日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)


命令神タカミムスヒはどうなった

 アメノホヒもアメワカヒコも,葦原中国に居着いてしまい,復命しなかった。そこで「ここに天照大御神,詔りたまひしく」,いずれの神を遣わしたらよかろうかと,神々に問う。

 で,タケミカヅチらが任命される。

 命令神タカミムスヒはどうなったのだろうか。「天子降臨」を目指して,タカミムスヒが協力して,派遣するのではなかったのか。

 ここでタカミムスヒが抜けるべき,合理的理由はない。


いい加減な古事記

 それが証拠に,テキストの,次のページを見よ。

 オオクニヌシに対してタケミカヅチは,「天照大御~,高木~の命もちて,問ひに使はせり。」と言っているではないか。

 やはり,タカミムスヒも,一緒に命令していたのだ。
 だったら,「ここに天照大御神,高木神,詔りたまひしく」と,なぜ書かなかった。

 この,テキストにして13行の一連の伝承が,別伝承であるはずがない。伝承を異にするから,という言い訳は通用しない。

 天才秀才の古事記ライターが書いたという,誇らしげな「古事記序文」は,いったいどうなるのか。

 私は,古事記ライターが単に書き落としただけであると考える。古事記とは,その程度の著作物なのだ。

 大変な書物だと思ってはいけない。
 古事記序文も,いい加減なものだ。


オモイカネの役割がやはりぼけている

 ここでも,オモイカネが登場している。そして,タケミカヅチらを推薦した・・・はずだ。

 しかし古事記ライターは,例によって,「ここに思金神また諸の神白ししく」とやってしまっている。

 これでは,オモイカネは,「諸の神」の一員にすぎない。

 集まった「諸の神」が,オモイカネに「ものを思わせて白ししく」とやらなければ,オモイカネが登場する意味がない。

 オモイカネが「ものを思った」という,極めて神話的なモチーフが,ぼけてしまっている。

 とにかく,「オモイカネにものを思わせて」という,原初的な神話を下敷きに,「天才秀才」と古事記序文が自称する古事記ライターが,リライトしたのである。

 その残骸が,上記した「叙述」だ。

 私は,オモイカネという神の役割がきちんと頭に入っていない人が,テキトーに,乱暴に書き流すと,こうなると思う。

 そうした,古事記ライターの「知性」が,読み手に伝わってくる。


イツノオハバリが水を逆さまに巻き上げているという荒唐無稽な展開

 話を戻そう。

 アマテラスの諮問に対し,「思金神また諸の神」は,イツノオハバリ(伊都之尾羽張神=いつのおはばりのかみ)か,その子タケミカヅチ(建御雷之男神=たけみかづちのをのかみ)を遣わすべしと答申する。

 イツノオハバリ,すなわちアメノオハバリは,天の安の河(あめのやすのかわ)の河上にある天の石屋戸(いわや)にいて,「逆に(さかしまに)天の安の河の水を塞き(せき)上げて,道を塞きて」いる神となっている。

 ここらへんを,素朴な神話と捉えるのか。映画でいえば,剣の達人がいる秘境という設定だな,脚色しているな,と取るのか。

 受け取り方が別れるところだ。

 河の水を逆さまに巻き上げていて,誰も行けないという,おどろおどろしい設定が非常に効果的だ。

 ベトナム戦争の狂気を描いた「地獄の黙示録」という映画。数々の困難をかいくぐって河を遡っていくと,そこに殺しのターゲットがあった。

 そんな状況設定なのだ。


古事記はアマテラス一本主義

 誰も近づけないところだから,特別に,アメノカクノカミ(天迦久神=あめのかくのかみ)を派遣したのだ。

 しかし,おどろおどろしい神といえども,古事記の世界では,所詮アマテラスの家来にすぎない。アマテラスの言うことには,あっという間に従う。

 だから,イツノオハバリは,何の抵抗もしないで「恐し(かしこし)。仕へ奉らむ。然れどもこの道には,僕が子,建御雷神を遣はすべし。」と,即答する。

 古事記は「語りの文学」だと言う人がいる。
 古事記を読んで聞かされる人が,「やっぱりアマテラスは偉いのよね。」なんて,うんうんと頷いているのが,目の前に浮かぶような展開だ。

 そんな古事記が,一番古い,古来の伝承なのだろうか。


描写が薄っぺらで小学生相手の語り

 ま,それはいい。

 あっという間にアマテラスにひれ伏すなんて,河の水を逆さまに巻き上げて誰も行けないという状況設定は,いったい何だったのだろうか。

 おどろおどろしく登場したくせに,何の威厳もない。
 これじゃ,茶番だ。

 「そうじゃな,どうするかのう。他でもない,アマテラスじきじきのお頼みじゃから,一肌脱ぐかのう。」くらいは言ってみろよ。
 そうでなけりゃ,ドラマじゃないよ。

 どうせ,天上界じゃ,アマテラスの言いなりなんだから,河の水を逆さに巻き上げてるなんて,カッコつけてても仕方ないでしょ。

 それとも,河の水を逆さまに巻き上げて,誰も行けない所にいる凄い神様も,あっという間にアマテラスにひれ伏す。
 それくらい,アマテラスは偉い神様だと言いたいんでしょうか。

 それが,正しいような気がする。
 だとしたら,「語りの文学」古事記は,小学生を相手にしていたことになる。


同じような描写はすでにあった

 私は,古事記における,アシナヅチ,テナヅチを思い出す。

 出雲に「天弟降臨」したスサノヲは,アシナヅチに向かって宣言する。「吾はアマテラスの同母弟なり。故(かれ)今,天より降りましつ」。

 アシナヅチは,「然(しか)まさば恐し(かしこし)。立奉らむ(たてまつらむ)」と即答する。

 「高天原」を追放されて,天から降ってきたことを威張れる身分でもないスサノヲが,突然,こんなふうに威張っちゃうおかしさ。

 国譲りという名の侵略はまだなのに,アマテラスという名前を聞いて,あっという間にひれ伏しちゃうおかしさ。

 「高天原」から下ってくれば,スサノヲでも何でも,なにしろ偉いんだという単純さ。


古事記の不幸

 こんないい加減な展開を,なぜ学者さんは笑わないのだろうか。

 こんな薄っぺらな脚色は,古来の伝承そのものではない。
 質実剛健さがない。
 素朴さが,まったく消え失せている。
 聞き手に対する効果を予想した,聞き手におもねるような展開。

 日本書紀の神話の方が,よっぽど素朴だ。

 少なくとも古事記は,聞き手を意識した「語りの文学」であり,それだけ,素朴な伝承ではなくなっているといえるだろう。


一緒に派遣されるのは天鳥船神だ

 愚痴はやめよう。

 こうしてタケミカヅチの派遣が決定されるが,アメノトリフネ(天鳥船神=あめのとりふねのかみ)が,この神に添えられる。

 アメノトリフネは,別名,鳥之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)であり,イザナキとイザナミが国生みに続いて生んだ神だ。

 雷は,天から地に突き刺すように落ちてくる。雷神は船に乗って天と地を往来すると考えられていた。その乗り物が天鳥船であり,それを司る神がアメノトリフネだ。

 私が言いたいのは,これはこれで,お伽噺として,きちんと筋を通した展開だということだ。

 タケミカヅチという雷神(じつは古事記では,剣の神を兼ねる)が天降る。それには乗り物が必要だ。それが天鳥船であり,その乗り物を司る神がアメノトリフネだ。


古事記ではタケミカヅチは剣の神イツノオハバリの子とされる

 さて,イツノオハバリとタケミカヅチ。

 この2神は,この,「国譲りという名の侵略」の場面において,突然,父子関係で結びつけられる。

 イツノオハバリは,じつはすでに登場している。「火の神カグツチ殺し」の場面の,最後の数行に戻ってみよう。

 「故,斬りたまひし刀の名は天之尾羽張(あめのおはばり)と謂ひ,亦の名は伊都之尾羽張(いつのおはばり)と謂ふ」。

 イツノオハバリとは,イザナキが火の神カグツチを斬った「十拳劔」(とつかのつるぎ,握り拳10個分の長さの剣)の名前である。

 古事記によれば,「十拳劔」を神格化した神ということになる。

 だからタケミカヅチは,剣の神の子,ということになる。


カグツチ殺しによる神の生成場面を読み直す

 しかし,本当だろうか。

 古事記の,「カグツチ殺し」の場面を読み直してみよう。

 「ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血,湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて,成れる神の名は」,イワサク,ネサク,イワツツノヲ。

 「次に御刀の本(もと)に著ける血も亦,湯津石村に走(たばし)り就きて,成れる神の名は」,ミカハヤヒ,ヒハヤヒ,タカミカヅチ。

 「次に御刀の手上(たがみ)に集まれる血,手俣(たなまた)より漏(く)き出でて,成れる神の名は」,クラオカミ,クラミツハ。

 「殺さえし迦具土神の頭に成れる神の名は,・・・」

 「故,斬りたまひし刀(たち)の名は,天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ,亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ」。


タケミカヅチらはカグツチの血から成ったカグツチの子である

 古事記の「叙述と文言」は,ご覧のとおりである。整理すると,以下のとおり。

@ カグツチの血が飛び散ったり,したたり落ちて,タケミカヅチを含む,上記した神々が生まれた。

A カグツチを切った剣は,アメノオハバリ,またはイツノオハバリという。

 タケミカヅチは,カグツチの血から成った神であり,敢えて言うならば,タケミカヅチの父は,カグツチである。

 古事記は,これに,カグツチを切った剣がイツノオハバリと言われているという伝承を,くっつけたにすぎない。

 そして,この神々生成の場面で,古事記ライターは,タケミカヅチが,イツノオハバリ(剣の神)の子だとは言っていない。
 カグツチを切った剣の名前が,アメノオハバリ,またはイツノオハバリだというだけだ。

 ここのところの,微妙な叙述が,くせ者なのである。


タケミカヅチはイツノオハバリという剣の神の子ではなく雷神(結論)

 まだるっこしいので,結論から先に言う。

 「国譲りという名の侵略」の場面で,古事記ライターが,突然,タケミカヅチはイツノオハバリの子である,だから剣神であると叙述するのは,間違いである。

 イツノオハバリは,単なる剣の名前であって,神の名前ではない。古事記ライター自身が,カグツチ「殺し」の場面で,そう書いている。

 古事記ライターは,わかっていてそう書いたのに,国譲りという名の侵略の場面まで書き進んで,それを忘れてしまったのだ。

 興に乗って,イツノオハバリが剣の神であるという荒唐無稽の物語を展開し,その勢いで,つい,その子タケミカヅチとやってしまった。

 伝承上の紛れなどという問題ではなく,古事記ライターの主観による,明らかな間違いである。

 だから,タケミカヅチが剣の神の子であり,剣の神であるという,学者さんの多数説も,間違いである。

 タケミカヅチは,古事記ライターが叙述するとおり,カグツチの血から成った神なのだから,むしろ,カグツチの子である。

 タケミカヅチは,剣の神の子ではなく,日本書紀が正当にも言うとおり,たんなる雷神である。

 別神であるフツヌシこそが,剣の神である。


イツノオハバリは剣の名であって剣の神ではない

 古事記に,タケミカヅチが剣の神イツノオハバリの子であるという伝承があるではないか,それはどうなる。というのが,おおかたの根拠であろう。

 では,「叙述と文言」はどうなっているか。もう一度引用する。

 「故,斬りたまひし刀(たち)の名は,天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ,亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ」。

 「刀(たち)の名は・・・」イツノオハバリ。

 ごらんのとおり,単なる剣の名でしかない。剣の神だとは言っていない。神が宿っているのでもない。

 古事記ライターは,カグツチの血から成った神を整理し,さらにカグツチの「死体」から成った神を整理した最後に,その切った剣の名を書きとどめたにすぎないのだ。

 だから,タケミカヅチが,「イツノオハバリという剣の神」の子というのは,間違いなのだ。
 この点,どの学者さんも,はじめからイツノオハバリが剣の神であると決めてかかっている。


むしろフツヌシが剣の神だ

 日本書紀や古事記には,いろいろな剣が出てくる。剣によって,神が宿ることもあるし,単なる即物的な剣であることもある。

 イザナキがカグツチを切った剣は,「十拳劔」であり,その固有名詞がイツノオハバリだというにすぎない。

 そのイツノオハバリは,イザナキが黄泉国から逃げるとき,「黄泉軍」を後ろ手に切った「十拳劔」のことであろう。

 いずれにせよ,神ではない。単なる,即物的な剣として「叙述」されている。

 そして,スサノヲが誓約の場面で持っていたのも,八岐大蛇を切ったのも,「十拳劔」。単なる剣だ。
 八岐大蛇から出てきた剣は,「草薙の大刀」。これも,単なる剣に名前があるにすぎない。

 問題は,以下の「叙述と文言」だ。

 古事記の神武記には,タケミカヅチが再降臨を命令されて,「僕は降らずとも,專らその國を平(ことむ)けし横刀あれば,この刀を降すべし。この刀の名は,佐士布都神と云ひ,亦の名は甕布都神と云ひ,亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。」という場面がある。

 ご覧のとおり,タケミカヅチが国譲りという名の侵略の際使った剣は,フツヌシという剣の神だった。


イツノオハバリを剣の神とする古事記の「叙述」は間違っている

 イツノオハバリに関する「叙述と文言」は,この神武記の「叙述と文言」とは,明らかに異なる。

 これは,タケミカヅチを剣の神であり雷神でもあるとして,フツヌシを無視する,古事記のおかしさでもある。

 それは,「フツヌシとタケミカヅチの異同」で後述するが,少なくとも,カグツチ「殺し」の場面でイツノオハバリという剣が登場していたことを前提に,タケミカヅチがイツノオハバリの子であり剣の神であるとする古事記の「叙述」は,間違っているのだ。


イザナキ・イザナミ神話は古層の伝承である

 日本神話の形成過程で述べたとおり,「イザナキ・イザナミ神話」は,日本神話の古層にある伝承である。

 これに対し,「国譲りという名の侵略」伝承の根幹は,神武天皇が「東征」して,ヤマトに入ってのち,そこにいた出雲の神々を,神話の表舞台から退場させるために再構成された神話にすぎない。

 古事記ライターが,イザナキによる「カグツチ殺し」の場面に,タケミカヅチがイツノオハバリ(剣の神)の子であると書けなかったのは,古来の伝承に,そうした伝承がなかったからだ。

 古事記ライターは,「カグツチ殺し」の場面で,イツノオハバリが剣の名(神ではない)であることを,ちらっと書くにとどめた。そこまでだったのである。

 で,「国譲りという名の侵略」の場面で,タケミカヅチがイツノオハバリの子であると,書いてしまった。


日本書紀のフツヌシとタケミカヅチ

 第5段第6の一書の「カグツチ殺し」の場面では,イツノオハバリが剣の名(神ではない)であることさえ書いてない。タケミカヅチ等の神々が,血から生まれたというだけだ。

 しかし,「国譲りという名の侵略」の場面で,初めて,タケミカヅチがイツノオハシリ(イツノオハバリ)という神の子孫であるとされる。

 ただ,古事記と違って,これが剣の神だとは言っていない。
 だから,タケミカヅチがカグツチの血から成った(すなわち剣から生まれたのではない)という原則は,貫かれているのである。

 日本書紀における剣の神は,フツヌシだからだ。この神が,国譲りという名の侵略の主人公になる。
 この点は,「フツヌシとタケミカヅチの異同」で,後述する。

 タケミカヅチが剣の神だと言いたかったのが古事記である。


日本書紀第5段第6の一書もタケミカヅチが血から生まれたとしている

 念のため,日本書紀を検討しておこう。第5段第6の一書はどうなっているか。

 「復(また)劒の刃より垂る血」。

 「復(また)劒の鐔(つみは)より垂る血,激越(そそ)きて神と爲る」。

 「復(また)劒の鋒(さき)より垂る血,激越(そそ)きて神と爲る」。

 古事記と同様である。カグツチの血から,神が生成している。決して,十握剣から神々が生成したのではない。

 「十握剣」は,その刃先か,根元かという,血が滴った部位との関係で意味があるだけであり,決して,剣から神が生まれたという伝承ではない。

 だから,日本書紀第5段第6の一書によっても,タケミカヅチは剣の神の子でも,剣の神でもない。


カグツチの血から成った他の神々もすべて剣の神の子になってしまう

 ところが古事記ライターは,国譲りという名の侵略の場面で,突然,タケミカヅチはイツノオハバリ(じつは十握剣の単なる名前)の子だと主張するのである。

 ま,それはいいとしよう。
 そうした伝承があったのだと,強情に言い張る人がいることは,十分予想できる。

 では,こう考えよう。

 タケミカヅチがイツノオハバリの子であり,剣の神の子であるとすると,どうなるか。

 上記した,カグツチの血から成った神々すべてが,剣の神の子だということになる。
 また,剣の神の子が,なぜ,雷神をも兼ねるのだろうか。


古事記の叙述と矛盾をきたす

 古事記ライターの論理によると,これら神々すべてが,カグツチの子ではなく,イツノオハバリの子になってしまう。

 それでいいのか。

 古事記ライターは,そんなこと,言っていないではないか。あたかも,イツノオハバリの子は,タケミカヅチ1人だけという書き振りではないか。

 よくないとしたら,誰が悪いのか。
 もちろん,古事記ライターである。

 私の意見。
 これは,古事記ライター自身の矛盾であり,古事記ライターの信用を落とす,恥ずかしい叙述である。


カグツチ殺しの場面で生成される神々は剣の神の生成になっていない

 念のため,古事記のカグツチ殺しの場面を振り返ってみよう。
 古事記において,カグツチ殺しによる神々の生成が,剣の神の誕生としてまとめられているのか。

 前述したとおり,まったく否である。

 古事記は,大きく分けて,

@ カグツチの血から生まれてきた神,

A 殺されたカグツチの身体から生まれてきた神,

に分けて描写し,その最後に,剣の名がイツノオハバリであると,本当にチラッと,付け加えているのだ。

 構成全体が,剣の神の生成になっていない。
 最後の付け加えも,切った剣の名前を明らかにしたにすぎない。

 上記Aなどは,カグツチの身体から生まれてきた神々であり,剣とは何の関係もない。


明々白々の矛盾を内包するのは古来の伝承ではない

 明々白々の矛盾を示されても,伝承とはそういうものである,矛盾があるからこそ古いのだ,と強情に言い張る人がいることも,まだまだ十分予想できる。

 まだ,私の反論が足りないようだ。

 まず,伝承というものの,あり方の問題。

 伝承は,口承により鍛えられていくものだ。口承の都度,矛盾が訂正され,洗練されていく。

 おじいちゃん,それ,おかしいよ。血から生まれたから,カグツチの子だよ。剣から生まれたんじゃないよ。剣の神の子というのはおかしいよ。という指摘を受けながら,リファインされていくのが,伝承だ。

 これについて私は,何度も言及してきた。古事記の「叙述と文言」は,いつでも,伝承という歴史過程で,鍛えられていないのであった。

 一見して明らかな矛盾。誰にでも指摘できるような矛盾。これが古事記の特質だ。

 タケミカヅチが,剣の神イツノオハバリの子だという伝承は,単なる誤りであり,古事記ライターの勇み足であり,古来の伝承ではない。


イツノオハバリが父であるというのは学者さんもおかしいと考えている

 私がこんなことを言っても,まだまだ信じようとしない人がいるから,古事記の世界は,いつまでたっても闇の中だ。

 私の見解は突飛だろうか。「古事記神話を笑う」を笑う人もいるだろう。

 だが,じつは学者さん自身も,「変だね。」くらいには考えているのだ。

 古事記の世界は,権威の世界である。権威に弱い人がたくさんいる。
 私は,学問の世界で権威に頼るのを潔しとはしないが,一応,述べておこう。

 「尾羽張を建御雷神の父とするのはおかしいようだが,刀によって成ったということでその刀の神の子としたのである」(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,44頁)。

 この学者さんに,直接確かめたわけではないが,たぶん,私がおかしいと考えたのと,同じことを考えているんでしょう。

 カグツチの血から成ったのだから,タケミカヅチの父親は,イツノオハバリではないはずだと。


でも学者さんの追究はいまひとつ甘かった

 でも,この学者さんは,「刀によって成ったということでその刀の神の子としたのである。」としてしまった。

 上記フレーズの冒頭に,「古事記ライターは」の一句を入れれば,完璧だ。

 問題解決になっていない。解決の放棄だ。おかしいと思うのなら,なぜそれを追究しようとしないのか。

 おかしいと思った直後,古事記ライターの意図に歩み寄ってしまったがため,せっかく捕まえた素晴らしい視点を,そのまま腐らせちゃったように思える。

 カグツチの血をめぐる,助手論文の1つも書けたであろうに。


古事記をどこまで信用するかという問題と日本神話解釈の相克

 じつは,ここらへんに,日本神話解釈における誠実性,徹底性の問題があるのだ。

 「古事記の権威をどこまで信用するか」という問題と,「じつは古事記の叙述は結構いい加減なんだよね」という問題とのせめぎ合いが,ここに,端的に表れている。

 学者さんも,悩んでいるのだ。

 古事記は,それほど全面的に信頼できる書物ではない。それは,学者さんたちが一番よくわかっているはずだ。
 2009年4月初めに出た,「新版古事記成立考・大和岩雄・大和書房」を読んでも,明らかだ。

 注釈書を書いた学者さんは,矛盾をきちんととらえたのに,次の瞬間,結局,古事記に歩み寄ってしまった。
 そのために,古事記の正体を追究することができなかった。

 学問は,発展しなかった。


叙述の位置もおかしい

 で,私なりの,読者としての「読み取り」の成果を,もう少し付け加えておこう。

 まず,叙述の位置。

 古事記の叙述によると,カグツチ殺しの場面では,@カグツチの血からタケミカヅチが生まれる一方,A「十拳劔」がイツノオハバリと呼ばれている,というだけである。

 それが,国譲りという名の侵略の場面で,初めて,タケミカヅチがイツノオハバリの子だとされているのだ。

 その間,テキストにして35ページも跳ぶ。

 古事記ライターは,神の羅列と整理に細かい人だ。
 なぜ,カグツチ殺しの場面で,タケミカヅチがイツノオハバリの子だと書かなかったのか。
 そうした伝承を知っていたのであれば,なぜそこで書かないのか。

 前にも言ったとおり,書けなかったのだ。

 私は,国譲りという名の侵略の場面になって,タケミカヅチを剣の神にしたい,主役にしたい,と念じていた古事記ライターが,突如,タケミカヅチはイツノオハバリの子供だと書いてしまったのだと考えている。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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