第84 日本神話を論ずる際のルール
さて,古事記批判はこれくらいにして,今後,日本神話を論ずる際の,最低限のルールを提示しておこう。
私は,日本書紀本文,異伝である一書,古事記を,対等な別伝承として読むべきであると述べてきた。
本来は,それぞれ独立した伝承であると論じた。
たとえばここに,今読み終わろうとしている,学者さんが書いた本がある。
この人は,アメノホアカリ(天火明命)を論ずるのに,ニニギの子とする日本書紀本文の叙述を前提にして,論を進めている。
なぜ古事記の説を採らないのか。なぜ,日本書紀の異伝である一書の説を採らないのかについては,まったく言及されていない。
どの伝承を取ろうとも論述には関係がないのなら,それをまず明らかにすべきである。
また,別の学者さんは,三種の神器を論ずるのに,3つが対等の立場で揃った日本書紀第9段第1の一書を引用して,論を進めている。
たぶんそれが,コンセンサスだと,思いこんでいるからだろう。
こうした,アプリオリな思い込みを,さかのぼって自覚的に考え直すのが,学問だと思うのだが。
私に言わせれば,第1の一書は異伝中の異伝であり,古事記は,これをさらに特定の方向に一歩進めた異伝なのであり,ある特定の伝承の,こうした「ベクトル」を意識しながら論じないと,まったく意味がないのであるが(第70 古事記独特の三種の神宝),今はそれを言うまい。
「ベクトル」を意識しながら論ずることさえスタンダードになっていない日本神話論の現状。
私の要求は,極めて単純だ。
日本書紀本文,第1,第2,第4,第6の一書,そして古事記と,内容が異なる6種もの伝承があるのに,なぜここで,第1の一書をもとにして論を進めるのか。
論述に入る前に,それをきちんと明確にするのが見識であり,ルールであろう。
ところがそれが,できていない。
これでは,学問にならない。
読者としては,最初で引っかかってしまうから,いっかな大論文でも,納得できないものが残る。
大論文も,土台から揺らいでしまうであろう。
そもそも,読者に対して失礼である。
なぜ,その伝承に依拠して論述を始めるのか。
まず,そこから始めるべきであろう。
論述の冒頭によくある,「一書によっても異なるが,第9段第1の一書によれば」というような,まったく意味のない前書き(もしくは言い訳にならない言い訳)は,やめてもらいたい。
それは単なる,「つまみ食い」だ。
自分に都合の良い伝承を選んだという「つまみ食い」。それに対する言い訳でしかない。
これは,学問ではない。
自分のよって立つ伝承が,日本神話の中でどのような位置関係にあり,どのようなベクトルを指し示しているのかを確かめず,都合のよい伝承をつまみ食い的に取り上げて論を進めている限り,日本神話は学問にならないであろう。
以上,私が言ったことは,古事記批判以前の,方法論的な基本問題でしかない。
戦後64年たったが,日本神話論の世界では,こんな当たり前のことさえも,きちんとできていなかったのである。
とても信じられないことだが。
(その原因は,古事記偏重と日本書紀の軽視であろう)。 |