日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
では,「天羽羽矢」を持つ人々,朝鮮から宇佐を通ってやって来た人々は,騎馬民族だったのだろうか。 まあ違うだろうね。なにしろ吾田に,「179万2470年」も土着しちゃう人たちだからね。 騎馬民族は,土着などしない。馬に乗って遊牧して,農耕民を略奪する。それを誇りに思っているのが,騎馬民族だ。 中国史を通読すればわかる。 そこまでの誇りは,日本書紀や古事記の神話から,感じられない。 何よりもここには,馬がいない。 一応検討しておこう。
馬は,むしろ,五穀との関係で語られてきた。 五穀と養蚕の始まりを語る第5段第11の一書は,殺されたウケモチノカミの頭頂に,「牛馬化為る(なる)有り」としている。 しかし,ここでの馬は,むしろ,農耕に使役される家畜として登場する。 天石窟で有名な第7段本文では,逆剥ぎにされる「天斑駒(あまのぶちこま)」として登場する。 なお,五穀と養蚕の始祖はアマテラスとされているが,本当はタカミムスヒだったことは述べた。私はこれを,日本書紀の神話における「ねじれた接ぎ木構造」と呼んだ。
確かに日本書紀の神話では,矛や剣がたびたび登場する。イザナキとイザナミが生成途上の世界をかき回したのは「天之瓊矛(あまのぬほこ)」だった。「十握剣」,「草薙剣」等,枚挙にいとまがない。 だが,登場する神々が,馬に騎乗して移動するという描写は少ない。 軍隊が降臨する第9段の一書でさえ,重武装のくせに,「遊行き(ゆき)降来りて(くだりて)」降臨するのだ。 「遊行き」とは,歩いてという意味だろう。少なくとも,馬に騎乗してという意味ではない。 有名な日本武尊も,歩いて諸国を巡ったようだ。 五十葺山(いぶきやま,現在の伊吹山)の荒振る神を征伐しに出かけたときは,尾張国の宮簀媛(みやずひめ)の家から「徒に(たなむでに)行でます」とある(景行天皇40年是歳)。 すなわち,歩いて行ったのだ。 学者さんによっては,崇神天皇が騎馬民族であり,征服王朝を作ったとしている。
ただ,古事記のオオクニヌシだけは例外だ。 倭国(やまとのくに)に行こうとするオオクニヌシは,スセリヒメの嫉妬にあう。 「出雲より倭國に上り坐(ま)さむとして,束裝(よそひ)し立たす時に,片御手(かたみて)は御馬(みま)の鞍(くら)に繋(か)け,片御足(かたみあし)は其の御鐙(みあぶみ)に蹈み入れて,歌ひたまひしく」。 移動手段に馬が使われている。 ただ,前述したとおり,古事記のうちでもこの部分は,特に創作的であり,学者さんも,演劇的であることを認めている。 古事記自体をどうとらえるかという問題のもとに読まなければならない部分でもある。 だから,これが参考になるとは思えない。
応神天皇の時代になって,百済王は,阿直伎を遣わして良馬2匹を奉った。 応神天皇は,この馬を「軽の坂上の厩」で飼わせた。だから今(日本書紀編纂時の今),その馬を飼ったところを,「厩坂(うまやさか)」という(応神天皇15年8月)。 この記事に登場する馬は,もはや農耕用の馬ではないのであろう。 農耕とは無関係の,騎乗に適する良馬が献上されたので,大事に飼ったという記事だろう。この2頭は,当然,雌雄であり,繁殖用に供されたのだろう。 この2頭の馬は,軍事用だったのではないだろうか。 景行天皇からさらに下った応神天皇の時代でさえ,良馬2匹が特別の貢ぎ物,貴重品として扱われている。 騎馬民族であれば,良馬を受け取るのではなく,むしろ贈与する立場に立つだろう。 日本書紀の「叙述と文言」は,騎馬民族の渡来を否定している。
次の仁徳天皇の時代になると,明らかに,騎馬が登場する。 仁徳天皇は,朝貢を怠った新羅を討つために,将軍「田道(たぢ)」を派遣する。 ここにいう「精騎」は,騎兵のことだ。 応神天皇の時代に渡来した馬が,戦闘に使われ始めたようだ。
仁徳天皇の子,履中天皇の時代になると,さらにはっきりする。 履中紀は,住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の叛乱から始まる。 去来穂別皇子(いざほわけのみこ,後の履中天皇)の妃(みめ)黒媛(くろひめ)を犯した住吉仲皇子は,去来穂別皇子を殺そうとして,密かに軍を興して,「太子(ひつぎのみこ)の宮を囲む」。 この時,平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね),物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね),漢直の祖阿知使主(あやのあたいのおやあちのおみ)の3人は,太子を「馬に乗せまつりて逃げぬ」。 これは,歩兵が宮を囲んだが,馬に乗って素早く逃げたということだろう。 去来穂別皇子等は,「馳せて」大阪から倭を目指す。 途中,竜田山越えのとき,数十人の歩兵が追って来る。 ここでの追っ手は「歩行」だ。 この「叙述」が,重要だ。
馬は,まだ一般的ではなかったのだ。 この追っ手を捕らえた去来穂別皇子の一行は,ようやく,石上神社にたどり着く。 ここでは,馬が大活躍している。 馬があったからこそ,素早く倭(やまと)まで逃げられたのだ。 しかし,まだ一般的ではなかった。だからこそ,馬に乗って逃げたというエピソードが,エピソードとして成立している。 この履中天皇は,乗馬が好きだったようだ。 履中天皇5年3月,天皇は淡路島で狩りをしたが,「河内飼部(かわちのうまかいべ)」が天皇に従い,馬の手綱をとった。 このころには,戦闘だけでなく,日常にも使われ始めたようだ。
履中天皇の弟の,允恭天皇の時代になると,日常使われた例が出てくる。 闘ゲ国造(つげのくにのみやつこ)は,のちに皇后となる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の家のそばを,「馬に乗りて」行く。 そこで,忍坂大中姫を見つけて,彼女をからかう(允恭天皇2年2月)。 また,同じく允恭天皇の時,反正天皇の殯(もがり)を命ぜられた玉田宿禰は,人々が皆集まっているのに出席せず,さぼって酒宴を張っていた。 これを見つけた尾張連吾襲(あそ)に,発覚を恐れて,「馬一匹」を授ける。要するに賄賂だ。馬1匹が,高価な賄賂だったのだ。
允恭天皇の子,雄略天皇の時代になると,馬は一般化する。 市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を射(い)殺したのは,狩りに誘った馬上だったし(雄略天皇即位前紀),「甲斐の黒駒」は有名だったようだし(雄略天皇13年9月),その他,あらゆるところに馬が登場する。 このように,日本書紀の叙述から見ると,騎馬の風習が,崇神天皇や応神天皇の時代に,一気にやってきたとすることはできない。 応神天皇の時代から飼われ始め,徐々に広まっていったと見るべきだ。
問題は馬だけではない。 垂仁天皇は,高石池,茅渟池,倭の狭城池,迹見池をつくり,多くの池溝(うなで)をつくった。 その結果,百姓豊かになり。「天下太平」となった(垂仁天皇35年)。 応神天皇も仁徳天皇も,池や用水をたくさん作る。 また,反正天皇の時代には,「五穀」がよく実り,百姓が豊かになって「天下太平」とされている(反正天皇元年10月)。 このように,国が豊かになり平和になることは,常に,農作物との関連で語られているのだ。馬ではない。
以上の事実の他に,神の性格という問題もある。 履中天皇は,淡路島で狩をする。 その際,河内飼部(かわちのうまかいべ)を同行したが,彼らは目の回りに刺青をしていた。 イザナキは,火の神カグツチを殺した神だ(第5段第6の一書)。剣から滴った血から数々の神々が生まれた。それは,日本書紀の神話上,唯一無比の凄惨な場面だった。 これほど血まみれの場面は,他にない。 そのイザナキが,たかが刺青の血が,臭いと言う。 これは,刺青の血が臭いというより,飼部が臭いと言ったのだろう。 そもそも,血が臭いという神は,魚を食ってきた神だ。肉を食ってきた神は,こんなことは言わない。 イザナキを祖神としていつき祭る人々は,騎馬民族ではない。
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