日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
生まれてきた国々については,何を読んでも,よくわからない。 しかし,「叙述と文言」だけから,とりあえず言えることはある。 まず,生まれてきた国々を,日本書紀と古事記に,分けて整理しよう。 (日本書紀第4段本文)(古事記) (国生みの方法を誤って,生んでしまう。) 水蛭子(子ではないから葦船に入れて流す) (生む前に修正する。) 淡路洲(子ではなく胞) 淡道之穗之狹別嶋(立派な国) 以上が大八洲国。 「然(しか)ありて後,還ります時」 吉備兒嶋
学者さんは,(なんとなく),大日本豊秋津洲を,本州だとしている。 だが,蝦夷の地,東北地方まで含めてよいのだろうか。日本書紀成立時に征服できていなかったのではないだろうか。 そんなことよりも,これが本州だとすると,「越洲」や「吉備子洲」と,地理的に重複してしまうではないか。そうした,文章作成上の基本は,きちんと考えないのだろうか。 日本書紀編纂者は,まあ,いいじゃん,って感覚なのだろうか。 私は,きちんとした文章を作る人は,こんな単純なミスはしないと思う。 豊秋津洲(とよあきつしま)は,神武天皇の命名だ(神武天皇31年4月)。 神武天皇は,その晩年に,自分が征服し支配した土地を国見(高いところに登るなどして国を見て,褒め称えること)して,「秋津洲」と名付けた。 北陸,吉備,東海などを征服するのは崇神天皇以降だから(崇神天皇9年9月),この国見は,たかだか大和地方に対して行われたにすぎない。 すなわち,日本書紀の「叙述と文言」からすれば,秋津洲は大和地方を示すだけであり,本州ではない。
こうして,大日本豊秋津洲,伊予二名洲,筑紫洲,億岐洲,佐度洲,越洲,大洲,吉備子洲は,現代で言えば,おおよそ大和地方,四国,九州,隠岐,佐渡,北陸と新潟,周防,岡山を指すことになる。 ここに,現代の東海地方,中部地方,関東地方,東北地方は入っていない。 日本書紀は,720年に成立した。成立の前夜は,朝鮮半島の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れ,近江によった天智天皇が,国防を固める時代だった。 その後,壬申の乱という内乱があって,当時の日本を平定した天武天皇と,その妻であり後継者となった持統天皇により,律令国家,すなわち当時の文化国家中国に対峙する国家を作ろうとした。そうした時代だった。 白村江の敗戦により,朝鮮半島に対する野望は潰えた。これからは,天武天皇が平定し支配した,当時の支配領域によって,新国号「日本」という国家を作っていかねばならない。 日本書紀第4段本文が示す大八洲国の内容は,日本書紀成立当時の政治状況を,はっきりと物語っている。
「対馬嶋」,「壱岐嶋」,その他の小島は,「大八洲国」に入っていない。なぜだろうか。 対馬と壱岐は,北九州と朝鮮とを往来する,重要な中継地点だった。しかし,もはや重要ではないのだ。 日本という国は,律令国家黎明期において,朝鮮との関係をあきらめ,大八洲国という国に閉じこもったのだ。 閉じこもったというと,語弊がある。 国家の根本は,領土だ。領土を定めることが,国家存立の前提だ。どこからどこまでの土地を支配するかが,支配者の基準である。国のあり方は,それにより決まる。 朝鮮半島まで含めて支配しているか否かで,国のあり方がまったく違ってくる。 日本書紀編纂者は,律令国家成立時の認識を,ここで明確に主張している。 幸いにして,現代では,対馬も壱岐も,日本という国家の領土になっている。仮に韓国が,対馬と壱岐が自国の領土だと主張するとしたら,日本書紀第4段本文に,対馬も壱岐も入っていないことが根拠になることだろう。 それは,現代の国際社会でも,一応の証拠にはなるだろう。
さて,こうして,日本書紀第4段本文の叙述は理解できた。それなりに筋が通っていた。 @ キーコンセプトは,日本書紀編纂当時(720年)の新国家「日本」の領土を確定するということだ。 A その過程で,対馬と壱岐は軽視された(放棄とは言わない。後の世の領土問題をおもんぱかって),ということだ。 この観点からみると,第1の一書には,何ら目新しいところはない。 第7の一書は,「筑紫洲」に続けて,「壱岐嶋」と「対馬洲」が生まれてきたとしている。日本という領土に閉じこもる前は,日本の領域という意識があったのだろう。 第8,第9の一書にも,目新しいところはない。 私が提示した上記@,Aに従って考えれば,第7の一書だけが特殊であり,他は,伝承の細かい相違にすぎないということになる。 日本書紀編纂者は,こうした相違も,丁寧に拾い上げた。
そして古事記には,国土となった島々の異名が付け加えられている。 隱伎のまたの名は,天の忍許呂別(おしころわけ)。 後にも述べるとおり古事記ライターは,単なる国生みではなく,神がいる国,「神の国」の生成を語っている。 「神国日本」の生成を語るのが,古事記の特殊性だ。 だからこそ,神生みを熱心に語る。神の羅列と整理に極めて熱心だ。ありとあらゆるところに神がいることを示そうとする。 その執念には,すさまじいものがある。読んでいて辟易するくらいだ。
古事記ライターは,とうとう,国土そのものにも,神の名前をつけてしまった。 これだけをみると,あたかも,古事記の方が,古い神々の伝承を伝えているように見える。 だが古事記ライターは,むしろ,神を忘れかけた人々に対し,神の名を呼び覚まそうとしているのではないか。 それは,このあとの,古事記独自の地理的知見の拡大や,「神生み」の分析を読んで,判断していただくしかない。 私は,日本書紀に対する王政復古的な反動が,古事記だったと考える。 そして,古事記ライターが,当時の歴史認識を欠くライターだったことを考えると,どうも,律令国家草創期の人とは思えないのだ。
一番の問題は,対馬と壱岐が,平然と入っていることだ。これをどう考えるか。意見が分かれるところだろう。 日本書紀も古事記も,同時代の書物だ。成立年8年の違いなど,国家的プロジェクトであれば,何の意味もない。 それなのに,対馬も壱岐も入っている。日本書紀編纂者は,当時の律令国家としての歴史的認識から,国土の対象からはずしたというのに。 私は,古事記の叙述に,歴史認識を感じることができない。古事記ライターは,そうしたこととはまったく関係がないところで,古事記を作ったようだ。
ところで,第4段第1の一書は,古事記とほぼ同様である。 しかし,違うところがくせ者だ。 (第4段第1の一書) (古事記) 大日本豊秋津洲
第4段第1の一書は,第4段本文と同様,やはり壱岐や対馬を無視している。 一方で,この異伝は,神が「太占」で占うなど,わけのわからないことをする点で,古事記と全く同じ伝承だ。 ところが,生まれてきた大八洲国を比較すると,「淡路洲」や,隠岐を「億岐三子洲」とするなど,古事記に似ているような所もあるが,壱岐や対馬を無視している点では,第4段本文と同じなのだ。 壱岐や対馬に対する歴史認識については,第4段第1の一書は,その本文とともに,同じ伝承に属している。 古事記はこれを無視して,第4段第1の一書を基礎に,独特の歴史認識を付け加えた。 古事記は,第4段第1の一書を土台に,対馬や壱岐をも数えようとする,リライト版なのだ。
さて,大雑把なところはこれくらいにして,整理表を詳細に検討してみよう。 なぜ「淡路」から始まるのか。それは,日本書紀や古事記が成立した当時の政権が,ヤマトにあったからだろう。 身近なところから始めたわけだ。 これにとびついて,ここら辺が日本神話の故郷であり,オノゴロシマもここら辺にあると言う人がいるが,違う。 日本神話自身が,神武天皇が「東征」したと言っているではないか。
日本書紀編纂者も,古事記ライターも,神武天皇以後を,人間の時代だとしている。 だから,やはり神武天皇は,上巻で展開された神話を背負って,中巻で,ヤマトにやってきたのだ。 オノゴロシマが,ヤマトやその周辺にあるわけがない。 「日本神話の形成過程」や「日本神話の故郷を探る」で後述するとおり,私は,南九州の「吾田」が,日本神話の故郷だと考えている。
次に問題となるのは,日本書紀第4段本文で問題とならなかった「水蛭子」と「淡島」を,なぜ古事記が,別立てで叙述しているのかという問題だ。 これは,日本書紀に言う「胞」が,出産にあたって最初に出てくる「おりもの」であることを理解した人には,すんなりとわかる。 古事記ライターも,いきなり「子」が出てくるのではなく,破水がまずあることは知っていた。 それを,「水蛭子」と「淡島」で表現したのだろう。 小学館・新編日本古典文学全集・古事記によれば,「水蛭子」は,ヒルのようにグニャグニャした失敗作。「淡島」は,あわあわして頼りない,島たり得ないもの。 要するに古事記ライターは,破水=「胞」という現実を,「水蛭子」と「淡島」で表現したのだ。 だから古事記では,「胞」が出てこない。出る必要もないのだ。
となると,古事記ライターとしては,もはや,淡路島を「胞」と言う必要はない。これは,立派な「子」として数えるしかない。 と言うより,淡路島を「胞」というわけにはいかなかったのである。 古事記伝承の成立当時は,淡路島は,「胞」などという,頼りない,生産力の低い島ではなく,天皇の贄所(にえどころ),すなわち天皇に食物を献上する豊かな地域として,その地位が確立していたのだ。 もちろん,天皇の支配も及んでいた。 だから,淡路島は「胞」でなく,豊かで立派な島として,大八洲国の一員となった。 逆に,日本書紀第4段本文は,天皇の贄所(にえどころ)となる以前の,いかにも頼りない,単なる大きな島でしかない, だから,「胞」とした。 これをどう読むか。日本書紀と古事記をどう考えるか。面白いところである。
さて,前述の整理表を再度にらんでいただきたい。 次に問題となるのは,日本書紀第4段本文が,「大日本豊秋津洲」から始めている点である。 第4段本文は,「大日本豊秋津洲」すなわち大和地方(決して本州ではない)から始まって,四国,九州,(壱岐と対馬は省略して)隠岐,佐渡,「越洲」と,ほぼ大きなところを,地図でいえば右回りにとらえていく。 「大洲」は場所不明。「吉備子洲」は吉備の小島と言われているが,これだけは特殊である。 少々わからないところはあるが,まあまあ筋は通っている。 これに対し古事記は,淡路島から始めて,四国から,なぜか隠岐に跳び,九州,壱岐,対馬というあのあたりの島を数えて,佐渡に跳び,「大倭豐秋津嶋」に戻ってくる。 あまり整理されていない。整理するつもりがないようだ。
第4段本文の,特に,越国(越の国)を「越洲」と呼んでいるところに注目したい。 越の国,「越洲」は,現在の能登半島を中心とした地域である。なぜ,半島が「洲(しま)」なのか。 学者さんによっては,当時の能登半島は,一部水没しており,島だったという人がいる。
陸地で生活している人には,島か陸続きかはわかる。一周しようすればわかるし,高いところにのぼってみてもいい。 しかし,半島があまりにも大きいと,1周しようにもできないし,ちょっと高い山に登ってみてもわからない。 船に乗って遠くへ出かけていく海人(あま),海洋民は,そんなこともしない。上陸して,陸地を移動しない。沿岸沿いに点在する港を進むだけだ。 そして,半島を回り込んで,輪ゴムのように閉じていないことが確かめられなかったら,とりあえず「洲」だと思うだろう。 福井や金沢側からちょっと見て,湾ができてくびれているところがあれば,そこで途切れているから「洲」だ,という判断もあるだろう。 港にいる地元民も確認できていなければ,とりあえず,大きな島としておくだろう。 それが半島であると気付くには,上陸してからのある程度の探検や,新潟方面までの地理的知見や,地元民から得た知見が必要だ。 要するに,海洋民は,点々と港を回っていくだけだから,それが島か陸続きかはどうでもよいことであり,知見が狭い時代には,陸続きの場所でも「洲」と呼ぶだろう。
ところで,第4段本文に現れる「越洲」は,古事記には出てこない。 これは,古事記が,能登半島は本州の一部であり島ではないという,明確な知見があった時代の伝承を基にしているからである。 これに対し,日本書紀第4段本文は,そんなことがまだわからない,能登半島のごく一部を,転々と船で航海してみました,という程度の時代の伝承を残している。 この点でも,日本書紀のほうが古い。 一方,第4段本文に登場する「大洲」,「吉備子洲」は,古事記の「大嶋」,「吉備兒嶋」に該当するのだろう。 これらは,能登半島に比べれば,はるかに小さい島であるから,船でちょっと廻れば,島であることが容易にわかったのだろう。
さて,こうした,海洋民的な眼で見ていくと,日本書紀と古事記の島のとらえ方と,眼の古さと新しさが見えてくる。 たとえば,隠岐。 第4段本文は,単なる島,というだけである。しかし古事記は,「隱伎の三つ子の嶋」とし,1つの島ではなく,3つの島から成っていることを示している。 実際には4つの島なのだが,とにかく,こうした詳細な知見をもとに書かれたのが古事記であると言えよう。 これに対し第4段本文は,隠岐と佐渡とが「双子」であると述べている。 こうした大雑把なとらえ方を排し,隠岐と佐渡とを「双子」などと関連付けることなしに,隠岐だけを「三つ子の嶋」と言ったところに,古事記の新しさがある。 古事記は,隠岐と佐渡の双子説をあえて取らなかったのである。
さて,こうした眼でさらに分析しよう。 日本書紀は,「越洲」,「大洲」,「吉備子洲」を大八洲国に数えた。 古事記が「越洲」を大八洲国に数えなかった理由は,すでに述べたとおりである。 これは,わかるような気がする。 古事記ライターとしては,大八洲国だから,8つの島を数えなければならない。 対馬と壱岐も,日本の領土として失いたくない。 すると必然的に,第4段本文のうち3つを外さざるを得ない。格下げだ。 「越洲」は,島ではないことがわかっていたから外した。 第4段本文自身も,「越洲」に続けて,付け足しのように,「大洲」,「吉備子洲」と並べている。 そして,この部分こそ,第4段本文のうち,整理されているようで整理されていない部分だった。これがなければすっきり,という部分だった。
こうして,古事記の島々を,もう一度見回してみよう(前掲整理表参照)。 古事記は,大きく,重要な島々をきちんと把握し,そのあとで,「吉備兒嶋」以下の,島嶼群(小さい島々)を羅列していることがわかる。 海洋民の眼が大切だ。 要するに,古事記の伝承は,地理的な知見が拡大し,この島は大きな島,これは島ではない,これは島としては小さい,この島は重要だ,などということが,はっきりとわかった後の伝承なのである。 そして大切なことは,こまごました「知訶嶋」などの,地理的知見が,平面的にも拡大していることである。 こうした点で,古事記は新しい。
さて,ここまでくると,もう1つ問題が出てくる。 古事記は,こまごまとした島々,「吉備兒嶋」,「小豆嶋」,「大嶋」,「女嶋」,「知訶嶋」,「兩兒嶋」を,大八洲国の国生みの後に付け加えている。 大八洲国で終わってもいいはずだ。なぜ,何を付け加えたのか。 国生みをしたイザナキとイザナミは,いったい,どこに帰ろうとしたのか。 古事記の構成は,@ 大八洲国を生んで,A 「然(しか)ありて後,還ります時」,上記した,こまごました小島を生んだというものだ。 となると,8つの島を生み回って,もといた場所,オノゴロシマ(淤能碁呂島)に戻ったと考えるほかない。 オノゴロシマに帰る途中に,これらの小島を生んだのだ。 それは,最後に生んだ「大倭豐秋津嶋」=大和地方を出発点にして,吉備の児島半島,小豆島,山口県の大島,大分県の姫島,長崎県の五島列島,長崎県の男女群島である。 ここで,西へ向かって移動し,九州の西海岸に出ている点に注目してほしい。 つまり,イザナキとイザナミは,私が「日本神話の故郷を探る」で,神話の故郷だという,「日向の吾田」に向かって「還り」ましているのだ。 オノゴロシマも,ここにある。それが,私の主張だ。その,「叙述と文言」に基づく論証は,後述する。
ご覧のように古事記には,意外に正直に,日本神話の真実を語っている面がある。他にも,「偉大なるオオクニヌシ伝承」を残している。 私は,古事記の伝承は新しいという意見をもっているが,日本書紀と違う点は,こうした側面だ。 これは,今後,この論文のあらゆる場面で出てくるだろう。
ところで,学者さんの説を見ておこう。 学者さんは,「生み廻るというのは無理がある」としている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,37頁)。通説は,生み廻るとしているようだ。 しかし,生み回っていることを認めないと,古事記をきちんと読めません。 しかも,私の説によれば,故郷,「日向の吾田」に帰るという意味であり,叙述がきちんと流れている。 古事記の構成は,前述したとおり, @ 大八洲国を生んで, 両方とも,生むのです。 第4段本文の構成は, @ 大八洲国を生んで, 生むのは,大八洲国だけです。 だから,第4段本文を「生み廻る」と考えるのはおかしいが,古事記の叙述を「生み廻る」と考えるのは,途中に「還ります時」という文言もあるし,むしろ自然だ。
学者さんは,「生み廻り」がない日本書紀第4段本文が頭にこびりついているために,古事記の叙述の特異性を,理解できなかったのではなかろうか。 とにかく,「還ります時」という,極めて動的な「叙述と文言」を無視しているのだから。 とにかく,第4段本文と古事記とでは,叙述の構造が違う。これを理解して,解釈しなければならないはずだ。 これで済まされちゃ,物語読者としちゃ,かなわない。 こんなところにも,「こびりつくように根深い記紀神話という神話」が顔を出しているのだと思う。
さて,古事記におけるイザナキとイザナミは,大八洲国を「生み廻」って,日本神話の故郷であるオノゴロシマ,すなわち「日向の吾田」に帰る途中で,いくつかの小島を生んだのだった。 その最後は,九州の「西海岸」,長崎県の五島列島,長崎県の男女群島だった。 その後,イザナキとイザナミは,どこに「還」ったのか。 古事記は,「筑紫島」について,こう言っている。 @ 「筑紫國は白日別(しらひわけ)」 ここに「日向国」がない。なぜか。 「日向国」が,日本神話の故郷であり,そこにオノゴロシマがあったからだ。 要するに,オノゴロシマがある日向は,古事記ライターの,無前提の大前提だったのだ。
学者さんはどう言っているか。 「熊曾」に包括されていたからという説もあるが,「日向」は,むしろそうした国名を超越する意味,「日に向かうところという神話的意味を与えられていたのである」(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,35頁)。 「筑紫國」,「豐國」,「肥國」,「熊曾」と来るのだから,地名を羅列している。 それは,神話的な,抽象的な意味にすぎないという。 でも,古来,「日向」という具体的な地名があったことは認めないのですか。日本書紀にも古事記にも,たくさん出てくるんですけどねえ。 それらがすべて,「日に向かうところという神話的意味を与えられていたのである」ですか。
私には,こうした観念的な解釈が,日本神話をゆがめて,新たなる神話を作り出してきたとしか思えない。 かの有名な本居宣長も,こうした解釈手法を用いたのではなかったか。 「熊曾」に包括されていたから,という説のほうが,よっぽど,事実に即している。 「日に向かうところという神話的意味を与えられていたのである」,と言われ「ちゃっちゃあ」,もう,おしまいだ。 古代の人たちが,日本書紀や古事記を叙述するとき,そんなことまで考えていたのか。簡単に言えば,そうした問題です。 「日に向かうところという神話的意味を与えられていたのである」という解釈態度自体が,現代における解釈にすぎない。当時の意味がどうだったかという問題を,まったく無視している。
さて,古事記は,国生みで生まれてきた島々に,神の名前をつけている。これが,第4段本文とは異なる,古事記の特殊性だ。 後述するとおり,古事記は,神生みに熱心で,「神国日本」の国生みを述べているのだから,こうなる。 以下,具体的に検討してみよう。 まず,「淡道の穗の狹別島」。 「穗の狹別島」とは,穂先のように,とがった島だということだろう。 日本地図を見れば,まさにそのとおりである。 前述したとおり,古事記ライターもしくは古事記が依拠している伝承は,地理上の知見が広がった時代である。きちんと,淡路島の形態を把握している。 これは,かなり新しい知見である。
次に,「伊豫の二名島」。 古事記ライターは,「二名島」と言うくせに,平気で,「身一つにして面四(おもよ)つ有り。面毎(おもごと)に名有り」などと言う。 ここらへんが,古事記ライターの論理的思考力の欠落したところだ。 「二名島」と自分で言っているのに,なぜ4つの名前があるかという疑問をもたない。 こうした,いい加減さ。 で,私は調べる。日本書紀第4段には,本文も異伝である一書にも,4つの名前があるという伝承はない。かなり独自な伝承だ。 まあ,それはいい。でも,少なくとも,こうは言える。 「伊豫國は愛比賣(えひめ)」,「讚岐國は飯依比古(いひよりひこ)」,「粟國は大宜都比賣(おほげつひめ)」,「土左國は建依別(たけよりわけ)」という古事記は,「二名島」と言っていた伝承の時代よりも,はるかに新しい。 かつて四国は,2つの名前をもっていた。2つに別れた地域があった。 それが古事記の伝承の時代には,4つの地域に別れている。 そうした社会ができた後の伝承ととらえるしかない。 それは,古事記ライターが生きた時代だったのかもしれない。
次に,筑紫島。これも,四国と同じことが言える。 前述したとおり, @ 「筑紫國は白日別(しらひわけ)」, だから,筑紫,豊,肥,熊曾という,4つの国が成立した後の話である。 古事記の伝承は,九州の,こうした5つの国が成立したあとに,成立した。 日本書紀第4段は,こうしたことに,まったく無関心である。
古事記によると,「伊伎島」は,「天比登都柱(あめひとつばしら)」,「津島」は,「天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)」。 日本地図を見ればわかるとおり,壱岐は,小さくて丸い。 ここが,筑紫島から朝鮮半島に渡る,最初の拠り所だったのであろう。 柱のような存在だったのだろう。そして,「柱」という地理学的形態がよくわかっている表現だ。 対馬は,淡路島と同様,とんがっている。 「淡道の穗の狹別島」というのと,同じ感覚だ。 壱岐も対馬も,その島の形態を把握したうえでの名前だということがわかる。 「佐度島」は独特の形をしているから,古事記ライターは,何のコメントもしなかった。
日本書紀と古事記を読み比べてみるとき,一番引っかかるのは,古事記が,各国に,「別」とか「比賣」とかいう名前をつけている点だ。 ただ,詳細に見ていくと,「別」とか「比賣」という称号もない島がある。 これをどう考えるか。残された課題だ。 たとえば,「伊豫國は愛比賣(えひめ)」という。なぜ,愛媛(えひめ)なのか。 こうした,そう呼んだからそうだったのだ,としか考えようのない問題は,どうしても最後に残る。 たぶん,「叙述と文言」を超えた世界の話である。
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