日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さてここで,日本書紀冒頭を検討しておきたい。 第1段本文冒頭は,中国の陰陽2元論を背景にして,神々の創造を説明しようとする。 日本書紀編纂者は,物事を整理してこと足れりとする,単なる事務屋じゃなかった。 陰陽2元論とは,陽と陰,太陽と月,男と女,右と左という対立する2つの概念が,新しいものを生み出すという思想だ。 言われてみれば当たり前だが,人間はなぜ左右対称なのか。なぜ3方向に発展した不定型な怪物ではないのか。双子の宇宙論との関係はいかに。などと考えていくと,結構奥が深い。 それはともかく, だから,まず天と地が生成してから,神が生まれたというのだ。
ここからが問題だ。 日本書紀は,さらに続けて,「故曰はく(かれいはく)」で接続して,だからこうした神が生まれたと言う。 それは,葦牙(あしかび,葦の芽)のようなものが生まれて神となった,国の土台となるクニノトコタチ(国常立尊)であり,泥の形象であるクニノサツチ(国狭槌尊)であり,浮動する雲の形象であるトヨクムノ(豊斟渟尊)だった。 そしてこれらは,「乾道独化(あめのみちひとりなす)」,「純男」だというのだ。 結局この3神は,乾坤一擲という場合の「乾」,すなわち「陽」の気だけを受けて生じた神であり,「坤」すなわち「陰」の気をまったく受けていない純粋の男神だったというのである。
日本書紀冒頭のここまでで,わずか1頁足らず。 これを読んだだけで,私は,とても考え込んでしまう。 そこらへんにある書物でも,これほど露骨な矛盾は,そうそうやらかしはしない。日本書紀は,当代一流の官僚がまとめた,政府公認の史書じゃなかったのか。 意気込んで始まった日本書紀が,冒頭から破綻している。 こんな矛盾を平気で行って,恥ずかしくないのか。
おかしいと思って本を調べる。 ところが,こうした疑問に答えようとする本がないのだ。ないどころか,学者さんが書いた注釈書を読むと,さも矛盾でないような説明がしてある。 「この場合は」,陽の気だけで生まれたというのだ。 冗談じゃない。 陰陽2元論は,「一般論として提示」しただけだと言うなら,「故曰はく(かれいはく)」以後の「乾道独化(あめのみちひとりなす)」,「純男」は,日本固有の神々であり,結局,陰陽2元論ではまとめきれなかったということではないのか。 私は,日本書紀のテキストの最初のページにある,「故曰はく」前後の矛盾を発見して,自分でも日本神話が読めると直感した。 この原稿は,すべてが,日本書紀第1段本文の「故曰はく」から始まっている。
この矛盾をどう受け止めればよいのか。 「故曰はく」で接続する前は,学者さんが指摘するとおり,中国の古典である准南子や芸文類聚から採った官僚の作文。 そう考えると,所詮中国からの借り物の陰陽2元論では整理しきれない神々が,日本古代にいたことがわかる。
知識豊富で,文字どおり出来のよい官僚だったからこそ,陰陽2元論という世界観を使って,論旨一貫した世界を構築しようとした。日本書紀冒頭に陰陽2元論をバーンともってきて,そこから説明をつけようとした。 その意気や,よし。自分の意見をもち,自分の頭があり,体系的発想ができる男だ。それは評価する。 しかし残念ながら,もともと男神の世界であった古代日本の現実を否定することはできなかった。「故曰はく」で接続した後は,「乾道独化」「純男」の神を並べざるを得なかったのだ。 陰陽2元論では説明できない1元論的神々が,日本古来の神々だったのだ。
だから,イザナキとイザナミという男女ペアの神が本当にいたのか。もっと言えば,アマテラス(アマテラス)は本当に日本古来の神なのか,という問題意識をもたねばならない。 ただ,情報は限られている。 たとえば,日本書紀第3段本文は,第2段の4組の男女ペア神8神を,「乾坤の道相参(まじ)りて化る(なる)」。このゆえに「男女」をなすとしている。そして,第1段の3神に加えて,4組のペアを4神と考えて合計7神,まとめて「神世七代」としている。 日本書紀冒頭の陰陽2元論は,所詮こじつけだ。 日本古来の神々は男神だったがゆえに,第1段では「乾道独化」「純男」3神という矛盾を犯さざるを得なかった。 しかしその後,第2段で,4組の男女ペア神を展開して,「乾坤」の道,すなわち陰陽2元論の面目を保ったのだ。 これが創作なのか否かは,はっきりしない。
そこで,異伝を検討してみよう。 第1段第1の一書は,アオカシキネ(青橿城根尊=あおかしきねのみこと)1神が,1人でイザナキとイザナミを生んだとしている。陰陽2元論に反する伝承だ。 こうなると,第2段第2の一書も輝いてくる。 この異伝は,クニノトコタチのあと,天鏡尊,天万尊,沫蕩尊(あわなぎのみこと),イザナキと続く系譜を語っている。もちろん男神の系譜だ。 第2段第2の一書は,古代日本にあった原初の神々の系譜なのだろうか。 じつは,第2段第2の一書の系譜は,「宋書日本伝」に見える系譜だ。日本の僧チョウネンが984年に中国に渡り,王の年代紀を献上した。その年代紀に見える神名なのだ。 そこでは,天御中主,天村雲尊,天八重雲尊,天弥聞尊,天忍勝尊等々が羅列され,第2の一書が引用しているとおり,クニノトコタチのあと,天鑑尊,天万尊,沫名杵尊,イザナキと続いている。 そのイザナキの次は,スサノヲ,アマテラス,アメノオシホミミ,天彦尊,炎尊,ヒコナギサと続く。 第2段第2の一書には,アマテラスがいなかった。984年ころの,この伝承には,アマテラスがいる。 これは,古来の伝承に,日本書紀,古事記で確立したアマテラスが付け加えられたと考えるべきだろう。
問題は,男女ペア神4組をどう考えるかだ。 日本古来の神は男神だった。男神と女神が遘合(みとのまぐわい)や陰陽2元論によって神を作るという考えはなかった。陰陽2元論では説明できずに破綻していた。 男女ペア神4組は,本当に伝承として存在したのだろうか。 大原則たる陰陽2元論に合わせるため,強引に作り出しただけではないのか。原初の神々の系譜は,男神が淡々と羅列されているだけではなかったか。
私がこんなことを考えるのも,日本書紀の「叙述と文言」からすれば,イザナミがいつの間にか消えてしまうからだ。 ここで,日本書紀第5段本文と第6段本文に跳ぶ。これを続けて読んでみよう。 イザナキとイザナミは,第5段本文で,日の神(いわゆるアマテラス),月の神(いわゆるツクヨミ=月読尊),スサノヲを生む。そして,「其の父母の二の神」すなわちイザナキとイザナミは,暴虐なスサノヲに対して,根国(ねのくに)に行けと命令する。 第6段本文になるとスサノヲは,その前に高天原にいる日の神(いわゆるアマテラス)に会ってから根国へ行きたいと申し出る。 ところが,第6段本文でスサノヲの根国行きを「許す」と言ったのは,なぜかイザナキ1人なのだ。 その直前までイザナミと一緒だったのに,なぜかイザナミは無視されてしまっている。
そして日本書紀編纂者は,イザナミにはお構いなしに,イザナキが「神功」すでに達成したので,「幽宮(かくれみや)」を淡路島に作って,「寂然(しずか)に長く隠れましき」と述べる。 イザナキは,一人だけで,ちゃっかりと引退するのだ。 その直後に異伝を引用しているのだが,それもイザナミを無視しており,イザナキ1人が天に上って成果を復命したという内容になっている。 これはいったいどうしたことだ。 「神功」を達成したのは,イザナミも同様だ。国生みは,男神と女神が遘合(みとのまぐわい)によって行ったはずだ。それが「神功」だったはずだ。 女神は,単なる生殖の道具だったというのだろうか。しかし,アマテラスは女神とされているのだが。
ところがイザナミは,日本書紀では,その後も登場しない。イザナキだけが登場する。 履中天皇の時代,履中天皇が淡路島で狩りをしていると,イザナキが現れて,河内飼部(かわちのうまかいべ)がしていた刺青を,「血の臭きに堪へず」と言う(履中天皇5年3月)。 やはり淡路島で狩りをしていた允恭天皇の前に現れて,我に赤石(あかし,現在の明石)の海の底にある真珠を奉れと述べた神も,イザナキなのでしょう(允恭天皇14年9月)。 このように,イザナミは,ぱったりと姿を消すのだ。
こうなると,イザナミは,陰陽2元論による国生みをするために作りだされた神なのではないかという気がしてくる。 第6段本文で,なぜイザナミが消えてしまうのか。 消えていないと言うためには,第5段本文と第6段本文とに挟まれた,第5段第6の一書,その他の異伝を,ごちゃまぜにして考えるしかない(全体的思考)。 そこでは,かの有名な「黄泉国めぐり」,火の神カグツチ(神迦具土神)を生んで黄泉国に行ったイザナミが描かれている。 イザナミは黄泉国へ行った。だからイザナキと一緒に淡路島に祭られることはなかった,というのだ。 日本神話をアバウトに読む人たちは,それで納得してしまうのだろう。 日本書紀の本文と異伝である一書を分けて考えず,あまつさえ古事記をも一緒くたにして,ごった煮のような「記紀神話」を考えている人は,それで納得するのだろう。 イザナミの黄泉国行きは,超有名なお話だ。それが日本神話の本筋だと,誰もが思っている。
しかし本当にそうだろうか。 一書は異伝であり,別伝承であるはずだ。「黄泉国めぐり」は別伝承にはあるが,本文には書かれていない。本文という伝承には,矛盾があるとしか言いようがない。 私は今のところ,イザナミがいなかったとまで言い切る勇気はない。 ただ,日本書紀本文,異伝である一書,古事記という3本柱をごっちゃにして読むことが,いかに問題意識をそぐ結果になっているか。肝に銘じておくべきである。 日本書紀本文自体に,やはり確実な矛盾がある。 一緒に国を生んだはずのイザナミがどこかに消えてしまい,イザナキだけが単独で淡路島に祭られたことになる。もともとイザナミはいなかったからこそ,祭られる場所もなかったのではないか。イザナキと一緒に祭られることもなかったのではないか。
さて,意外なところに,イザナキの足跡がある。 東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称える(神武紀31年4月)。 日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとする。そしてそれに並べて,次の事実を紹介している。 イザナキは「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び, ここにイザナミはいない。
日本古来の神々は,イザナキをも含めて単独の男神であり,イザナミ等の対になる女神はいなかったのではないだろうか。 陰陽2元論は,後で付け加えられた屁理屈ではないだろうか。 いつの頃か,対になる女神が付け加えられた伝承が成立したのであろう。それが第5段第6の一書なのだろう。そして,一部は日本書紀本文にも残された。 これが,日本書紀本文,異伝である一書,古事記という3本を区別して読んだときの,「叙述と文言」からの帰結である。
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