日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第83 本居宣長について


本居宣長の主張

 本居宣長についても,ひとこと言っておかなければならない。

 本居宣長は,こう言っている。

 日本書紀は,「漢文のかざりの過ぎたる故なり」。
 古事記は,「いささかもさかしらを加えずて,いにしえより言い伝えたるままに記されたれば,その意も事も言もあいかないて,皆上代の実なり」。

 日本書紀は,中国文献による文飾が多い。
 これに対して古事記にはそれがなく,古来の神話伝承をそのまま伝えた真実だというのである。

 こうした見解が,現代の通説になっている。


むしろ古事記の方が「さかしら」である

 私は,この論文で,反論となる実例を,嫌というほど解明した。

 たとえば,古事記のイザナキ・イザナミ伝説は,「天つ神諸」による「修理固成の命令」で始まるのであった。国生みがうまくいかないと,この2神は,わざわざ天に上って,「天つ神の命を請ひき」なのであった。
 そしてその「天つ神諸」は,あろうことか,「太占」という占いをするのであった。

 ここには,もはや,素朴なイザナキとイザナミはいない。支配命令の体系に取り込まれて,国生みの方法さえも,いちいちお伺いを立てなければならないのだ。
 そして,神聖で侵しがたいはずの神の領域に,人間が土足で踏み込んで,「恬として恥じない」精神が,口を開けている。
 そんなことを,面白おかしく語ろうとする,リライト精神も,露骨に感じられる。

 もはや,素朴さはない。むしろ,「人間のさかしら」があらわである。

 古事記の,ここを読んだだけで,「いささかもさかしらを加えずて」という本居宣長の主張が,誤りであることがわかる。

 以上は,ほんの一例に過ぎないのだ。

 ひとこと付け加えておくと,この「人間のさかしら」にぴったりと波長が合ってしまい,共鳴してしまったのが,戦前だったのではなかろうか。


古事記は「いにしえより言い伝えたるまま」ではない

 そしてたとえば,日本書紀第8段第6の一書の構成意図と,古事記の悪意。

 第8段第6の一書が,最後にもってきた種明かしを,叙述の冒頭において,再構成してしまった古事記ライターの悪意。

 その他,この論文で,私が嫌というほど指摘して論証した,古事記ライターによるリファイン。ソフィスティケイト。

 古事記は,「いにしえより言い伝えたるまま」の伝承ではなく,それを利用した「二番煎じ」である。


ある学者さんの「本居宣長一部爆破宣言」

 古事記伝に基づいて,古事記注釈を著した学者さんでさえ,こう言っている(以下,西郷信綱・古事記注釈・第8巻・筑摩書房,220頁以下)。

 「『言』を軸にしたその注釈が輝いているのとは裏腹に,古事記そのものへの理解のしかたを総括したともいうべき『直毘霊』が,ごく一部を除きひどく観念的で空疎な言説で充たされているのに誰しも直ぐ気づくはずである」。

 本居宣長は,「皇大御国は,かけまくもかしこき神御祖天照大御神の,御生坐る大御国」であり,「万国に勝れたる」理由は,「此の大御神の大御徳」があるからであると言っている。

 しかし,「始末の悪いことに,宣長じしんここにいうところは『すべて己が私のこころもていうにあらず,ことごとに,古典によるところ』ありと信じて疑わないのである」。

 だから,この学者さんは言う。
 「実は私はもっと別の側面から,こうした考えを爆破してみたい」。

 著書の奥書からすれば,1989年時点での,「本居宣長一部爆破宣言」である。


本居宣長の長所と短所

 要するに,本居宣長の,「言」すなわち言葉に対する注釈は輝いているが,古事記全体の理解を示した「直毘霊」は,空疎であり,始末が悪いので,「爆破してみたい」というのである。

 で,この学者さんは,その「言」のとおり,爆破を試みる。

 そのうえで,「一言一句おろそかにせぬ実証性と国粋主義的偏見とが奇妙に,かつ不可分に包みあうという独特な風貌を『古事記伝』はもっている」と結論づけるのだ。

 そして,こう言う。

 「まず指摘せねばならぬのは,『記伝』の解釈は語彙や節あるいはせいぜい文という小単位で完結し,それらを平面的に加算するだけになっており,後続する文から文,話から話へと意味が組み込まれ送りこまれつつそのレヴェルを発展させてゆく過程にたいし,ほとんど関心が向けられていないいない点である。」

 「古事記のなかの奇しく怪しい話をそっくり信じるだけで,どのような意味がそこにあるかを全く問おうとせぬ態度ともそれはつながる」。

 「部分と全体との間の弁証法的な往復運動に欠けるといいかえることもできる」。


日本書紀を読み直す必要がある

 ただ,このように論じる学者さんでさえ,古事記の読みが滑っているように感じるのは私だけだろうか。

 その原因は,日本書紀を軽視しているからである。日本書紀をちょこっと参照するだけで,きちんと読み切っていないからである。

 古事記が素朴だと,なんとなく「素朴に」信じているからである。

 日本書紀は中国文献による文飾が多いというのは,日本神話に関する限り通用しない。その書き出し,最初の1ページだけを見て,そのように信じ込んでしまうのではなかろうか。

 文飾は,むしろ,神武天皇以降の,いわゆる歴史叙述に多い。

 ちなみに,中国文献による文飾ができることは,むしろ,当代一流の知識人であることの証明だったのである。

 そして,どこがどのように文飾なのかは,すでに,学者さんが事細かく解明している。
 だから,文飾の部分を除いて考えればよいだけのことである。

 こうした俗説に惑わされて日本書紀を読まず,古事記の国生みや,オオクニヌシの根国訪問譚などを,素朴だ素朴だと言って怪しまぬ精神をもっている限り,何も進歩しないであろう。


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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