日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
さて,こうした古事記だが,古事記の成立は,古事記ライター自身が語っているように,伊勢神宮成立後だ。 それも,内宮も外宮も,きちんとできた後である。 古事記の天孫降臨には,古事記ライターによると思われる,神々の説明が加えられている。 鏡(アマテラス)とオモイカネは「五十鈴の宮に拝き祭る」(後の伊勢神宮の内宮)。「次に登由宇氣神(とゆうけのかみ),こは外宮の度相(わたらい)に坐す神ぞ」。 ここで,伊勢神宮の内宮と外宮に祭られている神の説明がなされているのだ。 しかも,そこに祭られている神がよくわからなくなったので,確認しておくよ,というような書き振りである。
で,日本書紀によると,有名な伊勢神宮の起源はこうである。 「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ」。 「其の祠を伊勢國に立てたまふ」は,内宮である。 日本書紀は,内宮の成立を言っているにすぎない。
で,学者さんに言わせると,「『外宮』の名称は平安中期以降にみえるところから,『外宮之』を後世の誤入とみる説もある。」ことになっている(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,116頁)。 「外宮」という「文言」は,平安中期以降の「文言」であり,712年の段階で,確認できないのである。 しかし,この学者さんの説明も,ちょっと変だ。 「外宮之」がおかしいのであれば,この,伊勢神宮の内宮と外宮の成立を語る「叙述全体」が,「後世の誤入」と言うべきである。 この部分を「叙述した者」は,伊勢神宮の内宮と外宮の成立を語ろうとして,わざわざ,何行にもわたる文章を書いたからだ。
そして,この「叙述全体」が「後世の誤入」となると,天孫降臨の叙述全体が,意味をなさなくなる。 五伴緒,三種の神宝,さらにオモイカネらを「副へ賜ひて,詔りたまひしく,『これの鏡は專ら我が御魂として,吾が前を拜くが如いつき奉れ。次に思金~は,前の事を取り持ちて,政せよ』とのりたまひき。」とあって, ここから直ちに,先の,鏡(アマテラス)とオモイカネは「五十鈴の宮に拝き祭る」(後の伊勢神宮の内宮)。「次に登由宇氣神(とゆうけのかみ),こは外宮の度相(わたらい)に坐す神ぞ」,につながっていくのだ。 「外宮之」だけを「叙述全体」から切り離すことはできない。 そして,「天照大御神」という表記。祝詞の言い回しを多用した文体。 これが古事記だ。
672年の壬申の乱におけるアマテラスは,たまたま天武天皇が,「望拜」(天武天皇元年6月)しただけの神である。これ以上の活躍はない。 「大御神」どころか,地方の,ある1つの神という程度の扱いだ。 そして後に述べるとおり,アマテラスは,政治的意思決定過程から放逐され,地方をさまよった挙げ句,伊勢にたどり着いた神にすぎない(崇神天皇6年,垂仁天皇25年3月)。 その間つけられていたのは,女性ひとり。 たんなる,神の「おもり役」にすぎない。 垂仁天皇25年3月の時代に,やっと伊勢にたどり着き,672年の壬申の乱では,たまたま天武天皇が「望拜」しただけ(天武天皇元年6月)。 この程度の神だったわけだ。
祝詞の言い回しの多用が,古事記の特徴である。 では,祝詞はいつ成立したのか。 日本書紀第7段第3の一書に,アメノコヤネ(天児屋命)が「太諄辭(ふとのりと)」を奏した旨の記載がある。 天智天皇9年3月に祝詞が出てくる。 このころになると,祝詞の内容が整ってきたようだ。 しかし,内容が確認できるのは,延喜式の祝詞(927年)になる。かなり時代が下る。ただ,弘仁式にも祝詞があったと「推定」すれば,820年となる。
古事記に残されたものは,祝詞として完成されたものや,逆に,祝詞の言い回しを面白がって多用したものなどである。 だから,単に祝詞が成立しただけでなく,その後,それを使って遊べる精神が醸成されないと,古事記における祝詞のような言い回しは出てこない。 こうした,「自由自在な」用い方,言語における「遊び」ができたのは,いったいいかなる時代の人なのか。 厳粛で定型的な祝詞の成立があって,その後,それを利用した「遊び」や,諧謔精神が生じたと考えるのが筋であろう。
学者さんの中には,文字を知らぬ古代の人々の「口承伝承」が古事記である,と主張する人がいる。 しかし,祝詞の言い回しを多用する古事記が,それほど古いものだとは思えない。 祝詞は,朝廷の(後世いう)神祇官を中心に発達した文章である。神前の儀式における,厳粛で定型的な言い回しである。 ところが,古事記の「祝詞のような言い回し」は,本来の厳粛さを,突き抜けている。 天孫降臨の段で,天八重雲を押し分けて,「稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて)」というのは,わかる。 しかし,スサノヲが高天原を追放される場面で,「神逐らひ(かむやらい)逐らひき」というのはまだしも,スサノヲが根国を訪問してネズミに助けられる場面で,「内はほらほら,外はすぶすぶ」というのは,もはや祝詞の厳粛さとは無縁だ。 ここには,祝詞の表現を前提にした,諧謔や冗談の精神の芽生えさえある。文章を,面白おかしく作ろうという発想がある。 「口承伝承」とは異なる世界があるのだ。
673年に天武天皇即位。 そこからアマテラス神話が称揚されたとしても, 712年に古事記が成立することになる。 わずか40年間に,こうしたことが本当に起こったのだろうか。 神話の公権的公定解釈である日本書紀は,720年の時点で,アマテラス神話さえ確立させていない(これについては,「日の神の接ぎ木構造」,「アマテラス神話は確立していない」などで,後述する)。 古事記は,返す返すも,不思議な書物である。
論点はこれだけではない。今後,この論文のあらゆるところで,「古事記の不思議さ」を指摘していくことになる。 ここでは,もう1点だけ取り上げてみよう。 応神天皇の元来の名は,ホムタワケだった。その由来を巡って,日本書紀の応神天皇即位前紀に,興味深い叙述がある。 ある伝承は,角鹿(つぬが,今の敦賀)の笥飯大神(けひのおおかみ)が太子(ひつぎのみこ)時代の応神天皇と「名を相易へたまふ」。 すなわち,名前を互いに交換し,その大神は去来紗別神(いざさわけのかみ)を名乗り,応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)を名乗ったとしている。 ここからが日本書紀編纂者の推測になるのだが,だとすると,大神のもとの名は誉田別神(ほむたわけのかみ)であり,応神天皇のもとの名は去来紗別尊(いざさわけのみこと)だったのではないだろうか,と。 図示すると,こうなる。 もとの名 交換後の名 応神天皇 (イザサ?) ホムタワケ 笥飯大神 (ホムタ?) イザサワケ そして日本書紀編纂者は,こう付け加えている。「然れども見ゆる所無くして,未だ詳(つまびらか)ならず」。
じつは,笥飯大神は,神功紀(日本書紀)にも出てくる。 神功皇后は,クーデターに成功する。そして,政権が安泰になると,ホムタワケをして,笥飯大神に報告させる。 ホムタワケと笥飯大神の接点は,ここだけだ。 で,ここが重要なところだが,日本書紀編纂者は,名前交換の話を,決して,神功紀の笥飯大神の話に結び付けていない。 結びつけたくなるところではあるが,それをしない。 現代の我々がやってしまうように,笥飯大神の話(神功紀)とは別にあった名前交換の伝承を,一緒くたにして,「この名前交換の話は神功紀のこの話のことなのであろう」などとは,決してやっていないのだ。 ここが,学者らしいところだ。 だからこそ,伝承が,分散したものとして,ある。
古事記はどうか。 読めばわかるとおり,名前交換の話を,神功皇后がホムタワケを笥飯大神のところ報告にやった話の中で語っている。 古事記は712年成立。日本書紀は720年。 日本書紀編纂者は,こうした,伝承が結合したともいえる古事記の伝承を,なぜ採用しなかったのか。 それはともかく,720年の時点で,こうした結合した古事記の伝承があったとする。 日本書紀の分散的伝承と,古事記の総合的伝承と,どちらが古いのか。 総合されて統一された伝承が分散することはない。やはり,分散した伝承が総合化されていくのであろう。 だとすると,720年時点での古事記の伝承と日本書紀の伝承と,どちらが伝承の原形態を残しているかという比較はできる。 もちろん,日本書紀のほうが古いものを残している。
さて,こうした抽象的な議論はさておき,古事記の「叙述」がいかにいい加減かを指摘したい。 日本書紀の応神天皇即位前紀は,ホムタワケとイザサワケが,「名を相易へたまふ。」た伝承を伝えていた。 で,笥飯大神(気比の大神)は,古事記では,初めから「伊奢沙和気大神命(イザサワケ)」として登場する(仲哀記)。 そして,名前交換の話になる。 まず,イザサワケが,「吾が名を御子の御名に易(か)へまく欲(ほ)し。」 イザサワケの方が下手に出ている。名前を交換してくれたお礼に,「幣(まひ)獻らむ」,すなわちご馳走しようとまで言っている。
応神天皇即位前紀の「名を相易へたまふ。」という伝承を前提に読めば,交換により,ホムタワケがイザサワケになるはずである。 反対に,イザサワケはホムタワケになるはずである。 しかし,ホムタワケはホムタワケであり,応神天皇の幼名がホムタワケだったことは動かない。 古事記の叙述は,大矛盾をきたすのだ。
ホムタワケはホムタワケなのだから,これが名前を替えると,矛盾をきたす。 矛盾がないように解釈しようとすれば,イザサワケだけが名前を変えたと受け取るしかない。 イザサワケがホムタワケの名前をもらった,それがうれしくて,「名を易へし幣(まひ)獻らむ。」となり,ホムタワケがそれをよしとして,「御食津大神」と呼んだ(大神として尊敬はするが,自分に食事を奉ってくれる神であると,自分より一段下に置いた),と解釈するしかない。 すると,気比の大神の名称については,こうなる。 (かつて) (変更後) 古事記は, イザサワケ → ホムタワケ 日本書紀は, ホムタワケ? → イザサワケ ところが応神天皇即位前紀は,「日本書紀編纂時点で」,応神天皇の幼名がホムタワケであり,気比の大神の名前がイザサワケであるということから出発し,過去における名前交換を詮索しているのだ。 日本書紀編纂時点で(すなわち古事記編纂時点でも),気比の大神の名前がイザサワケだったという事実は,動かせない。 だとすると,いかように解釈しても,古事記の「叙述」は破綻していることになる。
私はこう考える。 古事記ライターは,気比の大神を,古事記編纂時点の名前であるイザサワケと呼んだ。この名前で登場させた。 そして,名前交換の伝承を書いた。 そして,その矛盾した結論はどこ吹く風。笥飯大神(気比の大神)が下手に出て,ホムタワケに奉仕したことが書きたかったのだ。 イザサワケが,栄えあるホムタワケの名前を欲しがって交換してもらい,そのお礼にご馳走してあげた,それくらいホムタワケはエライのだ,という方向に,話の筋がそれている。 だから,大矛盾などお構いなしなのだ。 これ以外,解釈しようがないと思うのだが。
私は言う。大矛盾どころか,これは,古事記全体の信用性にかかわる問題である。古事記は,この程度の書物なのである。 こんなちゃらんぽらんな伝承が,本当に信じられていたのだろうか。 信じられていたのさ,と言う人もいるだろう。 しかし,伝承というものは,「おじいちゃん,その話おかしいよ。」という子供のひとことで,洗練され,矛盾をなくしていくものである。 古事記のこうしたミスは,古来の伝承なんかじゃなかったことを示しているのだ。
そこで,初めて,注釈書を読んでみる(小学館・新編日本古典文学全集・古事記252頁。学者さんも,一応,おかしいとは思っているのだ。 3説ある。 @ 神が太子の名を自分の名として替える(神が太子の名をもらっただけ)。 A 神の名をもって太子の名に替える(太子が神の名をもらっただけ)。 B ともに名を交換する(お互いに交換)。 しかし,いずれも破綻しているのは,すでに検討したとおりだ。 この学者さんは,A説をとるようだが,ホムタワケ → イザサワケとなるのだろうか。 古事記の応神記は,品陀和氣命(ほむだわけのみこと)で登場する。次の仁徳天皇は,「品陀(ほむた)の日の御子」である。イザサワケではない。 ちなみに本居宣長は,@説のようである。しかし,日本書紀編纂者が,日本書紀編纂時点で,気比の大神をイザサワケと呼ぶ伝承がある事実から出発し,過去にさかのぼろうとしたことをどう考えるのか。あっという間に,暗礁に乗り上げるだろう。
さて,ここで日本書紀に戻って,「然れども見ゆる所無くして,未だ詳(つまびらか)ならず」と書いた,日本書紀編纂者の気持ちに立ち入ってみよう。 ホムタワケと名前を交換して,大神がイザサワケと名乗ったのだから,ホムタワケ=応神天皇のもとの名はイザサワケだったのか,というのが,日本書紀編纂者の疑問だった。 これに関する資料を,ひっくり返して調べたことだろう。 これはこれで,重要な伝承のはずだ。 ところが日本書紀は,この記事をまったく無視しているのだ。
これをどう考えるか。 @ 720年当時,古事記はなかった。 A 720年当時,古事記はあったが,日本書紀編纂者が見落とした。 B 720年当時,古事記はあったが,日本書紀編纂者が無視した。 このいずれかであろう。 Aは,あり得ないだろう。日本書紀編纂者は,当代一流の官僚であり,知識人であり,史書編纂という,律令国家草創期の国家的プロジェクトに抜擢された文化人である。 しかも,編纂者は複数である。政権の中枢にいて,知を独占していた人たちが,古事記を見落とすはずがない。 あり得るのは,Bだろうか。彼らは,古事記の叙述の,奇妙な杜撰さに気付いていたのだ。
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