日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
それよりも問題なのは,アマテラスが「忌服屋(いみはたや)」で「神御衣(かんみそ)」を織っていたという点だ。 これは,有名な「叙述と文言」だ。 これを根拠に,アマテラスは,本来,神に仕える巫女であり,「祭る神が祭られる神になった」という「観念」が広まった。 そうした神話伝承が,たくさん研究された。論文もたくさんあるし,これを無前提の前提として論ずる文献も多い。 この問題にかけた学者さんたちの人生や労力を考えると,気が遠くなってしまうほどだ。 しかし本当だろうか。
一度頭を真っ白にして,原理原則から考えてみよう。 アマテラスは,「五穀と養蚕」の創始者だ。だからこそ,「高天原」で田を作り機を織る。 私は,労働する神が本当に最高神なの?という疑問をもっているが,日本書紀も古事記も,アマテラスを労働する神として描いているのだから,しかたがない。 その,労働する神,アマテラスが機を織っていて,何が悪い。 人民(ひとくさ)が着る衣類は「衣」だろうが,神さんが着る衣類だから「神御衣」になる。 それだけのことだ。 この問題には,これ以上答えようがないのだ。
これだけでは,誰も信じてくれないだろう。 たくさんたくさんお勉強している人に対しては,もうちょっと反論しないと,信じてもらえないだろう。 そこで,日本書紀の「叙述と文言」から反論してみよう。 そこには,イメージ豊かなアマテラス像が残されている。そこから考えてみよう。 アマテラスは,愛情細やかな母親なのだ。 その役割は,降臨しようとする子,アメノオシホミミ(天忍穂耳尊=あめのおしほみみのみこと)を心配し,こまごまと世話をやく母親だ。
まず第1に,「宝鏡」をアメノオシホミミに授けて,アマテラスを見るがごとくこの鏡を見て,あなたがいる同じ床,同じ大殿に置きなさいと指示する。 第2に,一緒に降ることになったアメノコヤネ(天児屋命=あめのこやねのみこと)とフトダマ(太玉命=ふとだまのみこと)に対し,大殿に仕えて,アメノオシホミミをきちんと護りなさいと命令する。 第3に,食事の心配をして,高天原で育てていた「斎庭の穂」をアメノオシホミミに与える。 第4に,男1人ではなにかと心配だからと言って,ついにタカミムスヒの娘,ヨロズハタヒメ(万幡姫=よろずはたひめ)と,結婚させてしまった。 これは,侵略の命令者ではなく,子供を送り出す母親の姿そのものだ。 私は,愛情細やかと言ったが,ここまでくると,子を溺愛して母子一体型になってしまった親子だ。
これだけ細やかで家庭的なアマテラスが,機を織っていて何が悪い。 家族のために機を織っていて何が悪い。むしろ,母親として織るのが当たり前だ。 古代から機織りは女性の仕事だった。 養蚕をする母だから,母として機を織る。神々の世界のお話だから,その着物は,当然「神御衣」と呼ぶことになる。 ただ,それだけのことではないだろうか。 日本書紀編纂者も古事記ライターも,「祭る神が祭られる神になった」などという,こむずかしい理屈など,何も考えていない。
上記したとおり,「神御衣」には何の意味もない。 では,「忌服屋」という古事記の文言に意味があるのだろうか。 その意味は,「清浄なる機殿」 神さんが機を織るから,清浄な場所とされるだけである。 すなわち,神さんだから, 衣 → 神御衣(神衣) になっただけである。
学者さんたちは,神御衣を織ることは神に仕える巫女のする仕事であるから,アマテラスの原像は巫女であったという。 冗談じゃない。 それは,人間社会の現実じゃないでしょうか。 人間社会の現実を「高天原」に映し出しているのが「日本神話」なのでしょうか。 ちゃっかり,太占で占いをしちゃうのが,古事記の神々だった。 人間がする,下賤で卑俗的な行為が,占い,太占である。 そうなると,学者さんや古事記ライターの立場は,一貫しているのかな。
神の世界には,神を祭る巫女などいない。神の世界は神の世界であって,絶対的な世界だから,神をいつき祭る神などいない。 神をいつき祭るのは,愚かな人間だ。頼るものがないから,最後には神を頼るのだ。人間の世界と神の世界との間には,厳然たる一線がある。その一線を曖昧にして踏み越えてはいけない。 そうすると,神が神でなくなってしまうからだ。 神に仕えて機を織る巫女的な神が,神の世界にいるなんて,私は,馬鹿馬鹿しい幻想だと思う。 要するに,人間世界の習俗を神々の世界に投影して解釈しようとする,方法論自体が間違っているのだ。
いや,神話解釈の方法論にとどまるものではない。 神が太占を行うとか,神を祭る神とか,巫女神とかが幅をきかせる世界。 そんな神話伝承があるとしても,それは,神の世界と人間世界が混同していく,「神話の崩壊過程」,「神話が腐っていく状況」,「神話の末期的症状」ではなかろうか。 人間が,神の世界を土足で歩き回って,「恬として恥じない」時代精神。 これは,神を忘れた,かなり後代の精神状況であろう。 「風土記」という文献がある。素朴である。これは,自然の中に神を見ているようなところがある。神が,生き生きと活動している。 頭でっかちの現代人は,地名起源譚など,どうせ後代のこじつけだと言って,笑って,見向きもしない。 しかし,「祝詞の言い回し」を多用する古事記の,「恬として恥じない」時代精神と比べたとき,どちらが古いだろうか。 私は,古事記が素朴だという人を,決して信用しない。
「神御衣」を織っていたという叙述から,こんな大騒動が起きたようだ。 私は,「叙述と文言」から出発せよと,口を酸っぱくして繰り返しているが, 「神御衣」を織っていたという叙述に,どれほどの意味があるのだろうか。 日本書紀第7段第2の一書を読んでみよう。 この異伝は,日の神が「機殿(はたどの)」にいたときに,スサノヲが,生剥ぎにした斑駒(ぶちこま)を投げ入れたとしているが,その時,日の神が神衣を織っていたのかどうか,じつははっきりしていない。 機殿にいたのだから機を織っていたのだろうが,そんなことは,もはやどうでもよいのだ。 ここでの問題は,機殿を汚し,あるいは妨害する,農耕文化に対する反逆が問題なのである。 言ってみれば,第7段本文で,アマテラスが機を織っていたという描写は,行きがかり上,入った叙述にすぎない。 あってもなくてもよい描写だったと言える。 だから,こんな些末的な叙述をもとに想像をふくらますのは,新たなる神話の創造であり,日本神話をゆがめるだけだと言うしかない。
アマテラスが神を祭る神だとしたら,アマテラスが祭っていたのはいかなる神なのだろうか。 日本書紀を読む限り,決してタカミムスヒではない。 何度も述べたとおり,日本書紀におけるタカミムスヒは,第9段まで,まったく無視されている。 第1段第4の一書のさらに異伝で,異伝中の異伝としてほんのちょっと紹介されるだけで,その後まったく登場しない。アマテラスが機を織る第7段ではもちろん,第8段まで,まったく無視だ。 神話上の神としての位置づけさえされていない。 確かに,第7段第1の一書で,アマテラスを誘い出す方策を考えるオモイカネ(思兼神)の父として言及される。しかし名前が出てくるだけだ。 たったこれだけだ。
詳しく言えば,「皇祖神の2元性」をどうとらえるか,という問題になる。 これについては,日本書紀について,すでに検証した。 そうした日本神話なのだから,アマテラスがタカミムスヒをいつき祭っているはずがない。 そんな,「一貫した神話伝承」があると信じているなら,それは滑稽だ。日本書紀や古事記の「叙述と文言」を読んでいない人だ。 日本神話のどこに,タカミムスヒをいつき祭るアマテラスがいたか。そんなシチュエイションが,どこにあったか。 日本書紀第9段の,国譲りという名の侵略と天孫降臨で,突如タカミムスヒが命令神になるから,何となく,「タカミムスヒがエライのだ」と考えているだけでしょうが。皆さん。 しかしその理由は,他にあるのだ。私はそれを検証した。これ以後も検証するだろう。 日本書紀編纂者は,現代の学者さんたちがあれこれ論ずるような,高尚な神話体系など,何も考えていない。 アマテラスが,なぜタカミムスヒを神としてあがめ奉るのか。私には,まったく理解できない。
古事記はどうだろうか。 アマテラスがタカミムスヒを祭っていたとするならば,国譲りという名の侵略と天孫降臨で,「2神並立」して命令するのと矛盾するではないか。 私は,「2神並立」を装ったこけおどしであり,たとえば肝心の「言依さし」を述べる2箇所などでは,意味が通じない文章になっていると考えているが(「古事記における命令神」で後述),それはいい。 とにかく,古事記は「2神並立」,とするのが通説のようである。 古事記ライターもまた,「祭る神が祭られる神になった」などという「観念」など,これっぱかしも考えちゃいないのだ。 日本書紀と古事記の「叙述と文言」をきちんと理解しないと,勝手な妄想があたかもリアクターのように増殖し,勝手な神話を作ってしまうという悪例だ。
さて,ついでに,日本書紀に従って,アマテラスは男か女かという点を考えておこう。 スサノヲは,高天原に上る理由として,「姉(なねのみこと)と相見(あいまみ)えて,後に永(ひたぶる)に退りなむと欲ふ」と述べている。 アマテラスを「姉」と呼んでいる。アマテラスは女のようだ。 「姉(なねのみこと)」という文言はあてになるのだろうか。 「なね」は,広辞苑第4版によれば,「ナノエの約。ナは一人称代名詞。人を尊み親しんでいった称。兄・姉など,男女共に用いる」とある。通説は,我の長という意味だとする。 だとしたら,兄かもしれないし姉かもしれない。決め手にはならない。 しかし,「なねのみこと」というのは,しょせん,後世における訓だ。「姉」こそに意味があるはずだ。だとすれば,やはり女なのだろう。
しかし,原理原則からすればどうだろうか。 すでに述べたとおり,日本書紀第1段本文冒頭は,陰陽2元論で始まっていた。 日本書紀本文も,第4段の国中の柱(くになかのみはしら)を回る場面で,イザナキを「陽神」とし,イザナミを「陰神」と呼んでいる。 男は陽であり,女は陰だ。陽は太陽であり陰は月だ。 だから,アマテラスは陽神であり,本来男でなければならず,ツクヨミは陰神であり,本来女でなければならないはずだ。
叙述も男らしい。 アマテラスは,スサノヲが海を轟かせ,山が吼えるような大音響を鳴り響かせながら天に上ってくるのを見て,弓矢や剣で重武装し,庭の堅い土を踏み抜くほどに踏み,淡雪が舞うように蹴散らかし,雄叫びをあげてスサノヲをなじり問うた。 この日本書紀第6段の叙述は,単にド迫力があるだけでなく,読み下し文で読むと,流麗で気品もある。 場面描写として,よくできた部分だ。古事記ライターは,ここまで文学的な文章は書けなかった。 とにかく,ここでのアマテラスは,まさに男だ。 しかし古代の女性は,積極的に戦闘に参加したという説もある。「女軍」というのが,神武紀に出てくる。 だとすれば,女であることを否定する理由にはならない。
第6段本文には,高天原に上ってくるスサノヲを見たアマテラスが,「髪を結げて(あげて)髻(みづら)に為し」とある。 髻(みづら)は,17,8歳以上の男子の髪型だ。すなわち,戦いに備えて男装したのではないかという推測が成り立つ。 「裳を縛き(ひき)まつひて袴に為して」というところも,同様に考えられる。 広辞苑第4版には,「【裳】・@上代,女子が腰から下にまとった衣。万五「立たせる妹が―の裾ぬれぬ」A律令制の男子の礼服(ライフク)で,表袴(ウエノハカマ)の上に着用したもの。B平安時代以来の女房の装束で,最上衣の唐衣(カラギヌ)の腰から下の後方にまとった服。」とある。 上代では,女性の服だったのだ。女性だったが,戦闘に備えて,動きやすい男の格好にしたのだ。 アマテラスが,「神衣を織りつつ,斎服殿に居(ま)する」(第7段本文)という部分もある。 また,第6段第1の一書は,アマテラスが,「大夫(ますらを)の武(たけ)き備(そなえ)を設けたまふ」と書いている。
そこで,「姉(なねのみこと)」に戻る。 日本書紀編纂者ないしアマテラスは,スサノヲを,一貫して「弟(なせのみこと)」(本文及び第1の一書),「弟(いろせのみこと)」(第2の一書)と呼んでいる。 すなわち,年下の兄弟を,男か女かを区別して呼んでいるのだ。だとしたら,「姉」というのも,年長者をも,男女を区別して呼んだものだろう。 第7段第3の一書では,アマテラス自ら,「吾,婦女(たおやめ)なりと雖も何ぞ避らむ。」と述べている。 日本書紀編纂者は,アマテラスを女神と考えているようだ。
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