日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第30 日本神話のコスモロジー


根国と黄泉国の「文言」が違う

 いろいろと,私の繰り言を述べた。

 なぜかというと,根国(古事記では「根の堅州国」)と黄泉国との関係において,「叙述と文言」の軽視が,はなはだしいからだ。

 これについてはすでに述べたが,くどいようだけれど,「叙述と文言」という観点から,もう一度考えてみよう。

 「根国(古事記では根の堅州国)」と「黄泉国」。何よりもまず,「文言」が違う。これがすべての出発点だ。
 それなのに,これを同一視する見解が通説となっている。


スサノヲはなぜ天に昇れたのか

 実質論をしよう。

 根国,すなわち黄泉国,すなわち死者の国とするならば,死者の国行きを命じられて,すでに穢れてしまったスサノヲが,その後堂々と「高天原」に行けるのがおかしくないか。

 筋が通らない。私はそう考える。

 たんに,根国(=祓われた者が行く国)行きを命じられただけの段階ならば,天に昇れる。

 まだ穢れてはいないからだ。
 穢れるのは,誓約に勝って,天照大神らに乱暴をはたらいて,天つ神々に祓われてからである。


根国と黄泉国の「叙述」が違う

 根国=黄泉国とするならば,根国追放は,「膿わき蛆たかる」国,「蛆たかれころろきて」という世界への追放であり,死刑の宣告になる。

 そんな世界,禊ぎをしなければ,到底生きていけないはずなのだ。

 ところがスサノヲは,根国へ行く前に,「高天原」にいるアマテラスと会って,誓約(うけい)により神々を生成する。

 とんでもなく穢れた神々が生まれてくると思わないか。

 スサノヲは,後述するとおり,祓われた神だ。犯罪と民事と倫理が分離していない社会では,祓われるということは,犯罪と同じだ。

 ある意味で,犯罪者以上に汚れた神の子供だということにならないか。

 私は,どうしても引っかかってしまうのだ。こうして,ものごとの筋を考えようとする私の方がおかしいのだろうか。

 だから,根国は,黄泉国ではない。

 これは,日本神話の「叙述」上からの結論だ。


スサノヲは祓われる神である

 では,根国とは,一体どんな国なのか。これが,黄泉国との「実質的な違い」ということになる。

 古事記の「根の堅州国」を考える前に,日本書紀の「根国」を考えておこう。もちろん,「叙述と文言」だ。古事記だけを読んでいても,何もわからない。

 スサノヲは,「根国」に追放された。
 そこがどんな世界であるか。日本書紀の「叙述と文言」自体が語ってくれている。

 第7段におけるスサノヲは,五穀と養蚕を司るアマテラスに対し,暴虐無道の行為を行う。
 それは,土地の占有,用益,収益等に関する権利を妨害し,灌漑施設を破壊し,神聖であるべき新嘗祭や機織りに対する,不敬の行為だった。

 これらは,延喜大祓祝詞式によれば,ほぼ,農耕や祭りに対する重大な不法行為であり,天津罪(あまつつみ)とされている。

 こうしてスサノヲは,髪ないし手足の爪を抜かれて追放される(第7段本文)。

 この追放は,「青和幣(あおにきて)」や「白和幣(しろにきて)」で「解除(はら)」うものであり,「神逐の理(かむやらいのことわり)」により「逐ふ(はら)」うものだった(第7段第2の一書)。


根国は祓われて追放された者が行く世界である

 スサノヲは,罪穢(つみけがれ)があるので,祓われて追放されるのだ。

 神を祓うのにも,「理(ことわり)」があるようだ。
 「解除(はらえ)」を,直接表現している異伝もある。

 追放されたスサノヲが,束ねた草を笠蓑(かさみの)にして雨宿りを請うたとき,諸々の神たちは,汚らわしいと言って断った。

 汚れた者は,家に入れることができないというのだ。

 だからこそ,今(日本書紀編纂時点の今)も,束ねた草や笠蓑を着たまま人が家に入ることを忌み嫌い,これを犯した場合は「解除」をするという(第7段第3の一書)。

 要するにスサノヲは,「五穀と養蚕の文化」を理解しない邪神であり,罪穢(つみけがれ)があるので,祓われたのだ。

 だから根国は,祓われて追放された者が行く世界である。
 この,祓うという行為の背後に,「縄文と弥生の交錯」があることは,後述する。

 これが,根国と黄泉国が違う,実質上の根拠だ。


古事記がいう根の堅州国の意味

 この点古事記は,核心をついているのかもしれない。

 古事記は,「根国」ではなく「根の堅州国」といっている。

 片付けることを「かた・す【片す】」という(広辞苑第4版)。

 だから,根の堅州国は,片付けられた者が行くところなのだ。祓われた者が行くところなのだ。

 これは,単なる言葉の遊びではない。


「かたす」と「かす」の語義

 今でも生きている言葉で,ご飯を「かす」という言葉がある。ご飯を炊く(たく)という意味だ。広辞苑第4版によれば,「か・す。米を水であらう。とぐ。」だ。

 日本書紀第9段第3の一書には,神を祭る際に稲を使って酒を造り,また「飯に為きて(かしきて)嘗す(にいなえす)」という部分が出てくる。
 まさに,ご飯を「かす」という用法の実例だ。

 これと同様に,仁徳天皇4年2月では,「炊く」を「いいかしく」と読んでいる。

 神武天皇の強敵だった長髄彦の妹は,「三炊屋媛(みかしきやひめ)」といった(神武天皇即位前紀戊午12月)。

 また,推古天皇の本名は,「豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)」だった。

 「御食(みけ)」は食物の意味だから,食物の豊かな炊事場の姫という意味なのだろう。
 ここで,「炊屋」を「かしきや」と読んでいる。この「かしき」の動詞形が「かす」なのだ。

 ご飯を「かす」という現代語は,古代から使われていた。

 このように,「堅州(かたす)」も,現代に生き残った「片す」なのだろう。


根の堅州国に関する学説を批判する

 どうせ素人の見解だと言われるのもしゃくだ。学説を検討しておこう。

 じつは,学者さんの見解自体がはっきりしないので困る。
 それだけ,皆さん苦労しているわけだ。

 最新の注釈書によれば,表記どおり,「堅い州」だということになっている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,55頁)。

 しかし,なんのことやらさっぱりわからない。

 この説は,「根」を遠い果てと解し,「堅州(かたす)」の「州(す)」にこだわり,堅い中州(なかす)であるという。「根の堅州国」は,遠い果ての堅い中州の国ということになる。

 さっぱりわからない。古事記が,ますますわからなくなってしまった。


根国は遠い果ての国ではない

 そもそも,根国を遠い果ての国と解釈するのは間違っている。

 天の下の世界,すなわち現実の世界でも,遠いところは遠い。

 スサノヲは,天の下の世界から,別の世界である根国へ追放されたのだ。根国が天の下の遠い世界にあるとすると,スサノヲが追放されたことにならない。

 「果ての国」というところがミソなのか。
 しかし,学者さんが,そこまで意識して言葉を選んでいるとも思えない。


堅い州というのもわからない

 「堅州(かたす)」を「堅(かた)」と「州(す)」に分解するのも,いかにも筋が悪い。

 ここでなぜ唐突に「州」が出てくるのだろうか。

 学者さんは,「根」を地下だとすると,「州」の説明がつかないので,「根」を地下の意味とはとらえがたいと言う。
 だから,地上界の「州」をイメージしている。

 しかし・・・。

 読者は,一連の物語を読んでいるのだ。ライターの頭の中にはイメージの連鎖がある。それを文字にする。読者は,文字を通じてそのイメージを読み取っていく。

 だからこそ,物語が成立する。

 この学者さんの説には,イメージの連鎖がまるで感じられない。
 いかにも学者さんらしく,無味乾燥な因数分解をする解釈は,物語のなかでの「叙述」の意味を,何も考えていないとしか言いようがない。


「州」や中州は天の下にいくらでもある

 しかも,「州」や中州は,天の下のいたる所にある。特に河内,大和周辺には,古代,河内湖という汽水湖があり,中州がたくさんあった。

 これではやはり,スサノヲが天の下から追放されたことにならない。

 この説の変なところは,上記したとおり,「州」は地上界にあるのだから,「根」を地下の意味にとるのには賛成しがたいとしている点だ。
 そうすると,「州」の説明がつかなくなるからだというのだ。

 この説は,「州」が地形の中州であるという点にこだわってしまったがために,「根」の解釈もそれに従うべきだというのだ。

 ここまでくると,誤りに誤りを重ね,どうしようもない。

 誤解の世界で理屈をこねていればいるほど,それが強固であればあるほど,坂道を転げ落ちるように泥沼にはまってしまい,永遠に脱出できなくなるという悪例だ。

 こうした学説が,いかに日本神話や古事記の理解を妨げてきたか。

 片づけられた者が行く国だという私の見解と比べて,どちらがスマートな解釈だろうか。


根国は遠い国ではない

 根国に関する他の学説を検討しておこう。

 まず,根国は遠き国とする学説がある。

 しかし,天の下の世界,すなわち現実の世界でも,遠いところは遠い。遠いだけでは,天の下から追放されたことにならない。

 こんな当然のことが,なぜわからないのだろうか。

 こうした誤った考え方が海と結びつくと,常世国(とこよのくに)との混同が始まる。

 思考上の誤りを2度繰り返して,ドツボにはまりこむというやつだ。こうなると救いがたいのだが,結構多くの人が信じ込んでいる。


根国は海中や大地にあるのでもない

 この説の亜流として,大祓祝詞(おおはらえののりと)を根拠に,地底というより海中の国であるという学説もある。
 現世の罪や穢れを川に流すと海に至り,根国の底にいる速佐須良比メに処分されるというのが,その根拠のようだ。

 確かに,祓われた者が行くところという意味では,核心をついている。

 しかし,それに気づいた見解だとも思えない。
 また,海中は現実の世界であり,天の下の範疇に属する。これではスサノヲを追放したことにならない。

 そもそもスサノヲは,「海原」を治めよとのイザナキの命令を嫌がって,「根国」行きを望んだのである。
 「海」と「根国」が別世界であることは間違いない。

 なお,祝詞がそれほど古いものではない点については,「天の石屋戸と祝詞」で後述する。

 下方の底の国,または母の国,大地,とする学説もある。

 これは,母の国とか大地とかいう点で誤っている。大地は天の下の現実の世界だ。やはり,スサノヲを天の下から追放したことにならない。


根国学説に共通した欠点

 以上の学説に共通しているのは,日本神話の「叙述と文言」を厳密に読んでいないという一点に尽きる。

 民俗学や神話学のやり過ぎではないだろうか。

 とにかくこのとおり,「根国」ひとつとってみても,皆さん勝手にいろいろなことを言っている。

 祓われた者が行くところ,という学説は,見当たらない。日本書紀も古事記も,しっかり読んでいないからだ。


出雲国=根国=黄泉国という学説は間違い

 たいていの人は,出雲国=根国=黄泉国と受け取っている。それが通説のようだ。出雲国は死のにおいがする,などと言う人までいる。

 確かに,祓われたスサノヲは,「出雲国の肥の河上」に降り,その後根国に行ったことになっており,また,根国のスサノヲを訪ねたオオクニヌシが出てきたところは,黄泉比良坂だった。

 しかし,前述したとおり,スセリヒメもオオクニヌシも,ヨモツヘグイなどなんのその。平気で,黄泉比良坂経由で,顕し国に帰ってきたではないか。

 帰ってくるときに,黄泉国を塞いだ「千引の石」なんて,なかったではないか。

 黄泉比良坂は,「他界」との境界にすぎないのだ。その向こうに,根国や,「千引の石」で塞がれた黄泉国がある。


根国に行くスサノヲが出雲に降臨するわけ

 日本神話の構造の理解,「スサノヲ神話の本質」からすれば,スサノヲは,利用されているにすぎない。スサノヲの子孫オオクニヌシから,スサノヲが天上界に残してきたアメノオシホミミ系の神々への,「壮大なる血の交代劇」のために,利用されているだけなのだ。

 日本神話の本質は,ヤマトまで進出していた出雲系の神々が,神話の表舞台から退場し,「隠れる」物語である。

 だから,本来出雲の神であったスサノヲが,出雲に行くのは当たり前である。
 神話の上で根国行きを命じられたスサノヲが,本当の故郷である出雲に降るのは,当たり前である。

 もしスサノヲが,武蔵国出身ならば,武蔵国に降ってから根国に行ったまでのことである。

 たんに,出雲の神を根国に祓って,放逐したというまでのことだ。いったん天の下に降りるとなれば,出雲しかない。それだけのことだ。

 要するに,古来の神話伝承が,出雲に根国を想定していたということにはならない。
 そう考えるのは,「日本神話の体系や構造」を理解していないからなのである。


根国はどこにあるのか

 以上検討してきたように,根国と黄泉国は,まったく別個の世界だ。
 根国は祓われて追放された者が行く世界であり,黄泉国は死者が行く世界だ。

 では,根国はどこにあるのだろうか。

 何度も言うとおり,根国は,追放されたスサノヲが行くところだから,天の下以外のどこかだ。もちろん,「天」でも「天上」でも「高天原」でもない。

 第5段第1の一書は,スサノヲを「下して根国を治しむ(しらしむ)」とし,第5段第2の一書は,「遠き根国を馭すべし(しらすべし)」としている。

 すなわち根国は,天の下以外の,「遠」く,かつ「下」の方にある。

 根国は,支配者のいる天上ではなく,支配を命ぜられた天の下でもなく,それとは違う,もっともっと下の方にある,遠い国ということになる。

 これが,日本書紀の「叙述と文言」からの帰結だ。

 少々わかりづらいが,これでいい。とにかく,天の下という現実世界とは違う世界だから,イメージできなくても,これでいいのだ。

 現代の我々でさえ,死者の国があるのかないのか,あるとしたらどこにあるのか,わかっていない。
 わかったようなふりをしているのは,日本神話が衰微した後,仏教が氾濫して,浄土や地獄を詳しく説明してくれたからにすぎない。


神々が住む4世界

 さて,第7段第3の一書によると,神々はスサノヲに対し,「天上(あめ)に住むべからず。亦(また)葦原中国(あしはらのなかつくに)にも居(を)るべからず。急に(すみやかに)底根の国(そこつねのくに)に適ね(いね)」と命令し,追放する。

 「適ね」という意味が問題だが,これは,お前は根国に「適している」という意味にとるのが,ぴったりだろう。

 日本書紀の「叙述と文言」からすれば,神々が住む世界は,

@ 天上(「高天原」),

A 天の下(葦原中国),

B 根国,

C 黄泉国(人が死後に行く世界でもある),

の4世界となる。なお,これ以外に,D 常世国がある。ここに神が住んでいるかは,定かでない。

 根国は追放された者が行くところであり,死や死者とは何の関係もない。ただ,「遠」く,「下」の方の,「根」や「底」と言われるところにあるようだ。

 神という職務にしてみれば,日の当たらない部署のようでもある。


根国と常世国は違う世界だ

 根国は,常世国(とこよのくに)とも違う。

 根国は祓われて追放された者が行く世界であり,常世国は海の彼方にある常住不変の世界だ。

 これも,日本書紀の「叙述と文言」を押さえておこう。

 常世国については,有名な田道間守(たぢまもり)の逸話に関し,日本書紀に定義がある。
 神仙の隠れたる国であり,俗人が行けるところではない(垂仁天皇後紀)。神仙思想と結びついた世界だ。

 不自由民すなわち奴隷に身をやつしていた弘計皇子(おけのみこ)は,自分の素性を明かす歌を歌う。その最後に,「吾が常世等(とこよたち)」とある(顕宗天皇即位前紀)。

 これを,不変の,という意味でとらえれば,永久の友たちよ,という呼びかけになるし,不老長寿に着目すれば,その場に居合わせた長老たちに対する呼びかけになる。

 常世国は,蓬莱山の訓読みとしても登場する。

 有名な浦島太郎,すなわち「浦嶋子(うらしまのこ)」が海に入って「蓬莱山」に行き,「仙衆(ひじり)」に会ったというくだりだ(雄略天皇22年7月)。
 この「蓬莱山」を「とこよのくに」と読ませている。

 だから,常世国は,追放された者が行く世界ではない。もちろん,黄泉国でもない。


常世国はどこにあるのか(田道間守の証言)

 では,常世国はどこにあるのだろうか。

 垂仁天皇は,田道間守を常世国に派遣した(垂仁天皇90年2月)。無事常世国にたどり着いた田道間守は,垂仁天皇の死後に帰国し,こう語る。

 「遠くより絶域(はるかなるくに)に往(まか)る。萬里(とほく)浪を蹈(ほ)みて,遥に弱水(よわのみづ)を度(わた)る。」
 「自づからに十年を経たり。」
 「豈(あに)期(おも)ひきや,獨(ひとり)峻(たか)き瀾(なみ)を凌(しの)ぎて,更(また)本土に向(まうでこ)むといふことを。」

 すなわち常世国は,遠く,波を越えて,はるかなる「弱水」を渡って,往復に10年もかかるところである。

 田道間守をして,高い波を越えて本土に帰れるとは思いもよらなかった,と言わしめる場所にある。


常世国は絶海にある

 すなわち,海の水平方向の,はるか彼方にある。
 決して,海中ではない。

 ウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合命)の子,ミケヌ(御毛沼命=みけぬのみこと)は,「波の穗を跳(ふ)みて常世國に渡り坐し」であった。

 すなわち,波を越えて渡ったところに,常世国がある。
 決して,海中ではない。

 古事記におけるスクナヒコナは,「波の穂より」船に乗ってやって来て,常世国に渡った。日本書紀第8段第6の一書によれば,身体が小さかったので,粟がらにはじかれて常世国へ行ったとする。

 はじかれて,海の向こうの海上世界に行ったのであり,海面にドボンと落ちた後,海に沈んで,海中の世界に行ったわけではあるまい。

 いずれも,海の向こうの海上を指しており,海中ではない。

 そして,「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり」(崇神天皇6年)。

 この世界と常世国は,打ち寄せる波でつながっているのだ。

 アマテラスらの支配領域を検討した際に述べたとおり,海といっても,船で行ける近海は天の下だが,いわゆる絶海,遠洋は,異界であり,天の下ではない。

 常世国は,その絶海にあるのだ。


浦島太郎伝説を根拠とした常世国説は無理がある

 浦島太郎伝説と勝手に混同して,常世国は海中にあるとする説がある。

 しかし,田道間守は海中とは言っていない。船でどんどん遠くへ行ってきたと述べているだけだ。
 別に,潜水艦を使ったわけでもあるまい。

 ただ,浦島太郎伝説(雄略天皇22年7月)は,検討しておく必要がある。
 そこでは,浦島太郎が「大亀」に乗って,「海に入る」とされているからだ。

 しかし,この伝説は,かなり新しい。
 そしてそれよりも,この伝説では,じつは「常世国」は出てこない。浦島太郎が行った「蓬莱山」を「とこよのくに」と読ませているだけなのだ。

 だから,これを根拠に,「常世国」が海中にあると言うのは,無理がある。


日本書紀の神話の陰陽2元論と空間把握

 日本書紀第5段までの日本書紀本文の世界観は,天上と天の下の2つだった。

 「天先ず成りて地後に定まる」(第1段本文)という陰陽2元論の思想。
 イザナキとイザナミがオノゴロシマに「降り居して(あまくだりまして)」(第4段)という展開。

 すでに述べたとおり,第5段本文は,イザナキとイザナミが大八洲国と山川草木を生んだあと,「何ぞ(いかにぞ)天の下(あめのした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」と共に謀って,3神を生んだとしている。

 ここに,天上と天の下という日本書紀のコスモロジーが,端的に表現されている。

 4次元の世界など,考えもしない時代のことだ。彼らには3次元的観念しかなかった。
 要するに,上か下か水平方向かの,どれかしかない。


常世国があるところ

 第4子のスサノヲは,「遠く根国に適ね(いね)」と命令され,「遂に逐ひき(やらいき)」ということになった。

 天の下の支配者として失格となり,神々の世界からも追放されたのだから,天上界でもなく天の下でもない,どこかに追放されたのだった。

 「遠く根国」は,今まで登場しなかった第3の世界だ。そしてそれは,「遠く」,「底」,「根」,という文言からすれば,天の下,すなわち葦原中国,すなわち地上界の,もっともっと下の方に求められたのだった。

 残る水平方向を考えてみよう。

 中国のような大陸的感覚では,水平方向は,山の向こうのどこかだ。

 しかし,そこから変な格好をした人間がやってきて,朝貢したり交易を求めたりするのだから,異界でも何でもない。
 山の向こうにもまた,人間の世界がある。ただ,単なる蛮夷の世界なのだ。異界はむしろ,山の中にある。

 これに対し日本は,海に囲まれている。
 水平方向の遠い世界は,海の向こうだ。古代の海上交通は沿岸中心であり,外洋に勇躍船出するような技術がなかった。
 はるか遠洋は,誰も行ったことのない異界だ。天の下の観念には入らない。

 これが,常世国だ。


常世国のイメージ(常住不変)

 では,常世国はどんなところだろうか。

 ある時ある海人(あま,海洋漁労民,漁師さん)が,漁に出たまま潮に流されて,2度と戻って来なかった。

 いとしい夫だったが,死体も浮かばないし,船の残骸が見つかるわけでもない。黄泉国のように,膿沸き蛆たかる死体という,厳しい現実に直面するわけでもない。

 だからこそ,残された妻や村の人々は,元気に船出していったあの笑顔のまま,あたかもストップモーションのように,どこか他の世界で生きていると信じ始める。

 自分が現にこうして生きているのと同様に,海の遙か彼方には,同じように生きていける別世界がある。しかも,自分が老いても,かつての若い姿のままに。

 それが,常住不変の国,常世国なのだ。海の遙か彼方には,常世国という,さらなる異界があった。


常世国のイメージ(波と海と常住不変)

 今でも,灯台のてっぺんから見渡す海には,悠久の昔から今に至るまでまったく変わらず,こうして波をうち寄せていたのだな,と納得できるほどの存在感がある。

 一面の青い海は,その表面が静かに白く波立っているだけだ。そして,静かにうち寄せるさざ波だけが聞こえる。

 東山魁夷の絵に,こうしたのがあった。単に海辺を俯瞰しただけの絵だ。しかしその絵は,過去も現在も未来も,静かな波が一定のリズムをもって打ち寄せるだけであると,主張していた。岩礁にかぶさるように突進して,海水を飛び散らせる場面を描いた壁一面の大作よりも,はるかに海の本質を突いていた。はるかにたくさん,波の音が聞こえてきた。

 だから考える。人間がどうあろうとも,波のリズムは変わらない。

 戦乱によって理不尽な死を迎えようと,肉親が悲しもうと,波のリズムは変わらない。人が溺れ死んだとて,それを打ち消すようにして,波は一定のリズムをもって打ち寄せてくる。

 人間の悲哀や歴史などちっぽけなものだ。海は,過去現在未来にわたって,永遠に,一定のリズムで打ち寄せてくる。


常世国のイメージ(仏教以前の浄土)

 そうした海の向こうには,永遠不変の国があるのではないか。

 そこは,喜怒哀楽を越えた常住不変の国ではないか。

 漁に出て帰らなかった夫が,別れ際の笑顔のままで暮らしている,永遠の世界ではないのか。

 その,ストップモーションそのままの世界ではないか。

 仏教をまだ知らない人間でさえ,浄土と観じる世界だったのではないか。

 それが常世国なのだ。


日本神話のコスモロジーをまとめてみる

 こうして検討してくると,根国と黄泉国と常世国は,まったく別の世界となる。決して混同してはいけない。

 ここで,日本神話のコスモロジーをまとめてみよう。

 まず,天上界と天の下がある。

 天上界には日の神と月の神がいる。
 しかし,星の神は,なぜか無視されている。伝承上,星の神は嫌われているようだ。

 天上界に神がいるが,天の下にも神がいる。天上界の神は支配者として君臨するようだが,地上界の神は,現実に生きている人間に信仰されていたようだ。

 天の下の海の向こうに,常世国がある。これは,田道間守以外は,誰も行ったことのない異界だ。少なくとも,そこに行って戻ってきた者はいない。行きっぱなしの異界だ。

 そうした意味で,黄泉国と共通している。あるいは死んでいるかもしれないという疑念が入るから,黄泉国に少し重なっている。

 安らかに生活しているだろうという意味では,仏教受容以前に成立した浄土的世界だと言うこともできる。

 しかし,朝,漁に出て行った時のまま生きているという意味合いもあるから,決して,死んでいるのではない。
 この点で,黄泉国とはまったく異なる世界だ。

 常世国は,死の香りがするけれども,膿沸き蛆たかる黄泉国とは違う。だから,神仙思想と結びつく。

 天の下の外の,さらにその下に,根国がある。根国は,スサノヲが追放されたように,祓われた者が行く世界だ。

 これに対し黄泉国は,死者が行く世界だ。
 そこにも神がいる。やはり地の下の方にあるようだが,これははっきりしない。少なくとも,ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)で,天の下,すなわち顕し国と分離されている。


葦原中国は権威的権力的支配的な世界観をもつ者たちの用語だ

 さて,「天の下」と「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とは,どう違うのだろうか。

 私も含めて,不用意に,葦原中国という言葉を使っている。しかしこれは,支配の対象としての概念だ。豊かな土地を侵略するという,支配者の立場に立った呼び名だ。

 日本書紀第4段第1の一書では,天つ神がイザナキとイザナミに,「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の地」があるので,「汝(いまし)往きて(ゆきて)脩すべし(しらすべし)」,すなわち支配せよと命令する。

 第5段第11の一書では,アマテラスの命を受けたツクヨミが,「葦原中国」にいるウケモチノカミを撃ち殺す。

 「葦原中国」は,私が言う,権威的権力的支配的な伝承を中心に登場する。そして第9段本文では,晴れて,国譲りという名の侵略の対象として登場する。

 このように,「葦原中国」という文言は,権威的権力的支配的な世界観の中で使用される。そしてこれは,タカミムスヒと「高天原」に結びついていた。

 本来,日の神伝承に結びついた世界観ではなかったはずだ。

 「葦原中国」という文言には,上述したイデオロギーと世界観がまとわりついている。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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