日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第68 天孫降臨の叙述の構造


第9段第1の一書の天孫降臨(天子降臨に接ぎ木した天孫降臨)

 さて,国譲りという名の侵略が終わり,晴れて天孫降臨である。

 前述したとおり,「天子降臨」が最後の最後に「天孫降臨」に変わってしまうのが,第9段第1の一書と古事記だった。

 アマテラスが「天子降臨」を企て,我が子アメノオシホミミを天降そうとしたとき,皇孫ニニギが生まれ,突然,「天孫降臨」に変化してしまう。

 それは,日本書紀本文,異伝としての一書全体の中で見ても,毛色の変わった異伝であった。
 しかし,「皇祖神天照大神」という観念を貫けば,そうなるという異伝だった。

 いずれにせよ,異伝なのであった。

 私は,古事記の天孫降臨を,「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」と呼んでおいた。


なぜ「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」なのか(復習)

 古事記は,アマテラス中心に再構成された,新しい神話である。
 古来の伝承は,タカミムスヒ中心の神話だった。それが日本書紀に残っている。

 神武天皇が,イザナキ・イザナミ神話,日向神話,「日の神」神話など,日本神話の原初的伝承を背負って,日向の吾田を出発して「東征」し,ヤマトに入ったとき,そこには,偉大なるオオナムチがいた。

 そこで,日本神話の再構成がなされ,日の神には,アマテラスが選ばれた。

 その時,アマテラス「大御神」,アマテラス一本主義の古事記ライターにとって,「天子降臨」を貫けば,本当はそれで済むはずだ。

 しかし,その神話の再構成の時,はずせなかったのが,タカミムスヒだ。
 タカミムスヒが,朝鮮から渡ってきて,南九州の吾田で日の神(アマテラス)と混交したことは,すでに述べたとおりだ。

 「天子降臨」神話と共に,このアマテラスとの関係を作らなければならない。

 しかも,本来の命令神,権威的,権力的,支配的な命令神は,タカミムスヒだった。

 タカミムスヒがアマテラスに結びつくことができるのは,単なる系図しかない。何度も言うとおり,タカミムスヒは,天孫の父親という関係で,アマテラスとつながっているにすぎない。

 私はそれを,「アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」と呼んでおいた。

 タカミムスヒは,系図だけで結びつく。そのためには,天孫ニニギに生まれてもらわなければならない。

 だったら,最後のどんでん返しで,天孫ニニギが生まれてくるとするしかない。

 以上が,古事記ライターの叙述意図だ。


異様なロマンにあふれる第9段第1の一書

 降臨する天孫の,にぎにぎしくも華やかな描写がなされ,いわゆる「天壌無窮の神勅」が語られるのが,第9段第1の一書だ。

 「葦原千五百秋之瑞穗國は,是吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾(いまし)皇孫,就(ゆ)きて治せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)んなること當に天壤(あめつち)と窮(きわまり)無けん」。

 ス・・・,スバラシイ。ロマンがあります。ロマン派ですね,この作者は。

 でも,読んでいて恥ずかしくなる。
 戦前の人は熱狂したのだろうか。

 そして,降臨先までの道案内役として,サルタヒコ(猿田彦大神)が登場する。
 そこでは,アメノウズメ(天鈿女命=あめのうずめのみこと)も登場し,猿女の君(サルメノキミ)の名称の由縁が語られる。


第9段第1の一書は流れが悪い

 第9段第1の一書と古事記の天孫降臨は,同系統の伝承だ。だからここで,比較検討してみよう。

 この第9段第1の一書は,じつは,読んでいてゴツゴツする。流れが悪い。

 何度も言うとおり,「天子降臨」途中で天孫が生まれ,「天孫降臨」に変化してしまう。

 読者は,突如生まれる天孫ニニギにとまどう。その素性がわからない。

 テキストで1ページさかのぼると,
 「天照大~,思兼~の妹萬幡豐秋津媛命(よろづはたとよあきつひめのみこと)を以ちて正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊に配(あわ)せて妃と爲し」,とある。

 はて,この「思兼~」の素性はいかに,となってしまう。

 これは,第7段第1の一書によるとタカミムスヒの息子なのであるが,それが頭にないと,何とも読みづらい。


第9段第1の一書の展開に説明書きを加えた古事記

 そこで古事記ライターは,こうした。

 「この御子は,高木~の女(むすめ),萬幡豐秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあい)して生みませる子,天火明命(あめのほあかりのみこと),次に日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)【二柱】なり。」

 説明書きを付け加えたわけだ。

 高木神(タカミムスヒ)とアマテラスの孫であるとわかれば,誰もが納得するというわけだ。

 もちろん,第9段第1の一書には,こんな説明書きはなく,そのまま天孫降臨の場面に移っていく。


サルタヒコの長々した話を整理した古事記

 それだけではない。

 第9段第1の一書は,「天壌無窮の神勅」という,にぎにぎしいイデオローグを挿入する割には,降臨自体の叙述が短い。

 そして,その直後にサルタヒコ(猿田彦大神)が登場し,アメノウズメ(天鈿女命)とのやり取りが,文字どおり「延々と」展開されるので,天孫降臨の叙述がかすんでしまっている。

 このやり取りの描写の方が,はるかに長い。天孫降臨を忘れてしまいそうだ。

 古事記ライターはどうしたか。

 古事記ライターは,天孫降臨前に,サルタヒコの話を挿入した。
 サルタヒコが登場し,私が道案内すると申し出て,やっと準備万端整い,いよいよ天孫降臨となるわけだ。

 猿女の君の名称の由縁は,その後に語られる。
 これは付け足しのお話だから,語るとすれば,降臨の場面が終わったあとに,付け足しのように入れるのが正しい。


第9段第1の一書と古事記の展開の比較

 整理すると,以下のとおりだ。

(第9段第1の一書)     (古事記)

天子から天孫へ交代      天子から天孫へ交代
               天孫ニニギの素性を説明
 ↓              ↓
三種の宝物授与と五部神     ↓
 ↓              ↓
天壌無窮の神勅        言依さし(天壌無窮の神勅に相当)
 ↓              ↓
サルタヒコの登場       サルタヒコの登場
 ↓              ↓
アメノウズメの登場      アメノウズメの登場
 ↓              ↓
 ↓ (以上が延々続く)   三種の宝物授与と五伴緒(五部神に相当)
 ↓              ↓ (以上で天孫降臨の準備完了)
 ↓              ↓ 
天孫降臨 (目立たない)   天孫降臨,降臨場所の国褒め
 ↓              ↓
猿女君の由来         猿女君の由来(付け足し)


天孫降臨の叙述がかすんでいる第9段第1の一書

 第9段第1の一書を読んでいると,三種の宝物を天孫ニニギに授与し,五部神を付き添わせて,天壌無窮の神勅を発して,さあ天孫降臨というのに,サルタヒコとアメノウズメのやり取りが,テキストにして1頁も挿入される。

 だから,肝心の「天磐座(あめのいわくら)を脱離(おしはな)ち,天八重雲(あめのやえたなぐも)を排(お)し分けて,稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて,天降ます」という天孫降臨の描写が,テキストの中に埋もれてしまっているのだ。

 そして,さらに猿女君の由来話にいくから,せっかくの天孫降臨が,かすんでしまう。

 「天磐座を脱離ち,・・・」という場面は,サルタヒコとアメノウズメと猿女君の由来を語る全体,テキストにして2頁弱の中の,ほんの2行程度。

 これでは,天孫降臨を描いているのか,サルタヒコらを描いているのか,わからない。


古事記ライターの苦心の跡

 サルタヒコは,しょせん,降臨する天孫の案内役だ。脇役にすぎない。

 古事記ライターは,案内役の登場というモチーフのもとで,天孫降臨の準備の一環としてとらえ,サルタヒコとアメノウズメの話を圧縮し,三種の宝物を与え,五伴緒(五部神に相当)を添えて,こうして準備万端整ったところで,華々しくもにぎにぎしい天孫降臨を描いている。

 実際の降臨の描写は,スペースを割いて堂々と叙述する。

 こうして,第9段第1の一書がもっている,叙述上のもやもやをなくした。

 最後に残った猿女の君の由縁話は,単なる脇筋の話だから,天孫降臨の後に付け足しのように置いた。

 これで,第9段第1の一書を読んだときの問題点は,きれいに解決された。

 このように古事記には,古来の伝承そのものとは思えない,苦心の跡がある。


いったい誰の「太子」かという問題

 さて,古事記の天孫降臨場面の冒頭は,こうなっている。

 「ここに天照大御神,高木神の命もちて,太子(ひつぎのみこ)正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(アメノオシホミミ)に詔りたまひしく」。
 「今,葦原中國を平(ことむ)け訖(を)へぬと白せり。故,言依さしたまひし隨(まにま)に,降りまして知らしめせ」。

 どこかおかしくないだろうか。

 「太子」って,いったい誰との関係で「太子」なのだろうか。

 「太子」は,いわゆる世継ぎだ。
 でも,アメノオシホミミはアマテラスの子だが,高木神(タカミムスヒ)の子ではない。なんの血のつながりもない。

 この時点では,天孫ニニギさえ生まれていないのだから,高木神は,天孫の外戚という地位さえ獲得していない。

 アメノオシホミミの父親は,正確に言えばスサノヲだ。

 だからここでは,アマテラスとの関係で「太子」と呼んでいると考えるほかない。
 しかし,そう読めないところが,問題だ。


「太子」という文言を使用する神経が理解できない

 そんなことよりも,「太子(ひつぎのみこ)」という文言自体が極めて問題だ。

 「太子」は,「聖徳太子」という場合の「太子」だ。

 神代(かみよ)の話,すなわち神々の時代の話に,突然,神武天皇以降の皇太子の呼び名,「太子」が使用されているのだ。

 たとえば日本書紀の神武天皇即位前紀には,「年十五にして,立ちて太子と為りたまふ」とある。
 安寧天皇即位前紀には,安寧天皇は「神渟名川耳天皇(かんぬなかはみみのすめらみこと,綏靖天皇)の太子なり」とある。

 開化紀ころからは,「皇太子」という文言が「太子」に代わるようだ。

 とにかく,日本書紀を読んでいると,神代の天孫降臨の段で「太子」という文言が堂々と登場するのは,極めて奇異である。

 古事記ライターが,ついシッポを出してしまったというか。


学者さんの意見

 学者さんもこれには気づいたようで,一般には「ひつぎのみこ」と読まれているが,この文言の確実な例は平安末期以降で,後世の造語らしいと述べている。「オホミコ」と読んでおくとしている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,113頁)。

 平安末期以降の造語が,なぜここにあるのか。古事記は奈良時代の712年に完成した書物じゃなかったのか。

 大王を「オホキミ」と読むのはわかる。

 日本書紀や古事記の他の部分で,こんな読み方をする箇所があっただろうか。単なる辻褄合わせではないだろうか。


アメノオシホミミを突然「太子」と呼ぶ理由

 ここに至るまで,アメノオシホミミは何度も登場している。葦原中国を支配すべき者として,「我が御子」などと呼ばれている。

 しかし,そのいずれにも,「太子」という肩書きはなかった。

 天孫降臨の準備段階に至って,なぜ突然「太子」などと呼び始めるのだろうか。「太子」と決まっていたならば,初めから「太子」と呼べばいいじゃないか。

 この叙述の直後に何が来るか。
 突然天孫ニニギが生まれて,「天子降臨」が「天孫降臨」に成り代わる場面だ。

 すなわち,「太子」の直後に天孫が生まれて,ここに晴れて高木神(タカミムスヒ)は,外戚関係を獲得するのだ。

 古事記ライターが,誇らしく,「この御子は,高木~の女(むすめ),萬幡豐秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあい)して生みませる子,天火明命(あめのほあかりのみこと),次に日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)【二柱】なり。」という説明書きを加えたことは,前述した。

 要するに古事記ライターは,この展開を先取りして,「太子」とやったのだ。

 でも,くどいようだが,この段階では,タカミムスヒは,アマテラスの「家系」とは全く関係のない,第三者なのだ。


古事記ライターの性癖を思い出そう

 古事記ライターの悪癖は,皆さんご承知のとおりだ。

 神世七代の場面では,「伊邪那岐神」,「伊邪那美神」。「神」だった。
 ところが,修理固成の命令を受ける場面では,「伊邪那岐命」,「伊邪那美命」。「神」の格下の「命」。
 ところが,火の神カグツチ(迦具土神)を生んだイザナミは,「その神避りし伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆(ひば)の山に葬りき」。「神」に戻るのだった。

 神世七代として登場した場面では,神々(こうごう)しくも「神」。
 修理固成の命令を受けるところでは,天つ神の下働き,将棋の駒だから「命」。
 そしてヨモツオオカミ(泉津大神)となったイザナミは「神」に戻る。

 コトシロヌシは,国譲りという名の侵略の場面だけでも,八重言代主神 → 八重事代主神 → 事代主神 → 八重事代主神と,転々とした。

 オオクニヌシが,国をどうするか我が子に回答させようとする場面では,「八重言代主神」。「八重」という修辞で,いかにも神の言葉は何でも伝えるぞという雰囲気を作り,「事」を「言」にして,神の言葉を告げるようなそぶりを見せる。

 しかし,場面が変われば,あっさりと表記を変えてしまうのだ。これに惑わされた学者が,コトシロヌシは神の託宣を伝える神だと,もっともらしく主張したのである。

 「御子」だったアメノオシホミミが,突然「太子」になっても,何の疑問もない。

 私には,古事記ライターらしくていいじゃないか,とさえ感じられる。


古事記ライターの心情

 私たちは,こうした出来の悪いライター精神を理解し,一貫性のない叙述を心がけている古事記ライターの心情に寄り添うようにして,古事記を理解しなければならないのだ。

 そこで,もう一度,古事記ライターの心情に沿って考えてみよう。

 古事記ライターは,なぜ天孫降臨の準備段階の場面に至って初めて,アメノオシホミミに「太子(ひつぎのみこ)」という肩書きを与えたのだろうか。

 それまでアマテラスは,「我が御子」「我が御子」と呼んでいた。

 ところが古事記ライターは,「天孫降臨」という場面を描き始めて,これは,後世にいう「太子」なのだと考えた。
 いや,考えたのではなく,直感的に感じた。

 だから「太子」という肩書きを,つい,書いてしまった。


「言依さし」の強調

 その背景には,古事記で繰り返し強調される「言依さし」の原理があっただろう。誰にも文句を言わせない,支配者の正当性の根源。

 革命思想を許容してしまう天命思想に対する,アンチテーゼ。これが,古事記が強調する「言依さし」の原理だった。

 天皇の権力の源泉は,天命ではない。天は「高天原」(古事記冒頭)だが,そこにはすでに,無前提の前提として,タカミムスヒら3神がいた。

 そのタカミムスヒが,アマテラスと共に葦原中国を支配するのだ。

 タカミムスヒは,天命思想の「天」の原理を体現し,アマテラスは,天皇の祖先としての「血」の原理を体現している。「言依さし」の原理は,こうした2つの原理が統合したものである。

 ここにはもはや,革命はない。

 こうした意識がつい出てしまったのが,「太子」だ。

 天孫ニニギは,アマテラスのみならず,タカミムスヒにとっても「太子」でなければならぬ。

 「太子」という言葉は,一見些細な問題のようだが,叙述の構造にかかわる問題をはらんでいるのだ。


オオクニヌシとアメノオシホミミとは世代がまったく異なる

 さて,重箱の隅をつつくようだが,世代の問題を述べておこう。

 アマテラスはスサノヲの兄弟だ。その子が降臨しようとする。一方その頃(その頃と言っても,叙述上のことだが)出雲国には,オオクニヌシがいた。オオクニヌシは,スサノヲを第1世代として数えると第7世代になる。

 世代が合わないね。

 日本書紀を見ましょう。

 第8段本文は,オオナムチ(古事記におけるオオクニヌシ)は第2世代だとしている。スサノヲの子なのだ。

 第1の一書はスサノヲの子の「五世の孫」が「オオクニヌシ」だとしている。「オオクニヌシ」は第6世代となる。第2の一書はスサノヲの「六世の孫」が「オオナムチ」だとしている。

 異伝である一書は,ほぼ一致して,六世の孫がオオクニヌシだとしている。

 やはり混乱があったのだ。日本書紀本文は,世代が合うように,オオナムチを第2世代だとした。

 世代が合わないまま,なんの配慮もしなかったのが古事記だということになる。


古事記が羅列する神名は信用できるのか

 そして古事記は,スサノヲからオオクニヌシに至る系譜を,完璧に叙述している。生まれた子と母親の神名を,完璧に記している。

 日本書紀の異伝では,単に六世の孫というだけで,その間の神名はまったくわからない。

 古事記の方が詳細だから信用できるのだろうか。

 通説によれば,日本書紀は古事記の8年後に成立しているのだ。その日本書紀は,なぜ古事記が羅列する神名を羅列していないのだろうか。

 古事記を見はしたが,信用しなかったのだろうか。それとも,古事記を見ていないのだろうか。

 日本書紀は官撰の史書だ。当代一流の官僚が編纂した書物だ。知を独占していた者が編纂した書物だ。当時の国の公文書だ。

 それが,なぜ古事記を無視しているのか。

 古事記という書物は,よくよく不可思議な書物である。


「天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命」という名前のすごさ

 さて,話は前後するが,天孫ニニギに降臨が命令されるわけだ。

 その天孫の名前は,「天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命」。
 これが,いかに凄いか。

 以下,一覧表にする。

 古事記      天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命

 紀第9段本文           天津彦 彦 火瓊瓊杵尊

 第1の一書            天津彦 彦 火瓊瓊杵尊

 第2の一書            天津彦   火瓊瓊杵尊

 第4の一書            天津彦國光彦火瓊瓊杵尊

 第6の一書            天津彦根  火瓊瓊杵根尊
                (天國饒石 彦 火瓊瓊杵尊)

 第7の一書            天之杵   火火置P尊
                       (火瓊瓊杵尊)

 第8の一書    天饒石 国饒石 天津彦   火瓊瓊杵尊


古事記の名前は加上中の加上

 「ホノニニギ」が根幹部分で,あとは,美称。いわゆる加上であることがわかる。

 加上説というのがある。
 時代が降るにしたがい,次々に物語などが付け加えられるという説だ。

 これによれば,文句なく,古事記が一番新しい伝承だということになる。

 そして,その「ニニギ」は,にぎにぎしいという意味である。

 「天」においてもにぎにぎしく,「國」においてもにぎにぎしい「天津日高日子」,ホノニニギでござる,というわけだ。


異伝中の異伝である日本書紀第9段第8の一書と同じ伝承

 それだけでなく,一見してわかるように,名前だけ見れば,日本書紀第9段第8の一書と同じ伝承である。

 いや,それだけでなく,「火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)」で後述するとおり,天火明命を天孫ニニギの兄とする点でも,古事記とこの異伝は同じなのである。

 そしてこの第9段第8の一書は,日本書紀の伝承中でも,異伝中の異伝である。

 古事記は,決して,日本神話の本流ではない。

 私は,この論文で,何度も指摘してきた。古事記は異伝である。しかも新しい。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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