日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さてアマテラスが登場したところで,日本書紀第5段本文を,きちんと検討しておこう。 ここから,日本神話の体系的理解ができるはずだ。 日本書紀第5段本文では,禊ぎではなく,国生みと同じく遘合(みとのまぐわい)により,3神が生まれてくる。 イザナキとイザナミは,「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と,気張って,この3神を生む。 しかし,じつは,天の下を支配する支配神は,生まれてこなかったのだ。 まずここを,しっかりと把握しなければならない。
日の神(いわゆるアマテラス)は,あまりにも出来のよい子だったので,イザナキとイザナミは「此の国に留めまつるべからず」と考え,早急に天上界に送り,「授くるに天上(あめ)の事を以てすべし」としてしまう。 これは,天上界の政事(まつりごと)を授けたと解釈されている(小学館・新編日本古典文学全集・日本書紀1,36頁)。 言ってみれば,天上界の事務をとらせた,天上界を支配させたということだろう。 天上界に送って,当初の目論見どおり,「天の下の主者(あめのしたのきみたるもの)」として君臨させたという意味ではない。 月の神(いわゆるツクヨミ)も,光り麗しいこと日の神に次いだので,同様に天上界へ送り,「日に配べて(ならべて)治す(しらす)べし」としてしまった。 治らすのは,やはり天上界だ。天の下ではない。 第3子となった蛭児は,棄てられた。たぶん,身体障害児だったのだろう。
そして,天の下の支配者として期待された第4子スサノヲは,乱暴者ゆえに根国に追放されてしまう。 「以て宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず。固に(まことに)当に(まさに)遠く根国に適(い)ね」と命ぜられるのだ。 天の下に君臨することを期待していたが,失格だというのだ。 結局,天の下を支配する神は,生まれなかったのだ。 「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と,気張っていたけれど,そんな神は生まれなかった。 天の下を本当に支配するのは,第9段の国譲りという名の侵略と,天孫降臨を待たなければならない。 第9段の国譲りという名の侵略と天孫降臨は,天上界の神々が,いまだに天の下を支配していないという前提に立っている。 だから,日本書紀第9段までは,「天の下を支配する者の不在の時代の物語」なのである。
「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と気張って始まったのに,なぜ「主者」が決まらなかったのか。 じつはここに,日本書紀編纂者の巧妙な仕掛けがあると思うのだ。 私は,アマテラスよりも,スサノヲに注目する。 前述したとおり,少なくとも第5段では,天の下を支配する者が決まっていない。この空白は,第9段の国譲りという名の侵略といわゆる天孫降臨によって,初めて埋められることになる。 そして,この第5段と第9段とに挟まれた,第6段から第8段までの3段の物語は,じつは,スサノヲの物語なのだ。 スサノヲが主人公として活躍する物語である。 天の下を支配する者として失格となったスサノヲは,じつは,「天の下を支配する者の不在という時代の主人公」だ。そして,国譲りという名の侵略と天孫降臨によって,天の下を支配する者が確定する。
ここで,第6段以降の見通しを述べよう。 第5段で根国への追放が決まったスサノヲは,まっすぐ根国に行かない。 第6段では,天上界へ行って日の神(いわゆるアマテラス)に会い,誓約(うけい)によって数々の神々を生む。 そのうちのアメノオシホミミ(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊=まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が,天孫降臨の主人公たるニニギの父親となる。 すなわちスサノヲは,天孫の祖父になるのだ。 一方で,スサノヲは出雲に降り,国の基礎を作り,その子孫オオナムチが国を作る。いわゆる,オオクニヌシの国作りだ。 国譲りという名の侵略と天孫降臨の正当性の根拠は,ここにある。
要するに,オオナムチ(大己貴命,スサノヲの子)やコトシロヌシ(事代主神)とは別の,スサノヲの血をひいた天上界系の神が,支配者として成り代わるだけなのだ。 スサノヲの血を受け,誓約によって生まれた神々が,そのオオナムチ(オオクニヌシ)に成り代わって,葦原中国の支配者となる。 こうした,「壮大なる血の交替劇」が,日本神話の本質なのである。 元来,出雲の神だったスサノヲを,じつはイザナキとイザナミが生んだ天上界系の神に祭り上げた真の意図は,ここにある。 第9段で国譲りという名の侵略と天孫降臨が行われるが,スサノヲの孫が支配するという意味で,支配者の交替にすぎないという理屈が,第6段で用意されるのだ。 私はこれを,「正当性の契機」と呼んでおく。 なお,この「正当性の契機」は,血の「正統性の契機」でもある。どちらの意味をも包含した意味で使っているが,旧版にしたがって,「正当性の契機」と呼んでおく。
一方,天の下を用意するのは,スサノヲと,その息子オオナムチだ。 第9段は,国譲りという名の侵略と天孫降臨のお話だった。その前提として,「支配の対象たる天の下」が造られなければならない。 イザナキとイザナミが作ったのは,あくまでも,自然的存在としての国土と海,川,山,木,草にすぎない。 第8段になると,祓われて追放されたスサノヲは,出雲国に行く。 そこで八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する。めでたく八岐大蛇を退治したスサノヲは,クシナダヒメ(奇稲田姫)を連れて出雲の清地(すが)に至る。そこで遘合によりオオナムチを作る。 そして宮をつくり,アシナヅチ(脚摩乳=あしなづち),テナヅチ(手摩乳=てなづち)を「宮の首(おびと)」として,根国にまかる。 子孫をつくり,宮をたて,宮の長官を任命したということは,建国の基礎を作ったということだ。 すなわちスサノヲは,出雲国の建国者である。これは,日の神(いわゆるアマテラス)の弟が地上界に降臨して国を作ったという話だ。 私はこれを,「天弟降臨(てんていこうりん)」と呼んでおく。
第8段第6の一書によれば,オオナムチは国を巡って,「成らざるところ」を完成させる。 そして,「遂に出雲国に到りて」,「葦原中国」は荒れていたが,自分が平定したので帰順しない者はいないと,堂々と言(こと)あげする。 さらに,「今此の国を理むるは(おさむるは),唯し吾一身(われひとり)のみなり。其れ吾と共に天の下を理(おさ)むべき者,蓋し有りや」と述べる。 この日本書紀の叙述からすれば,出雲は,国を平定して最後にやってきた,1つの国にすぎない。故郷に帰ってきたのだ。
第8段第6の一書は,明らかに,オオナムチが天の下全体を作ったという話を展開しているのだ。 これを,「出雲国作り」と呼ぶのは,誤解である。 この点については,ありとあらゆる根拠がある。のちに,「偉大なるオオナムチ神話」,「三輪山のオオナムチ」などで,まとめて取り上げる。 話は跳ぶが,東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称える(神武紀31年4月)。 日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとしている。 そしてそれに並べて,次の事実を紹介している。 すなわち,神武天皇の支配の前に,3人の支配者がいたのだ。オオナムチは,ヤマトを含む天下全体を作り,征服していた。 天の下の支配者は不在だった。しかし天の下を造った神が,確かにいた。支配する対象としての,人間社会が作られた事情を述べなければならない。 それが,第8段なのだ。
では,第6段と段8段に挟まれた,第7段はどうなるのだろうか。 スサノヲは天上界で暴虐を働き,有名な天石窟(あめのいわやど)の話となる。これによりスサノヲは,天上界を追放される。これが第7段のお話だ。 学者さんたちは,第7段は,アマテラスを中心にした神話だとしている。 アマテラスの権威を高からしめるために用意された段だと考えている。 しかし,「叙述と文言」をよく読むべきである。
ここでのアマテラスは,あまりにも女性的だ。 第7段本文では,機織りの「梭(かび)」(機織りの道具。横糸を通す管のついているもの)で身を傷つけたことが原因で,天石窟に籠もってしまう。 よほど,か弱い神として描かれている。 そして,自分が隠れたことで世の中は真っ暗闇のはずなのに,なぜこんなに楽しくやっているのだろうと思い,磐戸を少し開けて様子をうかがう。 隠れてはみたけれど,やっぱりみんな困っているのかな。自分をとり巻く世間の様子は,ちょっと気になるのヨネ。他でもない自分のために,おどけたり踊ったりしてくれる人がいるんだものね・・・。 ちょっと面白そうね,と岩戸を開けると,男神タチカラオ(手力男神=たちからおのかみ)が腕をつかんで,引き出してしまった。 アマテラスとて所詮か弱い女だから,やっぱり,有無を言わせぬ強引な男が必要だったのさ。 とても最高権力者とはいえない。あまりにも情けない。
また,もし最高権力者であるならば,天石窟から出てきた被害者アマテラスが,自らスサノヲを罰するはずじゃないか。 そうなっていない。スサノヲを追放するのは,他の神々だ。 第6段でスサノヲと誓約をした,剛毅なアマテラス。 この描写に格段の違いがあるのはなぜだろうか。はっきり言って,ちゃらんぽらんな描写だ。 こうしたアマテラスを,いろいろな側面をもった神様だと解説する人がいる。 なぜちゃらんぽらんなのか。
じつはアマテラスは,五穀と養蚕の神だ。弥生の神だ。 アマテラスの命令で葦原中国に派遣されたツクヨミは,飯と魚と獣肉でツクヨミをもてなそうとするウケモチノカミ(保食神=うけもちのかみ)を殺す。 その死体から,五穀が生まれる。 アマテラスは,その五穀を喜んで,「顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の,食ひて(くらいて)活(い)くべきものなり」,すなわち被支配者たる人民(ひとくさ)が食べるものであると定めた。 そして,「天邑君(あめのむらのきみ)」,すなわち天上界における村の長を定め,「天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)」を作った。 また,蚕も飼い始めて,養蚕が開始された。こうしてアマテラスは,五穀と養蚕の創始者となった。 ところで,第7段本文のアマテラスも,天上界で五穀を栽培し,養蚕を営んでいる。 第7段のアマテラスもまた,五穀と養蚕を営む神であり,弥生の神なのである。
ところが,誓約に勝ったスサノヲは,調子に乗って,アマテラスが大切にしていたこれらの田をめちゃくちゃにし,新嘗の祭りの神聖な場所に糞をし,冒涜した。 さらに,アマテラスが神衣(かんみそ)を織っているところへ,皮をはいだ天斑駒を放り投げ,機織りを妨害した。 すなわちスサノヲは,五穀と養蚕を冒涜する神であり,弥生文化を理解しない邪神であるからこそ,天津罪(あまつつみ)を負って祓われる神になるのである。 だからこそ,葦原中国に対する侵略が開始されるのだ。 そのスサノヲが,次の第8段本文では,出雲に降って国の基礎を作る。それは,弥生文化以前の文化世界なのであろう。 そして,その子孫であるオオナムチが,いよいよ,葦原中国を建設することになるのだ。 こうして,国譲りという名の侵略の対象が用意される。 第7段は,「出雲侵略の理由と口実」が用意される段だということができよう。
私の考えでは,第7段でも,スサノヲが主人公だ。 第7段でアマテラスは,田を作り機を織っている。五穀と養蚕の文化の体現者だ。これに対しスサノヲは暴虐を働く。 これは,アマテラスに対する政治的反逆ではなく,アマテラスの文化を否定する行為だ。 その,祓えと追放こそが,第7段の主要テーマである。 たとえば第7段第3の一書におけるスサノヲは,汚らわしいので祓われる神として描かれている。 要するに第7段は,五穀と養蚕という弥生文化に反逆するスサノヲを描くことにより,国譲りという名の侵略と天孫降臨を行う口実を用意したのだ。 天石窟の話は,その過程に出てくるエピソードにすぎない。アマテラスは,脇役にすぎない。
だから,第6段,第7段,第8段を通じて,すべて,スサノヲが主人公である。 私の考えは突飛だろうか。 外国の神話をたくさんたくさんお勉強した学者さんの説よりは,はるかに根拠があると思っている。 何よりもまず,「叙述と文言」である。 第6段本文は,「是に,スサノヲ,請して白さく(もうしてもうさく)」と始まっている。そしてスサノヲは天上に上り,日の神(いわゆるアマテラス)と誓約をして神々を生む。 第7段本文は,「是の後に,スサノヲの為行(しわざ),甚だ(はなはだ)無状し(あづきなし)」と始まっている。そして,スサノヲが暴虐を働き,天石窟のエピソードがあって,天上界を追放される。 第8段本文は,「是の時に,スサノヲ,天より出雲国の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります」と始まっている。そして,出雲に降って国の基礎を作ったという話につながっていくのだ。 いずれの段もスサノヲの動静から始まっている。主語も主人公もスサノヲだ。
叙述の焦点がスサノヲにあること,主人公がスサノヲであることは,論ずる余地もなく明らかだろう。 日本書紀の神話をまとめた者の立場に立って考えてほしい。伝承を編纂した人の立場に立って考えてほしい。スサノヲこそが,主題だったのだ。 要するにスサノヲは,天の下の支配者が不在の時代に,アマテラスと誓約をして,将来,天の下を支配する神々を用意し(第6段,正当性の契機),天の下侵略の口実を与え,支配の口実を与え(第7段),支配される天の下を用意した(第8段)。 これが,日本神話の構造だ。 スサノヲは,第9段の国譲りという名の侵略と天孫降臨に向かって,「狂言回しの役割」をさせられている。 そしてそれは,日本神話にとって,必要不可欠の物語なのであった。
以上が,日本神話における「スサノヲ神話の本質」だ。 第5段までは,神の生成,神生み,国生みと,お話の舞台を提供しただけである。 そして,日本神話という物語の焦点は,国譲りという名の侵略と天孫降臨だ。 スサノヲ神話は,それらに挟まれて,正当性の契機と,理由と,侵略の対象を設定する,重要な物語となっている。 スサノヲ神話こそが,「日本神話の結節点」である。 そしてスサノヲは,要するに,日本神話において利用されているだけなのだ。 誰によって?日本書紀や古事記に残る伝承それ自体が,そうしたものとして作られているとしか言えない。 だからこそスサノヲは,追放されたくせに,アマテラスに暇乞いをするなどと言って天上界に上り,神々を生成し,暴れて天の石屋の騒動を引き起こしたうえで,出雲に降るという,大きな大きな道草をする。
出雲国と根国との関係について,ひとこと言っておこう。 古事記において,祓われて追放されたスサノヲは,「出雲国の肥の河上」に行く。ここから,根国は出雲にあるとするのが一般的なようだ。 しかし,出雲の神スサノヲは,利用されているだけである。本来,「高天原」に旅行などしなかったスサノヲが,戻っていくとしたら,出雲しかない。当然である。 そして一方,祓われた者が行くところが,根国なのである。 だから,出雲国の地下に根国があるということにはならない。
ある学者さんは,第8段で出雲神話を持ち出すのは唐突ではないか,話がきちんとつながっておらず作為的ではないか,と述べている。 しかし,私のように考えれば,何の問題もない。 日本神話を伝承した人々は,出雲神話を,極めて有機的に日本書紀の神話の中にはめ込んだ。 支配を正当化する神々を生んだ(第6段)あと,支配の理由を語る(第7段)。さらに,支配される国を語る(第8段)。 こうして,国譲りという名の侵略と天孫降臨(第9段)になだれ込んでいく。 流れよく,周到に準備された構成だ。
「正当性の契機」から始まった日本神話は,こうして,出雲系の神々が隠れることによって,一段落する。 日本神話の本質は,こうした,「壮大なる血の交替劇」にある。 先に論証したとおり,日本神話の故郷は,南九州の吾田にあった。 そこに育った神武天皇は,日本神話の源流を背負って「東征」する。そして,ヤマトに落ち着く。 しかしそこにはすでに,大八洲国すべてを支配するオオナムチ(オオクニヌシ)がいた。スサノヲの子孫だ(オオクニヌシの支配領域を参照)。 これらの神々を,神話の表舞台から退場させなければならない。 そのためには,スサノヲをアマテラスの兄弟とし,「誓約」というトリックを使って,「正当性の契機」となるスサノヲの子孫を,天上界に残さなければならない。 それが,「誓約による神々の生成」場面の本質的意味である(詳しくは後述する)。 こうして,天上界系の子孫を残したスサノヲは,静かに根国へ行き,神話の表舞台から去る。 そして,国譲りという名の侵略(第9段)が終われば,オオナムチもまた,「百足らず八十隈に,隱去れなむ」と言って,「隠れる」。 こうして,出雲系の神々は,日本神話の表舞台から退場させられる。
日本書紀編纂者は,出雲神話,正確に言えば出雲だけでなく,ヤマトを含む天の下全体を造った神の神話を無視できなかった。 スサノヲとオオナムチの神話は,当時の人々の常識であり,歴史書としての性格上,これを無視するはできなかった。 だからまず,スサノヲを天上界の神として取り込まなければならない。オオナムチも含めた出雲神話を取り込まなければならない(第6段,正当性の契機)。 取り込みはするが,アマテラスが体現する五穀と養蚕の文化に反逆する,祓われる神として描かなければならない(第7段,侵略の口実)。 そして,祓われた結果,出雲に降って現実社会を作るのだ(第8段,侵略の対象の準備)。 これが,第6段から第8段までの展開だ。こうなれば,あとは,第9段で征服するだけだ(第9段,国譲りという名の侵略と天孫降臨)。
では,第5段まではどうなるのか。 すでに検討したところから,もはや明らかであろう。 天地が別れ(第1段),そこに生まれたペア神が発展してお互いを誘い合うイザナキとイザナミが生まれ(第2段,第3段),地理的,自然的存在としての国が生まれた(第4段)。 こうして,「日本神話の舞台装置」が整うのである。 さらに,第5段で,いよいよ天の下の主を生もうとするが,じつは生まれず,「天の下の支配者不在の時代」が続いていく。 その時代の主人公は,何度も言うとおり,スサノヲであった。 なお,古事記の国生みで,@ 神生みとあわせて「神国日本」の生成を意図していること,A オオクニヌシにより初めて人間社会としての国が用意されることは,すでに述べた。
では,ひるがえって,日向神話と呼ばれる第10段はどうなるのか。 のちほどじっくりと検討するが,見通しを述べる意味で,簡単に触れておこう。 先に論じたとおり,日本書紀の神話の故郷は,出雲神話を除けば,南九州の吾田地方だった。 出雲神話以外の日本神話は,南九州の吾田地方に住んでいた人々が,代々伝えてきた神話なのだ。 だからこそ天孫は,自分たちの故郷の近く,日向に降ってきた。 だからこそ,降臨後は吾田地方にやってきて,そこで子孫を作って栄えるのだ。 第10段は,海幸彦=海人=土着の海洋漁労民と,山幸彦=山人=朝鮮からやってきた大陸系の人々との話である。 第10段はそうした神話であり,吾田出身の神武天皇の出自を語り,「東征」につなげるうえで,必要不可欠の段である。
そしてそれは,アマテラスとタカミムスヒ(高皇産霊尊)という,2系統の神話伝承が混淆したことを示している。 だからこそ第10段本文は,「兄火闌降命,自づからに海幸有(ま)する。弟ヒコホホデミ,自づからに山幸有(ま)する。」と,海の神と山の神の対立から始まる。 詳しいことは,「日向神話の体系的理解」などで,後ほど述べる。
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