日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第69 サルタヒコの登場


サルタヒコだけが降臨場所を知っているという第9段第1の一書の大矛盾

 さて,古事記では,前述した整理表のとおり,降臨する神が天子から天孫へ交代し,その天孫ニニギの素性を説明し,言依さし(天壌無窮の神勅に相当)を経て,いよいよサルタヒコの登場とあいなる。

 しかし,これはこれで,じつは簡略化したリライト版だから,古事記だけを読んでいても,神話伝承上の位置関係が,何もわからない。

 古事記の下敷きとなった,日本書紀第9段第1の一書を,まず理解しなければならない。

 「下敷きとなった」と言うと,抵抗がある人がいるかもしれない。

 だからここは,たんに,日本書紀第9段第1の一書と古事記とが同じ系譜の伝承に属するから,比較検討してみよう,と言っておこう。

 第9段第1の一書を読んでいて驚くのは,天孫がどこに降臨するのか決まっていないということだ。

 そして,突如登場するサルタヒコ(猿田彦大神)だけが知っているという大矛盾だ。


第9段第1の一書のへんてこりん

 天孫ニニギは,五部神を従えて出発した。
 ところが,突如,サルタヒコが出現する。

 アメノウズメ(天鈿女命=あめのうずめのみこと)は,サルタヒコに,「皇孫何処に到りましまさむぞや」,と問う。
 サルタヒコは,「天神の子は,当に(まさに)筑紫の日向の高千穂のクジ触峯に到りますべし」,と答える。

 そうしてサルタヒコは,「先の期(ちぎり)の如くに」,すなわち先ほどの約束のとおり,そこに降臨させるのだ。

 どこか,変じゃないか。


目的地も知らずに出発したのかねえ

 アマテラスは,すでに「さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆え(さかえ)まさむこと,当に天壌(あめつち)と窮り(きわまり)無けむ」と述べて,天孫ニニギを送り出しているのだ。

 いわゆる,天壌無窮の神勅だ。
 葦原中国で永遠に栄えよという,激励の言葉だ。

 だから,常識で考えれば,天孫降臨の地は,すでに決まっているはずだ。

 あそこへ行って永遠に栄えよという,「あそこ」が決まっていないなんて,あり得ない話だよね。

 とにかく,どこへ行くかわからないまま,子供や孫を送り出す人は,どこにもいないでしょう。これは,断言できる。

 でも,叙述はそうなっていない。天孫ニニギは,どこへ行くか知らないまま旅に出たのだ。
 翻って考えると,天壌無窮の神勅も,これでメッキがはげてしまう。いったい何だったんでしょうね。これは。


なぜサルタヒコは案内役なのか

 これを,いったいどう考えたらよいのだろうか。

 私は,考えに考え抜いて,こう考えた。

 サルタヒコは,伊勢周辺で勢力のある大神だった。
 それは,国つ神だった。古事記では,「僕は国つ神」と名乗っている。

 そこにアマテラスがやって来て,五十鈴川の川上に鎮座した。何度か述べた,日本書紀垂仁紀の,鎮座物語だ。

 だからこそサルタヒコは,時の支配者が皇祖と讃えるアマテラスの孫が降ると聞けば,何をおいても迎えに行かなければならない。

 神武天皇に対する珍彦(うづひこ)のように,忠臣を自ら演じて,たとえ故郷と正反対の地であろうとも,かいがいしく案内しなければならない。

 サルタヒコの物語は,そうした創作物語にすぎないのだ。

 伊勢の国つ神がわざわざ降臨地の九州まで案内して,伊勢に戻ってくるのは,そうした事情があるのだ。


天孫ニニギはなぜ降臨地を知らないのか

 伊勢にやって来た天神で「大神」,アマテラスの孫を丁重に案内することこそ,忠臣たるべき伊勢の「国つ大神」サルタヒコに求められたのだ。

 それは,主君の幼い子や孫を旅に連れて行く,忠実な家臣の役割だ。

 雅(みやび)な方々は,現代でも,旅のスケジュールなど,自分でたてません。そんなこまごました雑事は,下々の者,卑しき「臣(やっこ)」(天皇の前で臣下が自分を指していう,日本書紀によく出てくる表現)がすることだ。

 だからこそ,天孫ニニギは行き先を知りません。

 行き先は,案内役を割り当てられた忠臣,サルタヒコが知っていればよいのだ。


古事記ライターは矛盾を解決するために降臨前にサルタヒコを登場させた

 だが,やはりおかしい。

 私は上記したように解決したけれども,それでもやはり,一応の説明にすぎない。1つの物語として第9段第1の一書を評価すれば,しこりが残るのは否めない。

 それが,物語読者としての,率直な感想だろう。

 古事記ライターはどのように解決したか。
 これがまた,泣けてくるほど素晴らしいのだ。

 アメノウズメの「皇孫何処に到りましまさむぞや」という問いと,これに対するサルタヒコの回答はネグって,降臨地を知らないという点は隠した。

 そしてサルタヒコを,純粋なる道案内役,神武天皇に対する珍彦(うずひこ)の立場になぞらえて設定を変更し,しかも,実際の天孫降臨が始まる前にサルタヒコを叙述してしまうことで解決したのだ。


古事記のサルタヒコは内容スカスカの神

 古事記のサルタヒコは,単なる道案内役だ。その役割にリファインされている。

 第9段第1の一書では,出発しようとした天孫ニニギに立ちはだかるように出現する,まさに国つ「大神」である。
 これをどうにかしないと,天孫降臨できないというほどの登場の仕方である。

 古事記のサルタヒコは,そんな国つ神としての威厳もへったくれもない。

 「天つ神の御子天降ると聞きつる故に,御前に仕へ奉らむとして,参向へ(むかえ)侍ふぞ」という神だ。

 アッシー君(死語かもしれない。)みたいなもんだ。
 情けないヤツだ。


道案内役も揃ったところで天孫降臨が始まる

 こうした道案内役も揃ったところで,天孫降臨が始まる。

 国つ神サルタヒコの神秘性など,微塵もない。

 古事記のサルタヒコなど,愚の骨頂だ。ここまで内容スカスカにするか。

 ついでに言えば,猿女君の由縁話は,切り離さざるを得なかった。これは,道行き途中のサルタヒコとアメノウズメとのやりとりから成り立っているので,天孫降臨の前にもってくるわけにはいかない。

 古事記ライターは,だからこれを切り離し,天孫降臨後に置いたのだ。

 このように,第9段第1の一書と古事記とを読み比べると,古事記ライターが,第9段第1の一書をリライトしたという確信がわいてくる。


古事記のサルタヒコは天皇万歳の思想に取り込まれて光り輝く神になっている

 さて,その古事記のサルタヒコが,なんとも面白い。

 サルタヒコは,「天降りまさむとする時に」登場する神だ。この神が登場し,道案内役が決まってから,「ここに……天降したまひき」となる。

 古事記におけるサルタヒコは,その国つ神としての独自性を失い,「天孫降臨の準備段階」に組み込まれてしまった神にすぎない。

 だからこそ,古事記のサルタヒコは,「上は高天の原を光し(てらし),下は葦原中国を光す神」に変貌している。

 ひとことで言えば,光り輝く高貴な神。神聖であるべき天孫降臨を,汚してはならないのだろう。
 薄汚い国つ神が登場しては,まずいのだろう。

 こうして,古事記のサルタヒコは,高貴な神になっている。
 神話の改変だ。


第9段第1の一書のサルタヒコは威風堂々

 しかし,第9段第1の一書は,まったく違う。

 この異伝自体が,アマテラス中心主義から作られた新しい伝承なのだが,それでも,古事記よりは古いから,まだまだ国つ神の風格を伝えている。

 サルタヒコは,鼻が長く座高も高く身長があり,口とお尻が光り,眼は八咫鏡のように照り輝き,まるで赤いほおずきのようだ。

 八岐大蛇を思い出す。

 醜怪な顔をもつ異形の存在。
 それはそれで,力強いという褒め言葉ともとれる。悪太郎という呼び名が,「力強い」という褒め言葉のように。


本来のサルタヒコは威風堂々のはず

 思えば,日本書紀編纂者は,天つ神や天皇については,眉目秀麗に異様なまでにこだわっていた。

 登場する女性ひとつ取ってみても,「顔良し」,ですませるような感覚だった。

 一方,国つ神については,たとえ大神であろうとも,眉目秀麗か否かという関心さえない。決して褒めません。描写しようとさえしない。

 そうした意味でサルタヒコは,やはり貶められているのかもしれない。

 しかし,その醜怪な姿のまま,天孫ニニギの前に立ちはだかる。

 ここで思い出すのは,葦原中国の神々を,「邪神」「邪鬼」と呼んでいた第9段本文だ。
 サルタヒコは,明らかに葦原中国の神だ。しかも,描写がここまで具体的であるからには,元来,こうした異形の神として信仰されていたのかもしれない。

 そして,「大神」という称号を与えられているからには,多くの人がいつき祭っていた,勢力の強い神だったのだろう。


古事記ライターの悪意

 ところが古事記は,こうしたサルタヒコの描写を,ばっさりと切り捨てる。そして,まったく逆に,光り輝く高貴な神だと言うのだ。
 自分の都合によって。

 この落差。

 なぜこんな描写をしたのだろうか。

 それはもはや明らかだろう。
 栄光ある天皇の先導役。栄えある役割を仰せつかる神。そうした神は,やはり光り輝いているべきなのだ。

 ここにも,リライトの痕跡がある。

 なお,容貌魁偉なサルタヒコが「古事記にまったく見えていないのがちょっと不思議」という学者さんは,古事記ライターの気持ちがわかっていないのである(西郷信綱・古事記注釈・第4巻・筑摩書房,20頁)。


アメノウズメの描写の仕方

 さて,立ちはだかったサルタヒコ。

 タカミムスヒとアマテラスは,「天宇受賣神(あめのうずめのかみ)」に,我が御子が天降ろうとする道にいるのは誰か,聞いてこいと命ずる。

 「天宇受賣神」は,後の猿女の君の縁起話の場面では,「天宇受賣命」,すなわち「命」だ。ついでに言うと,「サルタヒコ」も,「大神」になる。

 それは,もういい。こんなことを指摘するのが,もう嫌になった。

 第9段第1の一書でのアマテラスは,「往きて問ふべし」と命令するだけだ。
 これを受けてアメノウズメは,サルタヒコに,「天照大~の子の幸(いでま)す道路に如此(かく)居す者有るは誰ぞ。敢て問う。」と言う。

 ところが古事記では,「故,專(もは)ら汝往きて將に,『吾が御子の天降(あまくだ)らんと爲す道に,誰ぞ如此(かく)して居る』と問えと詔らしき。」である。

 すなわち,第9段第1の一書でのアメノウズメの質問が,古事記では,タカミムスヒとアマテラスの命令に取り込まれているのだ。

 これもまた,長い文章をまとめてリライトした結果なのだろう。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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