の神話伝承をゆがめている。

 その反面,出雲の英雄スサノヲは,「聞かれもしないのに」,アマテラスの「同母弟」であることを誇るような,「とっても」情けない神になっている。

 これが,出雲神話に加えられた「歪み」であることは,誰でも承認するだろう。
 だったら,「吾はアマテラスの同母弟なり。」という強烈なアマテラス信仰も,「歪み」であることを認めるべきだ。

 神が,○○神との関係を誇るなんて,私は聞いたことがない。古事記におけるスサノヲくらいのもんじゃなかろうか。

 「水戸光圀公であるぞ。控えおろう。」みたいな。
 現代でいえば,聞かれもしないのに「学歴○○大卒」と言うようなもんだ。

 ホントーに,やな奴だ。

 本当は,「吾はスサノヲ。」と言うだけで通用したはずなのに。本当に情けない・・・。


古事記ライターによるリライトの痕跡

 そして,相変わらず古事記ライターは,全体の構成や世界観を全く無視。

 征服される前の国つ神,アシナヅチが,いきなり「然(しか)まさば恐し(かしこし)。立奉らむ(たてまつらむ)」と即答する,とんでもなさ。

 いまさら,国譲りという名の侵略前の話なんだけどねえ,と言ってみても,馬耳東風で,通じないだろうね。

 私が言いたいのは,強烈なアマテラス信仰によって,古来の伝承の構成や筋さえも,ゆがめられているということだ。

 と言うより,古来の伝承の構成や筋をゆがめて,平然としていられた状況を,具体的に「イメージできる?」と言いたい。

 「目覚めなさい」。

 古事記は,口承伝承だという人がいる。
 全体の構成や世界観を無視して,ここまで言い切れるのは,口承伝承を聞く人たち自身が,すでに,アマテラス一本主義に染まっていたからだ。

 そうした時代的背景がある。
 古事記ライターは,そんな社会的基盤の上に,やっと成り立った人だ。

 ここに,リライトの跡がはっきり残されている。

 古事記ライターは,アマテラス信仰が確立した時代の,それを信奉している人なのではないだろうか。


スサノヲが女装したという妄想

 スサノヲは,クシナダヒメをもらい受け,「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女を取り成して,御角髪(みずら)に刺して」,八俣の大蛇を退治する。

 この,姫を櫛にして髪に挿したという意味が,昔から議論されてきた。

 一部の学者さんは,スサノヲが女装したことを象徴しているのだと言う。櫛を髪に挿すことから,女性のイメージを膨らませたのだろう。

 しかし本当かね。

 私に言わせれば,日本書紀も古事記もきちんと読んでいない者による,妄説だ。


「叙述と文言」に語ってもらいましょう

 湯津爪櫛(ゆつつまぐし)は,女はいざ知らず,男が身につけている物だ。

 日本書紀第5段第6の一書では,イザナミを追って黄泉国に行ったイザナキは,身につけていた「湯津爪櫛」を折り取って灯火とし,膿沸き蛆たかるイザナミを見てしまう。

 古事記も同様だ。「湯津津間櫛」とある。

 蛇足だが,玉さえも男が身につけている。

 古事記によれば,イザナキは,アマテラスら立派な子を生んで喜び,「即ち御頚珠(みくびたま)の玉の緒もゆらに取りゆらかして,天照大御神に賜ひて」。
 イザナキは,首にネックレスを着けていたのである。

 またスサノヲは,身につけていた五百箇の御統の瓊をもって,神々を生んだ(第6段第1の一書,第7段第3の一書)。

 本は,きちんと読まなければならない。

 今でもこの学者さんの説を真に受けて,青春の日々を費やす学生がいるのだろうか。日本神話の世界は,本当に恐ろしい。下手をすると,人生を浪費してしまうのだ。

 私は,クシナダヒメを櫛に変化させて髪に挿したということになるし,それでよいと思う。どうせ,八俣の大蛇という怪物が登場する物語だ。この程度のことは,不思議でも何でもない。


八俣の大蛇退治の意味を「叙述と文言」から考える

 スサノヲは,十拳劔(とつかのつるぎ)で八俣の大蛇を斬り殺す。

 流れ出した血で,「肥河(ひのかわ)血に変りて流れき」となる。この怪物は,「高志(こし)の八俣の大蛇」で,毎年出雲にやってきて,娘を食ってしまうのだった。

 「高志」は越であり,北陸道の古称だ。

 こうなると,高志と出雲の戦いの反映ではないかという気がする。越の国の人が,毎年出雲に略奪にやってきたことを物語っているのだろうか。


スサノヲが出雲建国の基礎をつくった

 八俣の大蛇を退治したスサノヲは,クシナダヒメを連れて出雲の須賀(すが)に来る。
 ここで,「宮を作りて坐しき」となる。

 この「大神」は,アシナヅチを「宮の首(おびと)」に任命して,「稲田の宮主(みやぬし)須賀之八耳神(すがのやつみみのかみ)」と名付けた。

 その後,オオクニヌシに至る系譜が,これに続く。

 要するに,宮殿を造って出雲の須賀のあたりを支配したということだ。
 宮の首を任命したのだから,それなりの官僚機構のようなものがあったのだろう。
 長官の名前は,「稻田宮主」。

 オオクニヌシに至る系譜は,子孫が繁栄したということを主張している。

 スサノヲは,出雲国の建国者ととらえられているのだ。私はこれを,「天弟降臨(てんていこうりん)」と呼んでおいた。


オオクニヌシ(オオナムチ)が「始めて国を作りたまひき」

 スサノヲの子孫オオクニヌシには,「葦原色許男神(あしはらのしこおのかみ)」,「八千矛神(やちほこのかみ)」,「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」という別名がある。

 「葦原色許男神」とは,葦原中国の屈強な神という意味。
 「八千矛神」とは,武器をたくさん持った強い神という意味。
 「宇都志国玉神」とは,現世の国を作った功労の神という意味だ。

 そして,このオオクニヌシこそ,「始めて国を作りたまひき」神,とされるのだ。

 それだけでは終わらない。続けて古事記は,オオクニヌシによる「高志国の沼河比賣(ぬなかわひめ)」への求婚話を載せている。

 越まで出かけていって,豪族の娘ヌナカワヒメ(沼河比賣)に夜這いをかけたという話だ。

 その国を平定していないと,できることではない。しかも,日本書紀の仁徳紀や雄略紀を彷彿とさせる,女と歌の物語。

 王朝物語の片鱗さえうかがわせる。

 このように,出雲神話は,いわゆる「高天原」神話以前に大八洲国を支配した神話として,決してはずせない神話なのだ。


八俣の大蛇退治は何を象徴しているのか・学者さんの説は文献学ではない

 スサノヲの八俣の大蛇退治は,何を物語っているのだろうか。八俣の大蛇は,いったい何だろうか。

 単なる怪物で片づけてよいのだろうか。

 一部の学者さんの説は,以下のとおり。

 出雲の大河,斐伊川の氾濫である。それを征服したのがスサノヲだ。
 砂鉄に関係している。それを征服したのがスサノヲだ。
 スサノヲは,製鉄を行っていたタタラの大立て者だ。

 少々空想に走っているように思える。
 たぶん,古代出雲の社会経済を,たくさん勉強したのだろう。

 それは個人の自由だが,日本書紀や古事記をどのようにひっくり返しても,タタラとスサノヲは結びつかない。

 やはり,日本神話読者の立場に立って,文献を尊重して,「叙述と文言」から考えなければならない。


八俣の大蛇退治は何を象徴しているのか・夜刀の神

 八俣の大蛇は蛇だ。
 蛇を征服することに関しては,常陸国風土記に,こうある。

 「麻多智(またち)」は,葦原を開いて田を作った。
 そのとき,「夜刀の神(やとのかみ)」,すなわち蛇が群れをなして開墾を妨害した。
 麻多智は,鎧をつけてこれらを撃ち殺し,夜刀の神すなわち蛇に対し,ここから上は夜刀の神の土地とするが,ここから下は人が作る田にすると宣言した。

 そして,以後,夜刀の神を敬い祭るから祟らないでくれと言って,初めて,神社を作って祭った。


八俣の大蛇退治は何を象徴しているのか・夜刀の神と田の開墾

 田を開墾したというお話だ。弥生文化のお話だ。それが,蛇との戦いだったというのだ。

 確かに田の開墾は,蛇との戦いだった。稲の生育に適した湿地帯は,蛇の繁殖地だったのだろう。そこには,マムシなどが,たくさんたくさん生息していた。

 蛇に勝たなければ,自らの生存が危ぶまれる。だから蛇を殺し尽くすのだ。

 そうして,殺した蛇をいつき祭って,ここからこっちは人間の世界,あっちはおまえたち蛇の世界だから,人間の世界に出てこないでくれと言って,祈ったのだ。

 ずいぶん手前勝手かもしれないが,人間とは,いつでもどこでも,こうした生き物だ。業深き生き物だ。

 蛇を殺すという行為は,田を開墾する行為である。スサノヲは畦道を破壊したが,その畦道を作るのと同等の,田を作るための重要な作業の1つだった。

 スサノヲは,蛇の大ボス,八俣の大蛇を退治したのである。

 これは,出雲に大きな田を作って栄えたことを象徴していることになる。
 だからこそ,宮の長官は,「稻田宮主」。

 その蛇が,たぶん敵対国であった高志の国に重ね合わされているのだろう。


スサノヲにおける縄文と弥生の重層

 八俣の大蛇退治は,蛇を殺して田を作ったという,歴史的記憶の象徴ということになる。

 するとスサノヲは,弥生文化を体現する神ということになるのだろうか。

 スサノヲは,アマテラスが担っていた「五穀と養蚕」という文化,弥生文化に反逆する神であり,縄文の神ではなかったのか。

 しかし一方で,第7段第3の一書におけるスサノヲは,3つの田を耕作している,弥生の神だった。

 「其の素戔嗚尊の田,亦三處(みところ)有り。號(なづ)けて天くひ田(あまのくひだ)・天川依田(あまのかはよりだ)・天口鋭田(あまのくちとだ)と曰いふ。此皆磽地(やせどころ)なり。雨れば流れぬ。旱(ひで)れば焦(や)けぬ。故,素戔嗚尊,妬みて姉(なねのみこと)の田を害(やぶ)る」。

 スサノヲには,縄文と弥生が重層している。


クシナダヒメと稲田の宮主

 スサノヲが得た姫は,クシナダヒメだった。これは,日本書紀によれば「奇稲田姫(くしいなだひめ)」。稲の田んぼを名前にしている姫だった。

 そしてスサノヲは,クシナダヒメの父アシナヅチを「宮の首(おびと)」に任命して,「稲田の宮主(みやぬし)須賀之八耳神(すがのやつみみのかみ)」と名付けた。

 「稲田の宮主」というからには,田んぼの稲が豊かに実り,その予祝や感謝が行われる宮の主(あるじ)だったのだろう。

 出雲のスサノヲの物語は,弥生文化の物語である。これは間違いがない。


スサノヲの変身

 しかしスサノヲの原像は,やはり弥生の神ではない。

 このあと,日本書紀第8段第4の一書,第5の一書などを検討するが,そこには,樹木の神スサノヲが描かれている。樹木は縄文文化だから,スサノヲの原像は,縄文文化とともにある。

 スサノヲは,新羅からやって来た神だ。それは,縄文の神だった。

 縄文は日本固有の文化だから,新羅にあるはずがないという人がいるかもしれない。
 しかし,それは間違いだ。

 縄文文化は,日本固有の文化ではない。網野善彦は,朝鮮半島をも含めた縄文文化を考えている(ちくま学芸文庫「日本の歴史をよみなおす(全)」271頁以下)。

 だから,縄文の神スサノヲが新羅から来ても,何の不思議もない。


弥生の神としてのスサノヲ

 その神が,日本に来て土着して,弥生の神となった。

 もっと正確に言うならば,縄文の神スサノヲをいつき祭る朝鮮半島の人々が,五穀と養蚕をも携えて出雲にやってきて,定着した。

 スサノヲは,縄文の神から,出雲国を建国した弥生の神となった。

 スサノヲが出雲に来て得た妻は,クシナダヒメ(奇稲田姫=くしいなだひめ)。すなわち稲を妻としたのだ。
 そして,オオイチヒメ(神大市比賣,大山津見神の娘)との間に生まれたオオトシガミ(大年神)の子孫は,稲そのものを体現した神々だった。

 要するに,縄文の神として新羅からやって来たスサノヲが,出雲に定住して子孫神を残し,その子孫神の変貌と共に,弥生の神に変貌していくのだ。

 スサノヲをめぐる神々には,このように,縄文と弥生が重層している。


草薙の大刀を献上する相手はアマテラス

 さて,スサノヲは八俣の大蛇を退治し,その体内から,都牟刈の大刀(つむがりのたち),すなわち草薙の大刀を取り出す。

 そしてこれを,「天照大御神」に献上してしまった。

 日本書紀第8段本文では,献上されたのは「天神(あまつかみ)」だ。

 先に私は,古事記ライターはアマテラス信仰が確立した時代の人だと述べたが,その精神が,ここにも端的に表明されている。

 剣は支配の象徴だ。スサノヲは八俣の大蛇を退治して,高志との戦いに終止符を打ったが,その勝利の象徴である剣を,アマテラスに献上してしまうのだ。

 ここには,国譲りという名の侵略が先取りされている。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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