日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)


いわゆる「国生み」を読む意味と意義

 さて,次に問題となるのは,国生みにより生まれてきた国々だ。
 通常は,どんな国が生まれてきたのか,なぜそんな呼び名なのか,などが議論される。

 しかし,その前に,「胞」をめぐる議論に引っかかってしまう。これを考えると,

@ いかに日本書紀がよくできた書物か,

A いかに日本神話研究者が日本書紀を軽視してきたか,

B その結果,いかに日本神話が歪曲されたか,

C ぼんやりと「記紀神話」ととらえる態度がいかに危険か,

などが理解できる。そこから,

D いかに日本神話を読むべきか,

という観点も出てくる。


日本書紀第4段本文

 ここはまず,しばらく日本書紀を読んでみよう。日本書紀第4段本文は,こうなっている。

 イザナキとイザナミは,次々と国を生む。

 「産(こう)む時に至るに及びて,先(ま)づ,淡路洲を以て胞とす」。

 その後,大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま),伊予二名洲(いよのふたなのしま),筑紫洲,双子の億岐洲と佐度洲,越洲(こしのしま),大洲(おおしま),吉備子洲(きびのこしま)。
 これを,「大八洲国(おおやしまのくに)」という。

 対馬嶋(つしま),壱岐嶋(いきのしま),その他の小島は,潮の泡が凝り固まってできた。


淡路洲は第1子の生み損ないという学者さん

 国生みの話の冒頭に,「淡路洲を以て胞とす」とは,どういうことだろうか。

 第4段本文は続ける。「意(みこころに)に快びざる(よろこびざる)所なり」。だから,名付けて淡路洲(あはじのしま),「吾が恥」という。

 最初の「淡路洲」は「胞」であり,喜べる存在ではなかったので,恥という名前を付けたというのだ。

 学者さんは言う。

 胞(え)とは第1子の意味であろう。「胞(え)」は「兄(え)」につながる。
 一方で,第1子は生み損ない(障害児)になるとの伝承がある。
 ここでは,そのとおり生み損ないだったので,吾が恥(あがはじ),すなわち淡路(あはじ)と名付けたのだ。

 これを知らない人は,もぐりと言われても仕方がないほど超有名な学説だ。今でも,世間に流布している。

 第1の一書に出てくる蛭児(ひるこ)についても,同様に,学者さんたちは,第1子として生み損ないだったという。


学者さんの説の問題点

 いかにもわかったような説明だ。

 しかし,「叙述と文言」から日本神話を考えたい。その立場からすれば,完璧な出鱈目というしかない。

 問題は2点ある。

@ 「胞」を第1子としている点。

A 第1子は生み損ないであるという点。

 以下,かなり長くなるが,日本神話をどう読むかという方法論上,決して無視できない論点であるし,今までの学者さんたちの議論が,いかにしょうもなかったかを,きちんと認識する恰好の材料なので,とことん検討してみたい。


まず「叙述と文言」を押さえる

 じつは,日本書紀自体に,「胞」の定義があるのだ。

 景行天皇は,播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后として,2人の子をもうける。
 兄は大碓皇子(おおうすのみこ),弟は小碓尊(おうすのみこと)。この弟こそ,日本武尊(やまとたけるのみこと)だ。日本書紀でも,超有名な部分だ。

 この2人は,「一日に同じ胞(え)にして双に(ふたご)に生れ(あれ)ませり」(景行天皇2年3月)。

 日本武尊は双子の兄弟として生まれた。それは,「同じ胞(え)」に包まれていたというのだ。

 日本書紀編纂者は,胎児が「胞」に包まれていることを知っていた。2つの胎児が1つの胞に包まれていることも知っていた。それが双子であることも知っていた。

 「胞」は,胎児を包む膜であり,第1子ではない。子供ではない。これを第1子などという人は,日本書紀をきちんと読んでいないことを自白しているようなものだ。

 学者としての立場がなくなるくらい,恥ずかしいことだと思う。


だからこそ「胞とす」と「生む」が書き分けられている

 景行天皇2年3月にはっきりと示された定義を,うっかり見落としたとしよう。
 全体を読まずに,神話の一部分だけ読んで,体系的理解を無視したことは,無罪放免しよう。

 第4段本文はこうなっている。

 「先づ(まず)淡路洲を以て胞(え)とす」。
 その後さらに,「大日本豊秋津洲」,「伊予二名洲」,「筑紫洲」,「億岐洲」と「佐度洲」の双子,「越洲」,「大洲」,「吉備子洲」を「生む」。

 要するに,動詞としての「胞とす」と「生む」が,書き分けられているのだ。

 淡路洲については「胞とす」であり,「胞として生む」とか,「胞を生む」とはなっていない。

 生むのは子供だ。これに対し「胞とす」るのは,子供以外の何かが母体から出てきたから,「胞」としたと考えるほかない。


「叙述と文言」をしっかり把握する

 もう一度,「叙述と文言」を睨んでみよう。

 「産(こう)む時に至るに及びて,先(ま)づ,淡路洲を以て胞とす」。

 子を生もうとしたら,まず,「淡路洲を以て胞とす」というだけのことですよ。
 子供が生まれてきたが,身体障害児だったとかいう話じゃない。
 子が出てくるに「及びて」,まず,「胞」が出てきたというだけのことだ。

 これが何かは,誰でも知っている。破水に伴って出てくる「おりもの」だ。

 「叙述と文言」を一切無視して,初めに母胎から出てきたから第1子と考えるのは,あまりにも雑で,お粗末な,非学問的態度と言うしかない。

 いまでも,これを真に受けて,学問に励んでいる青年がいるのだろうか。


「胞」は女性の「おりもの」である

 「胞」は,第4段本文,及び第4段第6,第8,第9の一書にも出てくる。

 どの島が「胞」であるかについては,異なっている。
 しかし,まず初めに母胎から出てくるのが「胞」であるという点では,共通している。
 第6の一書は,2つの「胞」があったとしている。これは2つに分かれて出てきたと考えておけばよいのだろう。

 ここらへんが,日本書紀編纂者の,論理一貫したところだ。と言うより,ここは,古来の伝承が一貫していたと言うべきか。

 「胞」とは,出産に先立って出てくる「おりもの」というしかない。


広辞苑でさえ不正確

 広辞苑第4版には,「え【胞】・後産(アトザン)。えな。神代紀上『淡路洲(アワジノシマ)を以て―として』」とあり,さらに「あと‐ざん【後産】・分娩の第三期。胎児の娩出(ベンシユツ)のあと,胎盤が子宮壁を離れ,卵膜とともに胞衣(エナ)として娩出されること。のちざん。こうざん。」とある。

 広辞苑は,「後産」としている。

 景行天皇2年3月の,「一日に同じ胞(え)にして双に(ふたご)に生れ(あれ)ませり」をとれば,「胞」は子を包む膜だから,「後産」でいいだろう。

 しかし,景行天皇2年3月が,ここに引用されていない。

 「神代紀上『淡路洲(アワジノシマ)を以て―として』」とは,「産(こう)む時に至るに及びて,先(ま)づ,淡路洲を以て胞とす」のことであろう。

 これをとるならば,出産の初めに,子が出てくるのに先立って出てくるものが,「胞」である。

 「後産」ではないが,「おりもの」が「胞」だ。

 広辞苑の権威も,今ひとつですね。

 とにかくこれを,「国」として数えなかったのは,当然だ。


「おりもの」であるから第1子ではないし喜ばないのはあたりまえ

 第4段本文が,「胞」を「意(みこころ)に快びざる(よろこびざる)」としているのは,「胞」が破水に伴うおりものである以上,当然だ。

 国を生むつもりが,まず初めに,破水という,形のないものが出てきたので,喜ばなかったのだ。

 ここで,細かいことを一切忘れて,日本書紀全体の「叙述」の流れから,この問題をとらえ直してみよう。俯瞰してみよう。

 第4段本文が述べているのは,性交を知らない男女が遘合(みとのまぐわい)に至る,ほのぼのとしたお話だ。

 本文の大半は,性交の方法を誤ったお話だった。

 そして,我が身に「雌(め)の元(はじめ)」というところあり,我が身に「雄(お)の元(はじめ)」というところあり,と呼び合って,性交を始めるのだ。性交の方法さえも知らなかったのだ。

 遘合に至る方法,すなわち,男が左から回るのかとか,女が先に声を上げてよいのかとかいうことはもちろん,第5の一書によれば,「其の術を知らず」。

 鳥の仕草を見て,性交の方法を知ったのでした。

 こうした,うぶな男女が,子供が出てくると思って期待して見ていたら,いきなり「胞」が出てくる。
 国どころか,形のない破水だ。

 これを見てびっくりし,「意(みこころ)に快びざる(よろこびざる)」となり,吾(あ)が恥となったのではないだろうか。

 これが「淡路洲」の地名起源説話となっているのは,後世の作り事だろうが。


神話学者さんの筋悪(すじわる)

 以上のように読み解けば,疑問など何もない。
 余計なお勉強もいらない。余計な参考書もいらない。

 ところが神話学者さんは,第1子は生み損ない(障害児)になるという他国の神話伝承をお勉強して,それをここにくっつけて,新たなる,「歪んだ神話」を作り出してしまった。

 それが,通説になって,今でも生きている。
 それに,時間と労力をかける人が,今でもいる。

 問題は,「産(こう)む時に至るに及びて,先(ま)づ,淡路洲を以て胞とす」という,日本書紀の極めて簡明な叙述を,素直に読めるかどうかである。

 そして,文章を読むときの常道である,「胞とす」と「生む」の書き分けに気付くかどうかだった。

 さらに,「胞」の定義が日本書紀にあることに気付けば,申し分ない。

 うぶな男女が,子供が出てくると思って期待して見ていたら,いきなり「胞」が出てくるという「叙述」の流れを汲み取るのは,小説を読み慣れない人には,ちょっと骨かもしれない。


神話学者さんの筋悪の証拠がいっぱい

 学者さんの説は,筋が悪いから,多くの破綻をきたしている。

 第1の一書は,まず第1子として蛭児(ひるこ)が生まれたので,葦船に載せて流し捨てたとしている。ここだけ見れば,第1子が生み損ないのようにも見える。

 しかしその原因は,遘合をするにあたってイザナキとイザナミが柱を巡ったときに,女が左から回って,しかも先に声を上げたからだ。第1の一書自身が,原因をきちんと述べているではないか。

 第1子であることとは,何の関係もない。
 蛭児が生まれた原因と,「胞」とは,まったく関係がないのだ。

 第1子が生み損ないというならば,この蛭児に続いて生まれた「淡洲(あわのしま)」も子の数に入れなかったことを,どう考えるのだろうか。第2子を子に数えなかった理由を説明できない。

 第1の一書は,第1子も第2子も,遘合に至る方法を誤ったからこそ生み損ないになり,捨てたと述べているのだ。
 第1子は生み損ないになるというドグマとは,何の関係もない。


アマテラスも第1子だったぞ(なぜ生み損ないじゃないのか)

 じつは,第5段本文にも蛭児が出てくる。

 ここは,イザナキとイザナミが天の下を支配する者を生む部分だ。まずアマテラスを生み,月の神を生み,その次に蛭児を生んでしまうのだ。これは,船に乗せて風に任せて捨ててしまった。

 学者さんの説によれば,第1子であるアマテラスは,なぜ生み損ないとして棄てられなかったのだろうか。なぜ,第3子の蛭児が棄てられたのだろうか。

 まったく理解できない。

 第5段第2の一書にも蛭児が出てくる。

 しかしここには,蛭児が生まれた根拠がはっきりと叙述されている。イザナキとイザナミが柱を巡ったときに,「陰神先づ喜の言を発ぐ(あぐ)。既に陰陽の理(ことわり)に違へり。所以に(このゆえに)」今蛭児を生むと。

 蛭児は,陰陽理論に従わなかったからこそ生まれたのであり,第1子であることとはまったく関係がない。「叙述と文言」自体が,そう語っている。


神話学者さんの筋悪(結論)

 「叙述と文言」を軽視し,日本書紀をきちんと読み込んでいない学者さんは,たちまち破綻をきたす。

 「胞」を第1子と勘違いし,それを喜ばなかった理由として,第1子は生み損ないになるという理論(と言うよりも,お勉強で得た知識)を立てて,勝手に付け加えた結果が,これだ。

 第4段本文の,「叙述と文言」に戻ろう。

 確かに初めは,遘合の方法を間違えた。
 しかし,遘合をする前に直ちに修正し,遘合に至っている。

 ちゃんと,自分たちで修正してるじゃないか。

 だから,ここでは生み損ないは生まれない。原理的に生まれるはずがない。
 古事記によれば,わざわざ「天つ神諸」に,「太占」で占ってもらったのである。

 第4段本文の「叙述と文言」は,生み損ないが生まれないようにできている。ただ単に,初めに母体から出てきた「胞」を,喜ばなかっただけだ。

 筋悪の学者さんたちは,こうした「叙述と文言」を軽視して(と言うより,ろくに読みもしないで),ごちゃごちゃ議論を始めてしまったわけですねえ。

 日本書紀をきちんと読まず,古事記との区別もしないで,たまたま自分が研究したことや,断片的な知識を強引に当てはめて理解しようとする,学問的態度を放棄した議論としかいいようがない。


日本神話の読み方を考える(神話読みの神話知らず)

 以上,延々と検討してきた。

 個人的には,こんなつまらないことには,かかわりたくない。私の,「日本神話を読み解く」という目標からすれば,とても非生産的だ。

 はっきり言って,時間の無駄。

 しかし,方法論というか,根本的な総論としては,避けて通れない論点だと思う。だから,延々批判してきたのだ。

 こんな杜撰なことがまかり通ってきたから,日本神話論が「論」のままであり,「学」になっていないのである。

 文献学という観点からして,恥ずかしくないだろうか。

 神話を文献として読もうとしない人たちが,いかなる誤りを犯すか。よくわかったと思う。比較神話学もいいが,あくまでも文献が基本である。

 いや,日本神話を文献学の対象から外してしまった戦後の学者さんたちの誤りが,ここに集約されているのではなかろうか。
 日本神話の「叙述と文言」をろくに読みもしないで,日本神話を語ろうとする。

 「神話読みの神話知らず」。


日本神話の読み方(その1)・「叙述と文言」を重視せよ

 なぜこんな誤りを犯したのか。どうすればよいのか。

 第1に,叙述や文言の重視だ。

 戦前,日本神話は,「神国日本」のために利用された。

 いまや,日本神話の解釈は,民俗学や神話学などの周辺学問の助けを借りなければ,学問にならないようだ。
 日本神話は,文献学の対象から放逐された。

 だから皆さん,文献としての日本神話を軽視している。それどころか,日本書紀編纂者をはじめとした古代の人々を蔑視している。

 混乱があって当たり前,
 ここで,こんな造作をしたのサ,と平気で言う。
 筋が通らなくなると,ここは伝承の誤りであるなどと,平気で片付ける。

 実際に,そんな書物がごまんとあるのだ。

 その結果,自分たちが,文献から離れた,新たな神話を作っていることに気付かない。これが日本神話だと言って,平気で世間に流布している。

 これが日本神話に対する冒涜だとは,だれも考えていない。


日本神話の読み方(その2)・日本書紀をまず読むべし

 じつは,戦前にゆがめられたのは古事記であり,一見複雑な日本書紀の神話は,当時の官僚や政治家たちには理解できなかった。

 あとでたっぷり述べるとおり,日本書紀の神話は,じつは,アマテラスもタカミムスヒも,きちんと位置づけられていない。

 主観を離れて,古来の神話伝承を,淡々と編集している。
 ここにこそ,古来の神話伝承がある。

 一方,古事記は,意図的に,アマテラスとタカミムスヒをくっつけてしまった。
 並立神だなんて言ってるが,決して,並立の「叙述」ができていない。いい加減なものである。

 だからこそ,日本書紀の神話を軸に,日本神話を考え直す必要がある。

 日本書紀の神話は,そうした作業に十分耐えうる内容をもっている。材料も与えてくれる。


日本神話の読み方(その3)・日本書紀編纂者を信頼すべし

 日本書紀編纂者は,現代で言えば,文学部出身者というよりも,法学部出身者たちだった。律令国家黎明期の,優秀な律令官僚だった。律令国家の手本,中国からの渡来人系もいた。

 だから,文学部的視点からではなく,法学部的視点から叙述を整理している。

 人間は,インプットとアウトプットという単純な事務作業さえ,満足にできない。
 対象を,正確に表現することさえ,ままならない。
 だから,いつまでたっても争いごとが絶えないし,意見がてんでんばらばらだ。

 対象をゆがめることなく把握し(頭の中にインプットし),整理し,選択し,再構成し,編纂する(アウトプットする)こと。

 これが,官僚に求められる能力である。
 これができるから,東大法学部卒の官僚が,いまだに,キャリアとして優遇されるのだ。

 日本書紀編纂者は,きっちりと,キャリアとしての仕事をしている。


日本神話の読み方(その4)・文学部的情念は捨てるべし

 古事記の,ヤマトタケルの歎きの場面などを根拠に,日本書紀はレベルが低い,古代人は古事記においてすでに文学を成立させていたのだ,と主張する人が必ずいる。

 しかし,文学と歴史は違う。

 たとえば,歴史上の「事実」を材料に,学問上の制約にとらわれないで想像をふくらまし,何とでも言えるのが,歴史小説である。
 文学部的世界は,自由気ままである。

 ま,歴史家が資料不足で言えないことを,直観で,ばしっと言い当てちゃうのが,真の歴史小説家だとも言えるのだが。

 文学部的情念というのは,怖い。飛躍があるから怖い。

 私は,日本神話を語るのに,文学部的情念を,「とりあえず」無視する。それは,日本神話を「論」から「学」にするためには不要であり,むしろ迷惑だからだ。

 たとえば,「古事記偽書説」をめぐる論争がある。

 この論争で指摘されている問題点だけでも大変なことであるのに,古事記のおかしさを最終的に認めない人。

 そうした人たちは,古事記の情念の世界に引き込まれてしまうのであろう。古事記序文を偽書と認めるのに,全体としての古事記はやはり古来の偉大な文献だという人は,結局,古事記に表れている,文学部的情念の世界に戻っていくのであろう。

 その情念の世界は,私に言わせれば,「子供相手のお伽噺の世界+歌の世界」にすぎないのだが。
 それ以外は,すべて日本書紀の「叙述と文言」の方が勝っている。


日本神話の読み方(その5)・日本書紀の文飾をことさら言う「愚」

 もうひとつ。

 日本書紀には,中国文献による文飾が多い。古来の神話伝承そのままが残されているのではない。だから,日本書紀は信用できない。

 そんな俗説がある。

 はっきり言って,こんな俗説に惑わされているから,日本神話論は,いつまでたっても進歩しないのだ。「論」が「学」にならないのだ。

 日本書紀と古事記の,どちらが素朴かという議論は,ここではやめよう。

 もちろん,日本書紀に「文飾」はある。

 しかしそれができるのは,中国文献を身につけて,詩文も自由に操れた,当時の知識人たる証明であり,日本書紀の神話を捨てる理由にはならない。

 現代で言えば,アメリカの映画が日本ではやり,日本の漫画が海外ではやるのと同じことだ。
 文化が浸透していく途中の,一側面に過ぎない。

 「文飾」,「文飾」と言って日本書紀を切り捨て,日本書紀編纂者の賢さに気づかない人は,文化がわかっていないのではないかと思うくらいだ。
 くどいようだが,「文飾」という当時の文化の一側面にアレルギー反応を起こす人は,文化というものの「ありよう」が,本当にはわかっていないのではないか。

 ま,それはいいのだが,いずれにせよ日本書紀の「文飾」部分は,あまりにも単純でわかりやすい性質のものだから,はるか昔から,どこが「文飾」かが明らかにされてきた。
 だから,日本書紀を学問するのに,何の障害もない。

 逆に,わずか8年の違いしかないのに,「文飾」も自由にできず,「文飾」どころか,論理矛盾や意味の通らない「叙述」など,ライターとしての基本さえできていない古事記ライターに,私は首をかしげてしまうのだ。


日本神話の読み方(その6)・ヤマトタケルを考える

 情念について言えば,たとえば,有名なヤマトタケル。

 日本書紀におけるヤマトタケルは,天皇の命令に素直に従う将軍だ。古事記におけるヤマトタケルは,天皇はオレを殺す気か,などと言って悩む人間だ。

 古事記のヤマトタケルには,情念がある。

 世上,古事記の方が評価が高いが,私はそうは思わない。

@ 人間の情念を扱う小説的世界が成立するのは,新しい。個人の感情を中心に話をまとめるのは,個人の発見と自覚がなければできない。
古事記は,新しいのだ。

A 天皇の絶対性。律令国家の成立は,天皇の絶対性確立の歩みである。天皇号の成立とともにあった。
そんなとき(712年)に,天皇はオレを殺す気か,などという小説が許されたのだろうか。
神武天皇以降の物語は,反逆者を殺す歴史だ。
現に古事記があるから許されたのだ,などと居直るようでは,学問にならない。そんな人たちは,しょせん縁なき衆生だ。

B 私は,平安時代でさえ,許される叙述ではなかったと考えている。
仮に712年に成立できたのだ,許されたのだとすると,それは,極めて天皇に近い,ごくごく一部の特殊な人間に許されただけであろう。それが古事記だ。


日本神話の読み方(その7)・古事記は情念の塊

 古事記は,情念の塊だ。

 ヤマトタケルだけでなく,アマテラスを「天照大御神」と一貫して呼ぶような,別の情念もある。
 「日神」とか「大日霎貴」とか「天照大神」とか,日本書紀のようには呼ばない。
 歌物語という情念もある。

 後でたっぷりと検証するが,同じ「国生み」でも,古事記の国生みは,ありとあらゆる所に神様がおわしますという意味での,「神国日本」の国生みである。

 これも,一種の情念である。

 その他,古事記を愛読している人ならば,わかるだろう。

 そうした情念は,極めて文学部的な情念であって,学問としてはどうかな,邪魔にならないかな,と思うような情念である。

 だから古事記は,危うい。情念がある分,その分,片寄っている。
 だから古事記には,一種の臭みがある。古事記ライターの体臭が漂っている。

 私は,「くせ者古事記」と呼んでいる。


日本神話の読み方(その8)・古代の人をさげすむ人たち

 話は変わるが,神々のお話を,何か別世界の,不思議なお話としかとらえていない人も,多いのではなかろうか。

 学者さんにさえ,そうした心の底が見えることがある。
 日本神話に関する著作を読んでいると,心の底では,どうせ無知蒙昧な人々が作った話だろうという,古代人を卑下した気持ちが透けて見えることがある。

 本当に嫌になるのは,矛盾があって当然だ,何かあったらそれは誤記だ,歴史の中で落ちてしまったのだろう,削除されたに違いない,造作だ,などと言って,平然と切り捨てる学者さんだ。

 結局,古代人や神々の話を,心の底では馬鹿にしている。最後のギリギリのところで,そんな心性が露呈してしまうのである。

 逆に,日本神話の「叙述と文言」を無視して,平然と,自らが勉強した観点から日本神話を「判定」する人たち。
 これもまた,古代人を尊重しない人たちだ。


日本神話の読み方(その9)・古代の人をさげすむな

 古代人は古代人で,神々の話を,大真面目に考えていた。

 古代人に科学はない。情報が乏しいので,政治的決定にせよ何にせよ,どちらかに決定することを迫られた場合,情報分析に基づいた論理的決定ができない。どちらがよりましか,という決定さえできない。

 しかし決定は迫られる。

 だから,誓約(うけい)や神判が必要になるのだ。
 人間は,なぜこうするのかという根拠を求めたがる。戦って死ぬ場合でも,死ぬ意味がなければ戦場に赴けない。戦場に赴く理由を与えてやる必要がある。

 だからこそ,神が必要になる。

 神を祭ることは政治と密接不可分だ。神意を聞くことが,政治の一部である。それが,祭政一致の政治体制だ。

 これをしっかり把握すれば,古代人を笑う気にはなれない。
 反面,古代の人たちに巻き込まれずに,冷静に見ることができる。

 つい数10年前,日本も同じことをしていた。
 そして今でも,自らの判断を,神や,神と思われる人間に委ねてしまう人々がいっぱいいる。


日本神話の読み方(その10)・古事記ではなく日本書紀

 誤記だ,造作だ,などと言って逃げたくなる気持ちは,わからないでもない。

 古事記だけを読んでいると,そうしたくなる。
 それは,古事記に関する書物が,古事記を論じようとして始まったのに,えてして,古事記の内容を延々と紹介して終わってしまうことからもわかる。

 しかし,日本書紀を読んでいると,決して,そんな投げやりな気持ちにはなれない。
 さすがに,「キャリア官僚」が作っただけあって,引き込まれる。

 私は,はるかに優秀で賢く,教養のある人たちが,日本書紀の神話を編纂したのだと思う。

 前述したとおり,応神天皇即位前紀の,「然れども見ゆる所無くして,未だ詳ならず」,と書き残すことができる人間。
 これは,文献を渉猟した証であり,学問をした人が書き残す文章だ。
 古事記には,これが,まるっきりない。それどころか,逆方向への改悪がある。

 古事記を読んでいては,進歩がない。日本書紀だ。


日本神話の読み方(その11)・権威ある素晴らしい文章だとは考えないこと

 こうした態度で,日本神話を読んでみる。

 少々日本書紀を宣伝しすぎたようだが,とにかく,「叙述と文言」だけである。自分の眼で,素直に読んで,自分の眼で判断することだ。

 一度,自分の頭の中から,権威を取り払ってみる。そうした眼で日本神話を読んでみると,いろいろなことがわかる。

 その時初めて,日本書紀と古事記との関係がわかるだろう。

 公権的公定解釈の歴史書,日本書紀があるのに,なぜ古事記があるのか。
 古事記は,いったい,いかなる書物なのか。

 それを知るには,一度でいいから,古事記の権威を無視しなければなるまい。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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