日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さて,国譲りという名の侵略が終わり,晴れて天孫降臨である。 前述したとおり,「天子降臨」が最後の最後に「天孫降臨」に変わってしまうのが,第9段第1の一書と古事記だった。 アマテラスが「天子降臨」を企て,我が子アメノオシホミミを天降そうとしたとき,皇孫ニニギが生まれ,突然,「天孫降臨」に変化してしまう。 それは,日本書紀本文,異伝としての一書全体の中で見ても,毛色の変わった異伝であった。 いずれにせよ,異伝なのであった。 私は,古事記の天孫降臨を,「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」と呼んでおいた。
古事記は,アマテラス中心に再構成された,新しい神話である。 神武天皇が,イザナキ・イザナミ神話,日向神話,「日の神」神話など,日本神話の原初的伝承を背負って,日向の吾田を出発して「東征」し,ヤマトに入ったとき,そこには,偉大なるオオナムチがいた。 そこで,日本神話の再構成がなされ,日の神には,アマテラスが選ばれた。 その時,アマテラス「大御神」,アマテラス一本主義の古事記ライターにとって,「天子降臨」を貫けば,本当はそれで済むはずだ。 しかし,その神話の再構成の時,はずせなかったのが,タカミムスヒだ。 「天子降臨」神話と共に,このアマテラスとの関係を作らなければならない。 しかも,本来の命令神,権威的,権力的,支配的な命令神は,タカミムスヒだった。 タカミムスヒがアマテラスに結びつくことができるのは,単なる系図しかない。何度も言うとおり,タカミムスヒは,天孫の父親という関係で,アマテラスとつながっているにすぎない。 私はそれを,「アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」と呼んでおいた。 タカミムスヒは,系図だけで結びつく。そのためには,天孫ニニギに生まれてもらわなければならない。 だったら,最後のどんでん返しで,天孫ニニギが生まれてくるとするしかない。 以上が,古事記ライターの叙述意図だ。
降臨する天孫の,にぎにぎしくも華やかな描写がなされ,いわゆる「天壌無窮の神勅」が語られるのが,第9段第1の一書だ。 「葦原千五百秋之瑞穗國は,是吾が子孫の王たるべき地也。宜しく爾(いまし)皇孫,就(ゆ)きて治せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)んなること當に天壤(あめつち)と窮(きわまり)無けん」。 ス・・・,スバラシイ。ロマンがあります。ロマン派ですね,この作者は。 でも,読んでいて恥ずかしくなる。 そして,降臨先までの道案内役として,サルタヒコ(猿田彦大神)が登場する。
第9段第1の一書と古事記の天孫降臨は,同系統の伝承だ。だからここで,比較検討してみよう。 この第9段第1の一書は,じつは,読んでいてゴツゴツする。流れが悪い。 何度も言うとおり,「天子降臨」途中で天孫が生まれ,「天孫降臨」に変化してしまう。 読者は,突如生まれる天孫ニニギにとまどう。その素性がわからない。 テキストで1ページさかのぼると, はて,この「思兼~」の素性はいかに,となってしまう。 これは,第7段第1の一書によるとタカミムスヒの息子なのであるが,それが頭にないと,何とも読みづらい。
そこで古事記ライターは,こうした。 「この御子は,高木~の女(むすめ),萬幡豐秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあい)して生みませる子,天火明命(あめのほあかりのみこと),次に日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)【二柱】なり。」 説明書きを付け加えたわけだ。 高木神(タカミムスヒ)とアマテラスの孫であるとわかれば,誰もが納得するというわけだ。 もちろん,第9段第1の一書には,こんな説明書きはなく,そのまま天孫降臨の場面に移っていく。
それだけではない。 第9段第1の一書は,「天壌無窮の神勅」という,にぎにぎしいイデオローグを挿入する割には,降臨自体の叙述が短い。 そして,その直後にサルタヒコ(猿田彦大神)が登場し,アメノウズメ(天鈿女命)とのやり取りが,文字どおり「延々と」展開されるので,天孫降臨の叙述がかすんでしまっている。 このやり取りの描写の方が,はるかに長い。天孫降臨を忘れてしまいそうだ。 古事記ライターはどうしたか。 古事記ライターは,天孫降臨前に,サルタヒコの話を挿入した。 猿女の君の名称の由縁は,その後に語られる。
整理すると,以下のとおりだ。 (第9段第1の一書) (古事記) 天子から天孫へ交代 天子から天孫へ交代
第9段第1の一書を読んでいると,三種の宝物を天孫ニニギに授与し,五部神を付き添わせて,天壌無窮の神勅を発して,さあ天孫降臨というのに,サルタヒコとアメノウズメのやり取りが,テキストにして1頁も挿入される。 だから,肝心の「天磐座(あめのいわくら)を脱離(おしはな)ち,天八重雲(あめのやえたなぐも)を排(お)し分けて,稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて,天降ます」という天孫降臨の描写が,テキストの中に埋もれてしまっているのだ。 そして,さらに猿女君の由来話にいくから,せっかくの天孫降臨が,かすんでしまう。 「天磐座を脱離ち,・・・」という場面は,サルタヒコとアメノウズメと猿女君の由来を語る全体,テキストにして2頁弱の中の,ほんの2行程度。 これでは,天孫降臨を描いているのか,サルタヒコらを描いているのか,わからない。
サルタヒコは,しょせん,降臨する天孫の案内役だ。脇役にすぎない。 古事記ライターは,案内役の登場というモチーフのもとで,天孫降臨の準備の一環としてとらえ,サルタヒコとアメノウズメの話を圧縮し,三種の宝物を与え,五伴緒(五部神に相当)を添えて,こうして準備万端整ったところで,華々しくもにぎにぎしい天孫降臨を描いている。 実際の降臨の描写は,スペースを割いて堂々と叙述する。 こうして,第9段第1の一書がもっている,叙述上のもやもやをなくした。 最後に残った猿女の君の由縁話は,単なる脇筋の話だから,天孫降臨の後に付け足しのように置いた。 これで,第9段第1の一書を読んだときの問題点は,きれいに解決された。 このように古事記には,古来の伝承そのものとは思えない,苦心の跡がある。
さて,古事記の天孫降臨場面の冒頭は,こうなっている。 「ここに天照大御神,高木神の命もちて,太子(ひつぎのみこ)正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(アメノオシホミミ)に詔りたまひしく」。 どこかおかしくないだろうか。 「太子」って,いったい誰との関係で「太子」なのだろうか。 「太子」は,いわゆる世継ぎだ。 この時点では,天孫ニニギさえ生まれていないのだから,高木神は,天孫の外戚という地位さえ獲得していない。 アメノオシホミミの父親は,正確に言えばスサノヲだ。 だからここでは,アマテラスとの関係で「太子」と呼んでいると考えるほかない。
そんなことよりも,「太子(ひつぎのみこ)」という文言自体が極めて問題だ。 「太子」は,「聖徳太子」という場合の「太子」だ。 神代(かみよ)の話,すなわち神々の時代の話に,突然,神武天皇以降の皇太子の呼び名,「太子」が使用されているのだ。 たとえば日本書紀の神武天皇即位前紀には,「年十五にして,立ちて太子と為りたまふ」とある。 開化紀ころからは,「皇太子」という文言が「太子」に代わるようだ。 とにかく,日本書紀を読んでいると,神代の天孫降臨の段で「太子」という文言が堂々と登場するのは,極めて奇異である。 古事記ライターが,ついシッポを出してしまったというか。
学者さんもこれには気づいたようで,一般には「ひつぎのみこ」と読まれているが,この文言の確実な例は平安末期以降で,後世の造語らしいと述べている。「オホミコ」と読んでおくとしている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,113頁)。 平安末期以降の造語が,なぜここにあるのか。古事記は奈良時代の712年に完成した書物じゃなかったのか。 大王を「オホキミ」と読むのはわかる。 日本書紀や古事記の他の部分で,こんな読み方をする箇所があっただろうか。単なる辻褄合わせではないだろうか。
ここに至るまで,アメノオシホミミは何度も登場している。葦原中国を支配すべき者として,「我が御子」などと呼ばれている。 しかし,そのいずれにも,「太子」という肩書きはなかった。 天孫降臨の準備段階に至って,なぜ突然「太子」などと呼び始めるのだろうか。「太子」と決まっていたならば,初めから「太子」と呼べばいいじゃないか。 この叙述の直後に何が来るか。 すなわち,「太子」の直後に天孫が生まれて,ここに晴れて高木神(タカミムスヒ)は,外戚関係を獲得するのだ。 古事記ライターが,誇らしく,「この御子は,高木~の女(むすめ),萬幡豐秋津師比賣命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)に御合(みあい)して生みませる子,天火明命(あめのほあかりのみこと),次に日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)【二柱】なり。」という説明書きを加えたことは,前述した。 要するに古事記ライターは,この展開を先取りして,「太子」とやったのだ。 でも,くどいようだが,この段階では,タカミムスヒは,アマテラスの「家系」とは全く関係のない,第三者なのだ。
古事記ライターの悪癖は,皆さんご承知のとおりだ。 神世七代の場面では,「伊邪那岐神」,「伊邪那美神」。「神」だった。 神世七代として登場した場面では,神々(こうごう)しくも「神」。 コトシロヌシは,国譲りという名の侵略の場面だけでも,八重言代主神 → 八重事代主神 → 事代主神 → 八重事代主神と,転々とした。 オオクニヌシが,国をどうするか我が子に回答させようとする場面では,「八重言代主神」。「八重」という修辞で,いかにも神の言葉は何でも伝えるぞという雰囲気を作り,「事」を「言」にして,神の言葉を告げるようなそぶりを見せる。 しかし,場面が変われば,あっさりと表記を変えてしまうのだ。これに惑わされた学者が,コトシロヌシは神の託宣を伝える神だと,もっともらしく主張したのである。 「御子」だったアメノオシホミミが,突然「太子」になっても,何の疑問もない。 私には,古事記ライターらしくていいじゃないか,とさえ感じられる。
私たちは,こうした出来の悪いライター精神を理解し,一貫性のない叙述を心がけている古事記ライターの心情に寄り添うようにして,古事記を理解しなければならないのだ。 そこで,もう一度,古事記ライターの心情に沿って考えてみよう。 古事記ライターは,なぜ天孫降臨の準備段階の場面に至って初めて,アメノオシホミミに「太子(ひつぎのみこ)」という肩書きを与えたのだろうか。 それまでアマテラスは,「我が御子」「我が御子」と呼んでいた。 ところが古事記ライターは,「天孫降臨」という場面を描き始めて,これは,後世にいう「太子」なのだと考えた。 だから「太子」という肩書きを,つい,書いてしまった。
その背景には,古事記で繰り返し強調される「言依さし」の原理があっただろう。誰にも文句を言わせない,支配者の正当性の根源。 革命思想を許容してしまう天命思想に対する,アンチテーゼ。これが,古事記が強調する「言依さし」の原理だった。 天皇の権力の源泉は,天命ではない。天は「高天原」(古事記冒頭)だが,そこにはすでに,無前提の前提として,タカミムスヒら3神がいた。 そのタカミムスヒが,アマテラスと共に葦原中国を支配するのだ。 タカミムスヒは,天命思想の「天」の原理を体現し,アマテラスは,天皇の祖先としての「血」の原理を体現している。「言依さし」の原理は,こうした2つの原理が統合したものである。 ここにはもはや,革命はない。 こうした意識がつい出てしまったのが,「太子」だ。 天孫ニニギは,アマテラスのみならず,タカミムスヒにとっても「太子」でなければならぬ。 「太子」という言葉は,一見些細な問題のようだが,叙述の構造にかかわる問題をはらんでいるのだ。
さて,重箱の隅をつつくようだが,世代の問題を述べておこう。 アマテラスはスサノヲの兄弟だ。その子が降臨しようとする。一方その頃(その頃と言っても,叙述上のことだが)出雲国には,オオクニヌシがいた。オオクニヌシは,スサノヲを第1世代として数えると第7世代になる。 世代が合わないね。 日本書紀を見ましょう。 第8段本文は,オオナムチ(古事記におけるオオクニヌシ)は第2世代だとしている。スサノヲの子なのだ。 第1の一書はスサノヲの子の「五世の孫」が「オオクニヌシ」だとしている。「オオクニヌシ」は第6世代となる。第2の一書はスサノヲの「六世の孫」が「オオナムチ」だとしている。 異伝である一書は,ほぼ一致して,六世の孫がオオクニヌシだとしている。 やはり混乱があったのだ。日本書紀本文は,世代が合うように,オオナムチを第2世代だとした。 世代が合わないまま,なんの配慮もしなかったのが古事記だということになる。
そして古事記は,スサノヲからオオクニヌシに至る系譜を,完璧に叙述している。生まれた子と母親の神名を,完璧に記している。 日本書紀の異伝では,単に六世の孫というだけで,その間の神名はまったくわからない。 古事記の方が詳細だから信用できるのだろうか。 通説によれば,日本書紀は古事記の8年後に成立しているのだ。その日本書紀は,なぜ古事記が羅列する神名を羅列していないのだろうか。 古事記を見はしたが,信用しなかったのだろうか。それとも,古事記を見ていないのだろうか。 日本書紀は官撰の史書だ。当代一流の官僚が編纂した書物だ。知を独占していた者が編纂した書物だ。当時の国の公文書だ。 それが,なぜ古事記を無視しているのか。 古事記という書物は,よくよく不可思議な書物である。
さて,話は前後するが,天孫ニニギに降臨が命令されるわけだ。 その天孫の名前は,「天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命」。 以下,一覧表にする。 古事記 天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命 紀第9段本文 天津彦 彦 火瓊瓊杵尊 第1の一書 天津彦 彦 火瓊瓊杵尊 第2の一書 天津彦 火瓊瓊杵尊 第4の一書 天津彦國光彦火瓊瓊杵尊 第6の一書 天津彦根 火瓊瓊杵根尊 第7の一書 天之杵 火火置P尊 第8の一書 天饒石 国饒石 天津彦 火瓊瓊杵尊
「ホノニニギ」が根幹部分で,あとは,美称。いわゆる加上であることがわかる。 加上説というのがある。 これによれば,文句なく,古事記が一番新しい伝承だということになる。 そして,その「ニニギ」は,にぎにぎしいという意味である。 「天」においてもにぎにぎしく,「國」においてもにぎにぎしい「天津日高日子」,ホノニニギでござる,というわけだ。
それだけでなく,一見してわかるように,名前だけ見れば,日本書紀第9段第8の一書と同じ伝承である。 いや,それだけでなく,「火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)」で後述するとおり,天火明命を天孫ニニギの兄とする点でも,古事記とこの異伝は同じなのである。 そしてこの第9段第8の一書は,日本書紀の伝承中でも,異伝中の異伝である。 古事記は,決して,日本神話の本流ではない。 私は,この論文で,何度も指摘してきた。古事記は異伝である。しかも新しい。
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