日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第18 禊ぎによる神生みの問題点


国作り=神国日本の完成

 さて,いろいろ述べてきたが,古事記に戻ろう。

 イザナキは,禊ぎ(みそぎ)によって,黄泉国の汚穢を洗い流そうとする。その際に次々と神を生む。

 その最後の締めくくりとして,アマテラスら3神が生まれてくる。

 前述したとおり,これで「神国日本」が完成するのだ。
 国生みと神生み。この2つが揃って,葦原中国が完成するのだ。国生みが完結するのだ。そして,最後の最後に,輝かしいアマテラスらが生まれてくるという仕掛けなのだ。

 これが,古事記の構成だ。

 オオクニヌシの国作りによって完成するのではない。

 オオクニヌシは,人間社会としての国を作ったのであり,意味がまったく違う。

 この叙述の流れが大切だ。


禊ぎから神が生まれるというおかしさ

 しかし,考えてみてほしい。

 神が禊ぎをするだろうか。
 禊ぎ祓いは,人間的な行為ではないだろうか。

 人間が神を畏れ,神の前で行うのが「禊ぎ祓い」ではないだろうか。

 しかも,穢れをはらい落とす行事を,「禊ぎ祓い」という完成された宗教的儀式に高めたのは,誰あろう,人間である。

 禊ぎという,人間がする人間くさい定型的な行為から,神が生まれるとはこれいかに。

 禊から神が生まれるという構成は,きわめて人間臭い作為的な話に思える。しかも,考えてみれば,神が「死ぬ」とか,その死体から神が生まれたとか(カグツチ殺し),神を肉体化するのは,これまた新しい,人間くさい伝承ではなかろうか。

 じつは,アマテラスが,古事記における日本神話の出発点となっていく。
 そのアマテラスは,禊ぎによる清浄な環境から生まれなければならなかった。

 その,古事記特有の構造が,ここにある。


血なまぐさい伝承と禊がアマテラスら3神の原点

 ここで,黄泉国巡りの話,日本書紀第5段第6の一書と古事記を,別の観点から振り返ってみよう。

 この一連の伝承は,いかにも血なまぐさい。

 イザナミの「死」。カグツチ「殺し」。カグツチを切った剣から滴る血の描写。あまりにも無惨なイザナミの「死体」。

 血からさえも,死体からさえも,神が生まれてくるのだ。
 それらは主に武神だった。滴る血こそが,武神の本質なのだ。

 そして,死の世界黄泉国の描写。蛆たかれころろきて(膿沸き蛆たかる)という死者の世界。

 死と殺戮と血に彩られた物語。
 だからこそ,禊ぎ(みそぎ)が必要になる。汚穢を浄化するのだ。

 その結果,支配神とされるアマテラスら3神が生まれてくる。


死と殺戮と血に彩られた物語の浄化の果てに生まれるのがアマテラス

 この3神の誕生は,死と殺戮と血に彩られた物語の,浄化の果てにあったのだ。

 日本書紀第5段第6の一書と古事記という,伝承の論理からすれば,やはり禊が必要だった。

 これは,いかにも,覇権を争った支配者好みの物語だ。

 剣を使って多くの人々を殺し,世の中を支配する。
 その,自ら招いた不浄を浄化するために,禊ぎという観念をしつらえる。
 人を殺しておいても,禊ぎをすれば安泰だ。神も許してくれる。身の清浄が保たれる。自己満足といえば自己満足。

 こうして人間は,精神の安定を保つのだ。本当に,人間臭い。
 日本書紀第5段第6の一書と古事記のアマテラス伝承は,こうした系譜上にある。

 禊ぎが人間臭い行為だというのは,こういうことだ。


血なまぐさい権威的権力的支配的な伝承の系譜は「高天原」

 じつは日本書紀には,血なまぐさい,権威的権力的支配的な伝承の系譜がある。そして,「高天原」とタカミムスヒら3神の伝承も,これに属するのだ。

 具体的にいえば,この世界観を紹介した第1段第4の一書中のさらなる異伝。

 イザナキとイザナミに,「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地有り。汝(いまし)往きて脩すべし(しらすべし)」と命令した,第4段第1の一書。

 後者は,神であるのに平気で占いをするという,出来の悪い,わけのわからない異伝だ。

 こうした,権力的支配的な伝承が,この第5段第6の一書につながってくる。

 全体を通読して,他の異伝と対照するとよくわかるのだが,とりあえず世界観だけを指摘しておくと,第5段第6の一書におけるアマテラスは,「高天原を治すべし」とされている。すなわち,「高天原」を前提とした伝承なのだ。

 いわゆる「高天原」神話は,権威的,権力的,かつ支配的。しかも,人間臭い伝承であったらしい。

 十握剣(とつかのつるぎ)を押し立てて,日本列島を支配しようとした人々が作った,都合のよい伝承だったのではないだろうか。


古事記は新しい伝承だ

 私は先に,古事記は,神に仮託して人間を語っていると述べた。国生みのところで,天つ神が太占で占いをするのは,おかしいと指摘した。

 ここでも同様な批判ができる。こうした一連の伝承,「高天原」伝承は,かなり新しいのではないだろうか。

 その新しさは,祝詞(のりと)のような言葉を多用している点にも明らかだ。

 そもそも古事記の始まりからして「鹽(しお)こをろこをろに」であり,祝詞の感覚で始まっていた。
 今,検討している部分でも,黄泉国について,「しこめしこめき穢き国」というのがある。日本書紀第5段第6の一書では,「しこめき汚穢き処」だ。

 だから古事記は,新しいと思われる第5段第6の一書の表現よりも,さらに一歩,新しい表現である。

 もちろん,祝詞の成立がいつ頃であるかという問題にリンクしている。それを調べるのも一興だろう。


アマテラスと「高天原」と死と殺戮と血に彩られた物語の浄化の果てに

 これと同様に,禊ぎという極めて人間くさい行為,そもそも人間が神の前で行う行為から,最高に貴い神が生まれてくるなんて,どうも胡散臭い。

 死と殺戮と血に彩られた物語の,浄化の果てに生まれるのが,アマテラス。
 血なまぐさい,権威的権力的支配的な伝承の系譜は,「高天原」。

 アマテラスを「天照大御神」と呼ぶように,アマテラス崇拝と「高天原」観念が結合したのが,古事記。

 私には,伝承としては,大雑把で胡散臭い系譜に属すると思える。

 日本書紀編纂者は,第5段第6の一書を,本文として採用しなかった。
 それは,見識である。


古事記における禊ぎによる神々の生成はきちんとまとめ直されている

 さて,日本書紀第5段第6の一書でのイザナキは,黄泉国から「既に還りて」となる以前,すなわちオノゴロシマに帰って来る前に,あたかもうんちが付いた服であるかの如く,きれいに脱ぎ捨てている。

 ところが古事記では,「阿波岐原」で禊ぎを始める時に,初めて服を脱いだとしている。

 「吾はいなしこめしこめき穢(きたな)き國に到りて在(あ)りけり。故,吾は御身(みみ)の禊爲む。」と述べて,禊ぎに入る。

 そして,「投げ棄つる御杖に成れる神の名は・・・」,「次に投げ棄つる御帶(みおび)に成れる神の名は・・・」など,次々と神が生まれてくるのである。

 古事記では,脱ぎ捨てられたものから成る神が,禊ぎの場面に一括してまとめられているのだ。
 禊ぎを始めてから,一括して生まれてくるのだ。

 ここが違う。


古事記はやはりリライト版

 この点,古事記の方が,古来からの伝承をまとめ直したという感がある。
 すべてを,禊ぎの場面に集約してしまったのだ。

 私が言いたいのは,「神国日本」を語る古事記ライターの几帳面さだ。

 古事記ライターは,君たちの周りにいる神々はこうして生まれたんだよ,と言いたいのだ。だから,種々雑多な神々を,整理整頓してまとめようとするのだ。

 だから古事記は,第5段第6の一書よりも新しい。


禊ぎで生まれてきた神々に関する説明文

 禊ぎでイザナキが生んだ神々は,やはり,現実に生きている人間の回りにいる神々だ。

 そうした意味で,極めて俗っぽい。高尚ではない。

 陸路の神や海路の神の他に,たとえば人間に不幸をもたらす神「八十禍津日神(やそまがつひのかみ)」に加えて,「大禍津日神(おおまがつひのかみ)」というのさえある。

 「和豆良比能宇斯神(わずらひのうしのかみ)」,すなわち,煩いの主という神まである。

 これらなどは,人間と関わりなくいる神ではなく,人間がいて,もしかしてこんなヤツがいるからこうなるのかな,などと考えた末に出現した神々だ。

 古事記は,人間の周りにいて,人間が考え出した神々を描くことに熱心だ。

 そうした神々の総体としての,「神国日本」を描こうとしている。
 必ずしも,天皇中心主義に凝り固まっているわけではない。

 なお,蛇足気味だが,「八十禍津日神」と「大禍津日神」については,「この二神は,穢繁国(けがらわしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。」という説明文がくっついている。

 もちろん日本書紀にこんな文章はない。これは,神々を整理するときに,古事記ライターがくっつけた作文だ。

 こんな説明文的なところにも,リライトの痕跡が残っている。


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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