日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第2 問題提起


古事記偽書説論争(古事記成立考)の限界

 この,「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」は,「古事記偽書説」論争という,自らの土俵を狭めるような議論に留まることなく,古事記神話の本文そのものを真正面から吟味し,あわせて,物語読者の立場で,日本神話を読み解こうという試みである。

 改訂新版作成中の2009年4月に,「新版古事記成立考・大和岩雄・大和書房」が刊行された。約650頁にも及ぶ大著だ。

 この旧版は私も読み,感銘を受けたものだ。しかしこの著者は,古事記本文の内容は古く,日本最古の古典であるという立場を崩していない。

 古事記の内容そのものを,逐一吟味した論考のうえでの発言になっていない。

 その内容は,古事記序文偽書説を中心とした,学者さんたちが提起した狭い問題を議論しているにすぎない。
 学会の,学者さんたちが提起した論点に関する論争,という枠を超えていないのだ。


文献としての古事記のレベルの低さ

 だから,この本を読んで,古事記がわかるわけではない。

 「叙述と文言」を頼りに日本神話を読もうとする一般の読者が,「これで古事記がわかった。」となるような本ではない。

 たとえば私は,「上代特殊仮名遣い」に関する議論に立ち入ろうとは思わない。
 これについては,様々な議論がある。
 万葉集をも含めた,学術的功績があるのはよくわかる。

 しかし,そんなことよりも,もっと低いレベルのところで,古事記のいい加減さが見えるし,古事記の本質も,そこにある。

 古事記の,文献としてのレベルは,極めて低い。
 私は,この論文で,そのレベルの低さや,異伝をつないだ特殊性を論証しようと思う。

 そう割り切ってしまえば,日本書紀を中心に,日本神話の構造や体系が見えてくる。

 古事記は,語りの文学だという学者さんがいる。その語り口調で,現代語訳した本が,出版されてもいる。

 古事記は語りの文学だと主張すること自体,古事記が,古い伝承のリライト版であることを自白しているのだが,その語りの対象とした相手の知的レベルは,極めて低い。

 それは,差別ではなく,古事記という文献自体の性格なのだから,いかんともしがたい。


わけのわからない古事記

 市販されている古事記神話関連の書物は,はっきり言って,わけがわからない。

 そもそも,日本神話の体系がわからない。
 叙述の細部もわからない。そんなものか,と思って終わる。

 比較神話学や民俗学からのアプローチもあるが,それを読んで日本神話がわかったとは思えない。
 外国の神話伝承を引っ張ってきて,「これと似ている。」と言われても,「で,それが何なの?」という疑問をもって終わるだけである。

 何も発展がない。
 発展がないのは,学問ではないからだ。

 結局,何も「論ずる」ことができずに,「古事記のあらすじ」をなぞっただけで,終わっているものが多い。

 こうして,物語読者として古事記を読んでいっても,曖昧模糊とした「神話の森」を堂々巡りするだけなのだ。

 要するに,問題意識をどこにもっていったらいいのか,著者自身がつかみ切れていないのだ。


等閑視された日本書紀

 そこで,日本書紀を読んでみる。

 しかし日本書紀は,本文と,異伝である一書が錯綜し,これまた,わけがわからない。
 古事記とはまったく違った世界があるから,かえって理解不能になってしまう。

 一方で,日本書紀は文飾が多いので信用できないという,「根拠のない神話」がある。

 で,おおかたの人は,日本書紀と古事記を,全体的にとらえるしかなくなる。
 一見して細かい齟齬や,叙述の違いは,古来の伝承だから仕方がないとあきらめる。

 「日本神話なんて,そんなものサ」。
 「矛盾いっぱいで変なところもあるのが,古い神話伝承サ」。

などと思いこんでいる。

 こうして,なんとなく曖昧なまま,「神話の森」を堂々巡りしている。


歴史のパラドックス

 古事記神話を中心に,皇国史観が喧伝された歴史がある。

 だから多くの人は,日本神話の「叙述と文言」を,真剣に検討しようとしない。

 戦前に対する反動で,外国から輸入した物差しで日本神話を解釈してみたり,社会経済的観点から解釈してみたり,いろいろ工夫がなされた。

 これもまた,日本神話の「叙述と文言」を真剣に読まなくさせた原因だ。

 皇国史観からは自由になったのに,なぜか,古事記を中心に日本神話を考えるという「癖」は,抜けきらなかったようだ。

 以下で論証するように,じつは古事記には,悪意のリライトがあったり,叙述がいい加減だったりするから,古事記を基準にしていては,わけがわからなくなるはずなのだ。

 実直で,それはそれですっきり筋が通った日本書紀を読まないと,日本神話の筋が見えてこない。

 こうして,皇国史観からフリーになったのに,かえって日本神話がわからなくなるという,パラドックスが生じた。


新たなる神話の生成

 現代人は,日本神話の「叙述と文言」に対する謙虚さを失ってしまった。

 「日本神話」に対する謙虚さではない。
 あくまでも,日本神話の「叙述と文言」に対する謙虚さである。

 一度,日本神話を文献として突き放して読んでみようという謙虚さである。

 その結果,たとえば,外国から輸入した物差しで解釈するとこうなる,という日本神話解釈ができあがり,それが日本神話ということになり,現代における「新たなる日本神話」が生成されてきた。

 こうした例は,無数にあると言ってよい。


学問になっていない日本神話論

 だからこそ,日本書紀と古事記ができてから千何百年にもなるのに,いまだに日本神話の体系的理解さえできていないし,体系的理解から照らし出された細部の理解もできていない。

 日本神話を俯瞰する,ある1つの体系から照らし出して,その細部を解釈するということが,できていない。

 すなわち,日本神話に関する研究が「論」にとどまり,「学」になっていない。
 「学」としての体系がないのだ。

 今までの日本神話「論」は,各自がお勉強した観点からなんとでも言える,拡散した「論」にすぎなかった。

 あるひとつの神話体系や,軸や,パラダイムを中心にして,日本神話の解釈に関する議論が収斂し,ある時は拡散しながら,その内容を深めていくという世界ではなかった。

 日本神話「論」の世界は,いまだかつて,パラダイムや体系がない世界である。

 たとえば,なぜ,「高天原」神話と出雲神話と日向神話が,くっついているのか。
 これひとつとってみても,私が知る限り,明確に答えてくれる書物はない。

 そうした基本的,根本的,体系的問題は放置しながら,各自が言いたいことを言って,いつまでたっても拡散しているだけの世界である。
 それどころか,言いたいことをどんどん言って,新たなる神話を作り出している体たらくである。

 だから,日本神話に関する議論は,いまだに学問になっていない。

 日本神話学は,いまだに存在しない。


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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